隣の変な人
神谷優人は疲れていた。
朝七時に家を出て、帰宅したのは午後十一時四十分。
残業。
会議。
残業。
謝罪。
残業。
ついでに残業。
人類はなぜ働くのだろう。
そんなことを考えながら、優人は夜道を歩いていた。
向かう先は、自宅。
正確には自宅と呼ぶには少し悲しくなる、築年数だけは立派な木造アパートである。
名前は、おんぼろ荘。
初めてその名前を見た時、優人は冗談だと思った。
だが、看板には確かにそう書いてあった。
しかも手書きではない。
ちゃんとした看板だった。
住み始めて二年。
今ではもう笑えない。
家賃が安い。
おんぼろ荘の良いところは、それだけだった。
壁は薄い。
階段はきしむ。
夏は暑い。
冬は寒い。
雨が強い日は、どこか知らない場所から水の音がする。
それでも優人はここに住んでいる。
理由は一つ。
家賃が安いからだ。
それ以上でも以下でもない。
おんぼろ荘の外階段に足をかける。
ぎし、と音が鳴った。
今日もこの階段は元気に死にかけている。
優人は手すりに軽く触れながら二階へ上がった。
早く部屋に入りたい。
風呂に入りたい。
寝たい。
明日のことは考えたくない。
そんな小さな願いは、二階の廊下に出た瞬間、あっさり砕けた。
「おーい」
聞こえない。
「おーいって」
聞こえない。
「無視か?」
聞こえている。
優人は足を止めた。
止めたくなかった。
本当はそのまま自分の部屋へ入りたかった。
だが、声は明らかに自分へ向けられている。
無視し続けるには、距離が近すぎた。
202号室の前。
女が座り込んでいた。
隣人だった。
名前は知らない。
聞いたこともない。
そもそも、まともに会話したこともない。
ただ、存在だけは知っている。
ピンク色の髪。
黒っぽい服。
妙に派手な見た目。
昼に見かける時は大体眠そうで、夜に見かける時は大体元気。
生活リズムが人類とずれている人。
優人の中での認識は、その程度だった。
「何ですか」
「財布なくした」
「そうですか」
「金貸して」
「嫌です」
即答だった。
考える必要すらなかった。
「早いな」
「当たり前です」
「隣人だぞ」
「だからです」
「ケチ」
「初対面みたいな人にお金は貸しません」
「二年くらい隣人じゃん」
「会話したのはほぼ初めてです」
「じゃあ今日から友達ってことで」
「嫌です」
女は口を尖らせた。
不満そうだった。
不満なのはこっちだ。
優人は鍵を取り出す。
自分の部屋は201号室。
目の前だ。
あと数秒で安全圏に入れる。
そう思った時だった。
「腹減った」
嫌な言葉が聞こえた。
優人は鍵を差し込む手を止める。
「そうですか」
「二日くらい何も食べてない」
「本当ですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「昨日食べたかもしれない」
「食べてるじゃないですか」
「じゃあ一日かも」
「一日でも問題です」
「でしょ?」
「いや、こっちに言われても」
会話が成立しない。
優人は頭痛を覚えた。
こういう人間とは関わらない方がいい。
経験上、分かっている。
会社にもいる。
自分で問題を起こしておきながら、なぜか周りが助ける前提で動く人間。
優人はそういう人間が苦手だった。
苦手というか、嫌いだった。
「なあ」
「何ですか」
「死ぬかも」
「死にません」
「たぶん」
「その言葉、便利ですね」
女はケラケラ笑った。
財布をなくし、金もなく、腹も減っている人間とは思えない余裕だった。
優人は部屋へ入ろうとする。
これ以上は駄目だ。
関わったら負ける。
そう思った瞬間。
ぐぅぅぅぅぅ。
静かな廊下に、なかなか立派な音が響いた。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちる。
女は少しだけ視線をそらした。
「今の聞いた?」
「聞きました」
「最悪」
「そうですね」
「そこは聞こえなかったって言うところだろ」
「聞こえたので」
「真面目か」
女はそう言って笑った。
笑っていたが、顔色は少し悪い。
化粧なのか何なのか分からないが、目元も疲れているように見えた。
優人は鍵を握ったまま立ち尽くす。
帰ればいい。
部屋に入ればいい。
自分には関係ない。
財布をなくしたのも、飯を食べていないのも、全部この女の問題だ。
そう思っている。
思っているのに。
「……近くのコンビニなら、まだ開いてますよ」
「財布ないって言ったじゃん」
「知ってます」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
「交番に行くとか」
「腹減って動けない」
「さっきまで普通に喋ってましたよね」
「喋る力と歩く力は別腹」
「別腹の使い方がおかしい」
女は床に座ったまま、こちらを見上げてくる。
図々しい。
かなり図々しい。
しかも悪びれない。
優人は深いため息を吐いた。
十分後。
優人はコンビニにいた。
なぜだ。
本当に分からない。
おにぎり二個。
お茶一本。
合計四百三十円。
今月の食費が少し減った。
会社で使う昼飯代をどこかで削ることになるかもしれない。
何をしているのだろう。
疲れた会社員が、名前も知らない隣人に飯を買っている。
意味が分からない。
自分でも分からない。
おんぼろ荘へ戻ると、女はまだ202号室の前に座っていた。
逃げていなかっただけ偉い。
偉いのかどうかは分からない。
「ほら」
優人がおにぎりとお茶を差し出す。
女は目を輝かせた。
「神じゃん」
「違います」
「救世主」
「違います」
「運命の人」
「違います」
「付き合う?」
「嫌です」
「じゃあ結婚で」
「もっと嫌です」
「ひど」
ひどいのはどっちだ。
女は笑いながらおにぎりを受け取る。
包装を開ける手つきは妙に早かった。
一口。
二口。
三口。
あっという間に半分なくなった。
「うま」
「良かったですね」
「やっぱ人間、米だな」
「そうですね」
「お茶もあるじゃん」
「喉詰まったら面倒なので」
「優しいな」
「違います」
「優しい奴はみんなそう言う」
「知りません」
女はお茶を飲み、満足そうに息を吐いた。
その顔だけ見ると、少しだけ普通の人間に見える。
ただし、座っている場所は廊下。
時刻は深夜。
状況は完全に普通ではない。
「それで」
優人は壁にもたれながら言った。
「財布はどうするんですか」
「明日考える」
「今考えてください」
「眠いし」
「俺の方が眠いです」
「あんた仕事?」
「そうです」
「社畜?」
「会社員です」
「似たようなもんじゃん」
「違います」
「違うの?」
「たぶん」
「便利だな、その言葉」
さっきのお返しのつもりなのか、女は楽しそうに笑った。
優人は疲れている。
疲れているはずなのに、なぜか部屋へ入るタイミングを逃していた。
おにぎりを食べている女を見下ろす。
名前も知らない。
年齢も知らない。
職業も知らない。
知っているのは、財布をなくして、金がなくて、腹が減っていて、かなり図々しいということだけ。
知らない方が良かった気もする。
「そういえば」
女が言った。
「何ですか」
「あんた名前なんだっけ」
「神谷です」
「下は?」
「優人です」
「ふーん」
興味があるのかないのか分からない返事だった。
聞いたのはそっちだろう。
優人は少し迷ってから聞き返した。
「君は?」
女はおにぎりを食べる手を止めた。
数秒考える。
さらに考える。
そこまで考えることなのか。
優人がそう思っていると、女は平然と言った。
「地雷ちゃん」
「本名ですか?」
「違う」
「じゃあ何ですか」
「地雷ちゃん」
「意味が分からないんですが」
「みんなそう呼ぶし」
「本名は?」
「秘密」
「なぜですか」
「別に」
「理由になってません」
「本名で呼ばれるの嫌いなんだよ」
女はそう言って、残ったおにぎりを口に放り込んだ。
少しだけ声の調子が変わった気がした。
ふざけているようで、そこだけはふざけていない。
優人はそれ以上聞くのをやめた。
この手の空気は、掘ると面倒臭い。
仕事でもそうだ。
下手に踏み込むと、余計なタスクが増える。
「だから地雷ちゃんでいいよ」
「そうですか」
「うん」
「分かりました」
優人は頷いた。
「地雷ちゃん」
「なに?」
「おにぎり代返してください」
「無理」
即答だった。
「なぜですか」
「金ないし」
「財布をなくしただけでは?」
「元からない」
「終わってますね」
「失礼だな」
「事実では」
「事実でも言っていいことと悪いことがある」
「お金を借りようとしている人が言う台詞ではないです」
「借りようとしてない」
「さっき貸してって言いましたよね」
「あれはお願い」
「同じです」
「細かい男はモテないぞ」
「別にモテなくていいです」
「強がるなって」
「本音です」
優人はもう一度ため息を吐いた。
この会話に終わりはあるのだろうか。
たぶんない。
終わらせるには、自分が部屋に入るしかない。
そう思った時だった。
廊下の奥から、ガチャリとドアの開く音がした。
優人と地雷ちゃんが同時に振り向く。
一人の女性が部屋から出てきた。
スーツ姿。
長い黒髪。
きちんとした立ち姿。
その表情は、少し困っていた。
どうやら今までの話し声が聞こえていたらしい。
「……こんばんは」
女性は控えめに声をかけてきた。
「あ、こんばんは」
優人は反射的に頭を下げた。
地雷ちゃんは廊下に座ったまま、片手を上げる。
「ばんわ」
軽い。
軽すぎる。
女性は二人を見比べたあと、少しだけ眉を下げた。
「夜なので、もう少し静かにしてもらえると助かります」
「あ……すみません」
言われてみればその通りだった。
深夜の廊下で、長々と話し込んでいる。
しかも相手はおにぎりを食べている。
冷静に考えると意味が分からない。
「いえ」
女性は小さく首を振った。
それから優人を見る。
「はじめまして」
丁寧に頭を下げた。
「黒崎です」
「神谷です」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
それだけ言うと、黒崎と名乗った女性は静かに部屋へ戻っていった。
ドアが閉まる。
廊下に静けさが戻る。
地雷ちゃんがぽつりと言った。
「怒られたな」
「怒られましたね」
「あんたのせい」
「違います」
「半分くらい」
「九割あなたです」
「じゃあ一割はあんた」
「なぜですか」
「おにぎり買ってきたから」
「意味が分かりません」
「私がおにぎり食ってなかったら静かだった」
「食べたでしょう」
「食べた」
悪びれる様子はなかった。
むしろ満足そうだった。
優人は自分の部屋の鍵を開ける。
今度こそ入る。
絶対に入る。
「じゃあ、俺は寝ます」
「うん」
「財布は明日ちゃんと探してください」
「気が向いたら」
「向けてください」
「うるさいなぁ」
「あなたの問題です」
ドアを開ける。
部屋の中は暗い。
狭い。
でも安全だ。
少なくとも廊下よりは安全だ。
「神谷」
背後から呼ばれた。
優人は振り返る。
地雷ちゃんは空になったおにぎりの袋を持ったまま、少しだけ目を逸らした。
「ありがと」
その声は、さっきまでより少し小さかった。
優人は返事に困った。
こういう時だけ普通になるのはずるい。
「……どういたしまして」
そう言って、優人は部屋に入った。
ドアを閉める。
鍵をかける。
ようやく一日が終わった。
はずだった。
だが布団に倒れ込んだあとも、優人の頭にはピンク色の髪の隣人が残っていた。
地雷ちゃん。
自分でそう名乗った変な人。
関わらない方がいい。
絶対にそうだ。
そう思いながら、優人は目を閉じた。
たぶん明日も、面倒なことになる。
そんな嫌な予感だけは、妙にはっきりしていた。




