第10話 山南敬助の失踪
壬生屯所。
朝。
妙な静けさだった。
いつもなら聞こえるはずの声。
気配。
足音。
それが、ない。
「……山南さんは?」
隊士の一言。
誰も答えない。
嫌な予感が広がる。
襖が開かれる。
山南の部屋は空だった。
布団は整えられ。
乱れひとつない。
刀も。
荷も。
何もない。
ただ。
机の上に。
一通。
紙が残されていた。
「……これは」
震える手で開く。
書かれていたのは
『江戸へ行く』
それだけ。
あまりにも短い。
あまりにも重い。
空気が凍る。
「……嘘だろ」
誰かが呟く。
その時。
畳を踏みしめる音。
近藤勇が現れる。
無言で
書き置きを受け取る。
読む。
そして
ゆっくりと目を閉じる。
何も言わない。
言えない。
その背後。
腕を組んで立つ男。
土方歳三。
一瞥。
そして。
低く吐き捨てる。
「……やはり、か」
予想通り。
そう言わんばかりに。
感情はない。
いや押し殺している。
その横で。
初めて動揺する男がいた。
伊東甲子太郎。
「……山南さんが?」
信じられない。
だが。
現実は、そこにある。
近藤が目を開く。
決断の目。
「……総司」
名を呼ぶ。
空気が張り詰める。
前に出る。
沖田総司。
「はい」
即答。
迷いはない。
だが。
その目は揺れている。
近藤が言う。
「連れ戻せ」
短い。
だが絶対の命令。
沈黙。
沖田の喉が、わずかに動く。
「……承知」
その声。
かすかに震えていた。
沖田が去る。
その背中を見つめながら。
土方が呟く。
「情をかけたのが間違いだ」
冷たい言葉。
だが。
拳は握られている。
伊東が口を開く。
「なぜ……あの方が」
理解できない。
理屈が通らない。
土方が睨む。
「理屈じゃねぇ」
一言。
それが全てだった。
近藤は何も言わない。
ただ。
遠くを見る。
かつての仲間。
誠を共にした男。
(山南……)
心の中で呼ぶ。
だが声にはしない。
京の町。
沖田は走る。
風を裂く。
(違う)
(違う違う違う違う――)
心の中で叫ぶ。
(山南さんが逃げるわけない)
(あの人は、誠の人だ)
だが。
手の中には。
あの紙の言葉。
『江戸へ行く』
それが現実だった。
夕暮れ。
大津。
橋の上。
風が吹く。
その先にいた。
山南敬助。
背中。
静かに立っている。
逃げない。
振り向かない。
沖田の足が止まる。
「……山南さん」
声が震える。
ゆっくりと。
山南が振り向く。
その顔は。
穏やかだった。
「総司か」
いつもと同じ声。
だが決定的に違う。
「帰りましょう」
沖田は言う。
「みんな待ってます」
必死にいつも通りに。
だが。
山南は首を横に振った。
「……帰れない」
その一言。
すべてが崩れる。
「……は?」
沖田の笑顔が消える。
「何言ってるんですか」
詰め寄る。
「冗談ですよね?」
山南は、静かに答える。
「私は……もう、誠に従えない」
風が吹く。
音が消える。
沖田の世界が止まる。
夕日が沈む。
二人の影が伸びる。
交わらない。
戻れない。
沖田の手が刀にかかる。
震える。
「……逃げるでない!!!」
叫ぶ。
武士の声。
だが。
その奥にあるのは。
愛。
悲鳴。
絶望。
山南の足が止まる。
だが振り返らない。
それは。
ただの脱走ではない。
山南の“誠”という名の信念が壊れた瞬間。
そして
新選組という組織が。
後戻りできなくなった瞬間だった。
つづく




