17話 告白
九月に入ったばかりの放課後は、まだ夏の名残をちゃんと抱えたままだった。
日差しは八月の真ん中ほど容赦なくはない。
でも、校舎の中には昼の熱が薄く残っていて、窓を開けても入ってくる風はまだぬるい。
部室の窓から見えるグラウンドの端にも、夏休み明けのだるさみたいな空気が少し漂っていた。
その日の放課後、朔人が部室に入ると、八坂先輩がダンボールを抱えて机の上を測っていた。
「何してるんすか」
朔人が聞くと、八坂先輩は顔も上げずに答える。
「撮影台」
「何の」
「放課後バーガーの動画」
「急に有能だな」
「八坂は急にじゃなくても、たまに有能だよ」
櫻葉先輩が机の横で言う。
「頻度が低いだけで」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「半分かあ」
その声の向こうで、凪先輩がネタ帳を閉じた。眼鏡の奥の目が、こっちを見る。
「サク」
「はい」
「今日、動物園デート、一本ちゃんと撮ってみる」
「今日?」
「今日」
凪先輩はいつもの調子で言った。
「夏休み明け一本目の動画。視聴者向け」
「お、いいっすね」
「文字で面白いのは分かったから、立ちでどこまでいけるか見たい」
「その代わり」
凪先輩が少しだけ目を細める。
「サルのものまねのとこで俺が笑ったらやり直しな」
「そこは頑張ってくださいよ」
「お前があれ入れたんだろ」
「文字だけでもうおもろいって言ってたじゃないですか」
「言ったけど」
「じゃあ責任持って耐えてください」
「そこまで言う?」
そのやり取りに、八坂先輩がにやっとした。
「いいねえ、青春」
「何が」
凪先輩が言う。
「普通に撮るだけだけど」
「その『だけ』がもう青春なんだよ」
「意味わかんないっす」
朔人が返すと、櫻葉先輩が肩をすくめた。
「八坂は夏休み明けからずっとこんな感じ」
「祭りの余韻がまだ抜けてない」
「一番抜けてないの八坂先輩でしょ」
「そうとも言う」
そんな会話をしているうちに、机が端へ寄せられ、部室の真ん中に立ち位置が作られた。
放課後バーガーが漫才をする場所。
百均前線が撮る側に回るのは、なんだか少し変な感じがした。
「じゃあ、いくよ」
八坂先輩がスマホを構える。
「タイトルコールとかいる?」
「いらない」
凪が即答した。
「余計なこと増やすな」
「はーい」
「そこは素直なんだ」
朔人が言うと、八坂先輩は笑った。
立ち位置につく。
動物園デート。朔人が持ってきた初めてのネタ。
その事実だけで、凪は少しだけ胸がざわついた。
「はい、スタート!」
朔人が軽く息を吸った。
「ねえねえ、俺女の子とデートする時緊張しちゃうから予行練習に付き合ってくれない? 女の子やって」
「え、やだ」
凪が返す。
「即答すんなよ! そこはちょっと悩んで!」
「なんで俺が女の子役なの」
「消去法だよ」
「傷つく言い方だな」
「いいから! 今日は動物園デートの予行練習な」
「分かったよ。ほら朔人くん、今日は動物園デート楽しみだね」
「急にそれっぽいな!」
そこまではよかった。いつものテンポだった。
朔人のツッコミも乗っている。
「じゃあ行こうか。動物園着きました!」
「あっ! サル! かわいーい!」
「いやそれ飼育員のおっさんだから!」
八坂先輩が後ろで小さく笑うのが聞こえた。櫻葉先輩の肩も少し揺れている。
「でもちょっと毛深かったよ」
「見た目で判断すな!」
凪はそこまでは耐えた。
けれど次のくだりに来た瞬間、危なかった。
「ねえ、サルのものまねしたらサル集まってくるかなぁ!」
「嫌な予感しかしないな」
「ウホッウホッウホッウホッウホッウホッウホッウホッ……あっ、なんか人集まってきちゃった!?」
「そりゃそーだろ!! 何より珍獣でしたよアンタ!」
そこで、八坂先輩がついに吹き出した。つられて凪も口元を押さえる。
「はい、ストップ!」
八坂先輩が笑いながら言う。
「無理無理、これ不意打ち強いって!」
「八坂が先に笑うなよ」
凪が言うと、八坂先輩はまだ笑っていた。
「いやだって、何より珍獣はキラーワードすぎ」
「それ褒められてます?」
朔人が聞く。
「褒めてる褒めてる」
櫻葉先輩が冷静に言った。
「インパクトある」
「ほら」
凪が言う。
「言っただろ」
「でも凪先輩も危なかったじゃないですか」
「危なくない」
「口元押さえてたでしょ」
「埃」
「雑な言い訳だな」
その返しに、また少し笑いが起きる。
「もう一回いこう」
凪がネタ帳を開きながら言った。
「今のサル前の間、もうちょい短くしていいかも」
「なるほど」
「で、そのあと、ライオンのところ」
凪は視線を紙に落としたまま続ける。
「百獣の王ってもっとこう、常にガオーッてしてるもんじゃないの、からの」
「二十四時間営業の王いないだろ」
「うん、そこ好き」
「そこ、凪先輩好きですよね」
「好き」
「即答だ」
「シフト制のとこ、テンポいいから」
そう言いながら、凪は少しだけ目を細めた。
サクが自分で考えた言葉を、こうして当然みたいに一緒に磨いていく時間が、どうしようもなく好きだと思ってしまう。
好きだ、と思う。気づいてからもう何度も自覚しているのに、そのたび少しだけ苦しい。
「じゃあ次ラストまで通すよー」
八坂先輩がまたスマホを構えた。
「今度は笑わない」
「信用ならないな」
櫻葉先輩が言う。
「お前、さっきめっちゃ揺れてたし」
「でも今の俺はいける」
「その自信どこから来るの」
二回目は、さっきよりだいぶ滑らかだった。
サル山、飼育員、毛深い。サルのものまねの話題。ライオンのシフト制。
勢いが切れない。
でも、最後のところで凪の呼吸が少しだけ乱れた。
「でも楽しかったでしょ?」
女の子役の台詞。朔人の返し。その一瞬の間。
ネタの中の話なのに、妙にそこだけ現実に近い。
サクがいつか誰かとデートする未来を、やけにはっきり意識させられる。
撮影が終わった瞬間、凪は思っていたより深く息を吐いていた。
「おつかれー! これ普通にいけそうじゃない?」
八坂先輩が言い、櫻葉先輩も頷く。
「動物園デート、放課後バーガーっぽくていい」
「でしょ」
朔人が少しだけ得意げに言う。
それを見て、凪はまた胸がざわつく。
「じゃあ俺ら、自販機行ってくる」
八坂先輩が言う。
「喉乾いた」
「俺は荷物持ちか?」
櫻葉先輩が呆れたように言う。
「当然のように言うな」
「でもそういう流れだろ、もう」
櫻葉先輩が立ち上がる。
「飲み物いる?」
「俺はいらない」
凪が言う。
「サクは?」
「俺も今はいいです」
「了解」
二人が部室を出ていく。
引き戸が閉まると、急に部屋が静かになった。
さっきまでの笑い声が少しだけ残っている。
でも、それが消えると、向かい合っている二人の距離だけが妙にはっきりした。
「……今日、よかったっすね」
朔人が先に言う。
「ネタ」
「うん」
凪はネタ帳を閉じた。
「普通によかった」
「凪先輩がそんなに素直に褒めるの珍しい」
「ちゃんといいと思ったから」
「そういうの、ずるいんですよ」
「何が」
「急にちゃんと言うとこ」
「お前もだろ」
そこでまた少し笑う。
笑うけど、そのあと続く沈黙は前より少しだけ深かった。
朔人は机の上のルーズリーフを指で揃え、それから視線を落としたまま言う。
「この前の」
「ん?」
「彼女の話」
凪の肩がほんの少しだけ止まる。
「まだ、引っかかってるんですけど」
ごまかせると思っていた。でも、朔人はまっすぐ続けた。
「最初の条件あったし」
「……うん」
「だから、部活続けてほしいから聞いたのかなって思ったんです」
「そっか」
「それは、まあ普通に嬉しかったです」
朔人は言う。
「必要ってことなら」
その言葉が、凪には少し痛かった。やっぱりそこに落ち着くんだと思ってしまう。
でも次の瞬間、朔人は少しだけ顔を上げた。
「でも」
「……」
「それだけじゃないなら、ちゃんと言ってほしいです」
凪は一瞬、本当に呼吸を忘れた。
「何それ」
やっとそう返す。
「急に」
「急ですか?」
「急だろ」
「だって、凪先輩、あの時の聞き方、普通じゃなかったし」
「普通に聞いたつもりだけど」
「無理あるでしょ」
「そう?」
「そうです」
部屋の中の空気が少しだけ熱を帯びる。
窓の外はもうだいぶ暗いのに、二人の間だけまだ夕方が残っているみたいだった。
「サク」
凪は小さく息を吐いた。
「それ、困る」
「何がっすか」
「そうやって、ちゃんと聞いてくるの」
「聞いちゃだめなんですか」
「だめじゃないけど……今それやられると、俺が困る」
そこまで言って、自分で笑いそうになった。
ここまで来ても、まだ「困る」で止めようとしている。
でも朔人は逃がしてくれなかった。
「俺に彼女できたら」
少しだけ低い声で言う。
「やっぱ困ります?」
その一言が、思っていたよりずっとまっすぐだった。
凪はもう視線を逸らせなかった。
朔人の顔は冗談みたいには見えない。
ただ、答えを知りたい顔で、こっちを見ている。
「……困るよ」
凪はとうとう言った。声が少しだけ掠れた。
「そりゃ困る」
「部活の相方だから?」
朔人が聞く。
そこが最後の線だった。
でも、もうそこに戻れないことも分かっていた。
「それだけじゃない」
言ったあと、心臓が一気にうるさくなる。
でも止められなかった。
「お前に彼女できたら、相方だからとか、そういうの抜きで嫌だよ」
部室の中が、しん、と静かになる。
朔人は少しだけ目を見開いた。
でも驚いたというより、どこかで待っていた顔だった。
「……そっか」
そう言って、小さく息をつく。
その抜き方が、どこかほっとしたみたいで、凪の胸がまた揺れる。
「そっか、って何」
「いや」
朔人は少しだけ笑った。
「そこ、ちゃんと言ってくれるんだなって」
「言わせたのそっちだろ」
「まあ」
「自覚あるなら質悪いな」
「凪先輩にだけは言われたくないです」
そう返されて、凪も少しだけ笑ってしまう。
でも笑ったあと、またすぐに苦しくなった。
もう言ってしまった。ここまで出したら、たぶん次はもっと先まで行く。
「……お前は」
凪が聞きかけた時、廊下の向こうから八坂先輩の声がした。
「ただいまー! コーラ当たり出たんだけどー!」
「それ当たり付きだったんだ」
櫻葉先輩の声も近づいてくる。
引き戸が開き、二人の明るさが一気に部室へ戻ってきた。
「何その空気」
八坂先輩がすぐ気づく。
「なんか今、めっちゃ大事な話してた?」
「してない」
凪が即答する。
「してたでしょ」
櫻葉先輩が言う。
「凪、顔赤いし」
「暑いだけ」
「部室で?」
「九月でも暑いだろ」
「それはそう」
その横で、朔人は小さく咳払いした。
でも、その口元は少しだけ笑っていた。
その日の帰り道、朔人はまた一人で考えることになった。
凪が言ったこと。
困るよ、っていうあの声。
それだけじゃない、ってちゃんと口にしたこと。
そこまで来て、もうさすがに分からないふりはできなかった。
凪先輩は、自分に彼女ができるのが嫌なんだ。
相方を取られるから、だけじゃなくて。もっと個人的な理由で。
そして、自分はその答えを聞いて、思っていた以上に嬉しかった。




