18話 恋人
次の日の朝から、朔人はずっと落ち着かなかった。
授業を聞いていても、黒板の字は目に入るのに頭に残らない。
昨日の部室の空気が、会話が、凪の声が、何度も勝手に脳裏に蘇ってきた。
『困るよ』 『それだけじゃない』
そこまで言われて、まだ勘違いかもしれないなんて思うほど鈍くはなかった。
女の子と出かけるより、ハンバーガー屋で凪とネタを詰めるほうが楽しかった。
必要とされたいと思った相手が、もうずっと一人しかいなかった。
問題は、じゃあ自分がどうするか、だった。
放課後。チャイムが鳴った瞬間、朔人は鞄を掴んで立ち上がった。
「雪代、今日早」
「ちょっと用事」
それだけ返して教室を出る。
部室へ向かう途中でスマホを取り出し、一瞬だけ迷ってから短く打った。
『今日、先に店行って待ってます。話したいことあります』
既読はすぐについた。
『分かった。行く』
それだけの返信に、心臓の音がさらにうるさくなった。
駅前のハンバーガー屋は、いつも通り明るかった。
朔人は先にセットを買い、窓際のいつもの席に座る。
コーラの氷が溶けていく音を聞きながら、何度も入口を振り返った。
しばらくして、自動ドアが開いた。
凪が入ってくる。目が合った瞬間、朔人の喉が少し詰まった。
凪はトレーを持って席へ来た。
セットにバーガー二つ。さすがに今日はシェイクまではなかった。
「早い」
「珍しく」
凪が腰を下ろして、朔人を見る。
「……話したいことって、何?」
いつもなら、新作バーガーがどうとか、部活の愚痴がどうとか、そんな話から入る。
けれど今日は、そこを飛ばして本題が来た。
朔人は少しだけ息を吸う。
「昨日の続きです」
「……うん」
「部室で、最後まで聞けなかったやつ」
凪はすぐには答えなかった。
ドリンクのカップに触れた指先だけが、少し止まる。
「俺、昨日帰ってからずっと考えてました」
「何を」
「凪先輩のこと……っていうか、あの話のこと」
「……うん」
「最初は、彼女ができたら辞めるっていう条件があるから、相方として必要だから確認したのかなって思ってたんです」
「うん」
「それでも嬉しかったです。でも、それだけじゃなかったらもっと嬉しいって思ってる自分がいて」
凪はまだ黙っている。
その沈黙が逃げではないことは、もう分かっていた。
「俺、今まで普通に彼女が欲しいって思ってたんです」
「うん」
「でも、いつの間にかそれより、凪先輩といる放課後のほうが大事になってました」
凪の視線が、そこで少しだけ揺れた。
「ハンバーガー屋でネタを詰める時間とか、夏祭りとか、見舞いに来てくれた時とか……そういうの思い出してたら、自分の中ではっきりしてきて」
朔人はそこで一度言葉を止めた。
でも、もうごまかしたくなかった。
「たぶん俺、ずっと思ってたより、凪先輩のこと……」
喉が少し詰まる。
それでも、今はちゃんと言いたかった。
「好きです」
はっきり言う。
「相方としてだけじゃなくて」
言ってしまった瞬間、世界の音が少し遠のいた気がした。
店内のざわめきも、レジの電子音も、そこだけ切り取られたみたいに静かになる。
凪は、しばらく何も言わなかった。数秒のはずなのに、体感ではもっと長い。
やがて凪が、小さく息を吐いた。
「……ずるいな」
「何がっすか」
「先に言うの」
凪は少しだけ笑った。
でも、それはいつもの軽い笑いじゃなかった。
「俺だって、言おうとしてたのに」
その一言に、朔人の胸の奥が少しだけ軽くなる。
それでも、まだちゃんと聞きたかった。
「じゃあ、ちゃんと言ってください」
凪はそこで少しだけ目を見開いた。けれどすぐに、観念したように笑う。
「ほんと、お前さ」
「はい」
「逃がしてくれないよな」
「凪先輩が言うんすか、それ」
その返しに凪は少しだけ肩を揺らして、それからまっすぐ朔人を見た。
「好きだよ」
凪の声は静かだった。
「気づいたのは夏休みの終わりくらいだけど」
「……」
「たぶん、それより前からずっと、だいぶ特別だった」
言葉を選びながら、でももう止めずに続ける。
「お前が他のやつといるのは嫌だったし、彼女ができるなんて言われたくなかった。放課後に一緒にネタをやってる時間を、ずっと手放したくなかった」
凪は少しだけ口元をゆるめた。
「だから、好き」
朔人は返事を忘れそうになった。
嬉しいとか、安心したとか、いろんなものが一気に来て、言葉がうまく出てこない。
「……やば」
「何それ」
「いや」
朔人は耳が熱くなるのを感じながら言う。
「ちゃんと言われると、思ったより……嬉しいです」
「そっか」
凪も少し笑う。
「……俺も」
そのあと、二人は少しだけ黙った。
気まずいわけじゃない。
ただ、今までと同じ席なのに、空気がまるで違って感じられた。
「じゃあ」
朔人が先に口を開く。
「これからどうします? 付き合う、とか」
「そこ確認必要?」
「いるでしょ、普通」
「じゃあ、付き合う」
「軽いなあ」
「でもちゃんと本気」
凪はそう言ってから、少しだけ身を乗り出した。
「あと、相方も続ける」
「そこ大事です」
「だろ」
「恋人になったからって、コンビ解散とか嫌なんで」
「しないよ」
凪は即答した。
「今さら誰とやるんだよ」
その言葉に、朔人はまた少しだけ言葉に詰まる。
「……そういうの、ずるいんですよ」
「お前が言う?」
「言います」
そこで二人は笑った。
やっと、空気が少しだけいつものものに戻る。
けれど前と同じじゃない。確かに何かが変わったあとの、二人のテンポだった。
「サク」
「なんすか」
「今日、まだ動物園デート詰める?」
「詰めます」
「付き合いたてなのに、真面目だなあ」
「凪先輩にだけは言われたくないです」
朔人はそこで、テーブルの上の紙ナプキンをいじった。
一瞬だけ迷って、それから小さく言う。
「あと、できれば」
「何」
「前みたいに、シェイク一口とか、食べ残しとか……そういうのも普通にしてほしいです」
凪が少しだけ目を丸くする。
「そこ?」
「そこです」
「恋人になって最初の要望が?」
「結構大事だったんで」
「知らなかった」
凪は少しだけ笑って、ドリンクのカップを押した。
「じゃあ、今日のは?」
「普通のコーラじゃないですか」
「いいから」
「強引だなあ」
そう言いながら、朔人はストローに口をつける。
その何でもないやり取りが、思っていたよりずっと嬉しかった。
帰る頃には、店の外の空気も少し和らいでいた。
駅前を並んで歩く。前と同じようで、やっぱり少し違う。
「凪先輩」
「ん?」
「今さらですけど、昨日部室で止まってよかったかもしれないです」
「なんで」
「今日のほうが、ちゃんと聞けたんで」
「……そっか」
凪は少し笑って、ごく自然な動きで朔人の手首に触れた。
ほんの一瞬の、でも十分伝わる近さだった。
「じゃあ、次はエピローグっぽい顔して漫才しないとな」
「何その言い方。メタいなあ」
「でも新ネタはちゃんと考えるよ」
「そこは真面目なんですね」
「当たり前だろ」
その返しに、朔人も笑った。
放課後は、たぶんこれからも変わらない。
部室で会い、ハンバーガー屋へ行き、ネタ帳を広げて、ツッコんで、笑う。
でも、その変わらなさの中に、前にはなかったものが確かにある。
それだけで、世界は思っていたよりずっと違って見えた。




