第1話 試衛館 ―誠のはじまり―
武蔵国多摩郡。
風は土の匂いを運び、空はどこまでも広かった。
宮川家の庭先で、一人の少年が木刀を振っている。
宮川勝太。
まだ幼いその顔には、すでに獣のような気配があった。
「おい勝太!やめろって言ってるだろ!」
年上の子供たちが怒鳴る。
だが勝太は止まらない。
振るう。
叩く。
倒す。
泣き声が上がる。
「……弱ぇな」
ぽつりと呟く。
その目には、罪悪感も遠慮もない。
ただ“強さ”への渇きだけがあった。
餓鬼大将。
そう呼ばれるのに、時間はかからなかった。
だが、その内側にあるものを知る者は少ない。
夜。
道場に一人、灯りがともる。
勝太は、誰もいないはずの板間で木刀を構えていた。
「……まだだ」
何度も、何度も振るう。
腕が震えても、足がもつれても、やめない。
「強くならなきゃ……」
誰に言うでもなく、呟く。
その姿を、静かに見ている男がいた。
天然理心流三代宗家、近藤周助。
「ほう……」
わずかに目を細める。
「ただの暴れん坊ではないか」
その日から、勝太は“選ばれた”。
ある夜のことだった。
父の宮川久次郎は不在。
家は静まり返っていた。
気配。
障子の向こうに、複数の影。
盗賊だ。
次兄・粂次郎が刀を掴む。
「叩き斬る!」
だが、その腕を勝太が掴んだ。
「待て」
「何だと!?」
勝太は低く、ささやく。
「今は駄目だ」
「奴らは入りたてだ。気が立っている。斬るなら骨が折れる」
粂次郎は息を呑む。
子供の言葉とは思えない。
「だが」
勝太の目が、闇の向こうを見据える。
「帰る時は違う」
「早く逃げたい一心で、心が留守になる」
静かに言い切る。
「その時が、斬る時だ」
沈黙。
やがて粂次郎は頷いた。
「……わかった」
二人は、じっと待った。
やがて。
戸が開く。
賊の影が外へ出ようとした、その瞬間
「今だ!!」
粂次郎が飛び出す。
一閃。
悲鳴。
血。
数人が倒れる。
残りは逃げ出す。
粂次郎は追おうとした。
だが
「追うな」
再び、勝太が止めた。
「なぜだ!」
「窮鼠、猫を噛む」
短く言う。
「追えば、噛みつかれる」
粂次郎は歯を食いしばり。やがて刀を収めた。
その夜。
宮川家を守ったのは、力ではなかった。
“読み”だった。
この一件で、村の見る目は変わった。
「あの子は違う」
「あれは……ただ者じゃない」
そして
近藤周助もまた、確信した。
「この子だ」
後継者にふさわしいと。
やがて勝太は、養子となる。
島崎勝太。
そして
島崎勇。
さらに時は流れ。
名を継ぐ。
「近藤 勇」
その名は、ただの名ではない。
流派。
誇り。
そして“背負うもの”だ。
江戸。
試衛館。
まだ小さな道場に、数人の若者が集まっていた。
その中に、一人。
静かな男がいる。
「山南敬助と申します」
丁寧に頭を下げる。
近藤はその男を見た。
強さではない。
別の何かの縁を感じる。
「……お主、剣は何のために振るう」
問いかける。
山南は少し考え答えた。
「人を斬るため、ではありません」
「己を律するために」
近藤の眉がわずかに動く。
「ほう」
山南は続ける。
「剣は、人を守るためのものだと……そう思っております」
静かな声だった。
だが、その言葉は重い。
近藤は、しばらく黙った。
やがて。
「……面白い」
口元がわずかに緩む。
「ならば見せてみよ。その剣」
この、ふたりの出会いが。
やがて、あの結末へと繋がるとは
この時、誰も知らない。
夜。
試衛館の縁側。
近藤は一人、空を見上げていた。
「誠、か……」
ぽつりと呟く。
農民の出。
武士ではない。
だが、名を継いだ。
守るものがある。
「ならば……」
拳を握る。
「わしは、誠の武士になる」
その言葉は誓いだった。
だが同時に
自らを縛る鎖でもあった。
“誠”とは何か。
守るものか。
縛るものか。
この時の近藤は、まだ知らない。
それが
仲間を斬る理由になることを。
つづく




