第8話 私は誰かに必要とされるためではなく働く
東水門の鐘が鳴り終わる前に、レオンはミレアを裏通りへ連れ出した。
役所へ戻れない以上、調査の拠点は別に必要だった。二人が向かったのは、古い染物屋の裏にある空き工房だった。かつて水路の補修道具を保管していた場所らしく、壁際には錆びた滑車や、ひびの入った水圧計が積まれている。
ユアンが先に中へ入り、埃を払いながら振り返った。
「こんなところ、よく知っていましたね」
「水路監督官なら、使われていない水門番所の場所くらい覚えている」
レオンは短く答え、扉を閉めた。
ミレアは持っていた黒い板を机の上へ置いた。板に刻まれた二本の水草の印は、薄暗い室内でもかすかに青く光っている。
「これがヴァレリオ家の印だと、どう証明するんですか」
「印そのものは、まだ証拠にならない」
レオンは板を布で包み直した。
「家紋や商標と違って、術式印は誰でも写せる。だが、使われた術式の癖は残る」
「癖?」
「水を押し戻す術式には、術者の魔力の流れが刻まれる。君なら読めるか」
ミレアは板へ手を伸ばした。しかし、指先が触れる前に、胸の奥に先ほどの光景が蘇った。
東水門の夜。濡れた石畳。青い指輪。アルベルトの声。
あの記憶をもう一度見れば、術式の癖まで読み取れるかもしれない。けれど、見たくはなかった。水に残された記憶は、過去を教えてくれる代わりに、心の中へ冷たい手を差し込んでくる。
「無理に触らなくていい」
レオンが言った。
「これは、君だけの仕事ではない」
「そう言われると、余計に触れたくなります」
ミレアは板に指を置いた。
冷たい。
次の瞬間、工房の壁が消えた。
黒い水が細い管を走っている。管の途中に、青い石の粉が流し込まれていた。粉は水に溶けず、網のような術式を形作っていく。水は本来なら南へ向かうはずなのに、術式に触れた部分だけが逆流し、別の管へ押し込まれていた。
板を取りつけた男の指には、青い石の指輪がある。
その隣で、アルベルトが紙束を広げていた。
『第二分水路の記録は、今月から改める。異常は北側の井戸に集めろ』
『ですが、そこを閉じれば東区の水圧が下がります』
『下がった分は、私有管へ回せばいい。工房街には金を払わせる。水は足りないのではない。売る場所を選んでいるだけだ』
ミレアは息を呑んだ。
私有管。
ヴァレリオ家が管理する染物工房や、貴族街の浴場へ向かう専用水路だ。
さらに記憶が揺れた。
アルベルトが書類の一枚を指で叩いている。そこには、父の署名に似せた筆跡があった。
『エルセインの記録係が気づく前に、古い規則を根拠にして調査権を狭めろ。ミレアが水に触れる前に、あの娘を役立たずだと思わせておけ』
視界が白く弾けた。
ミレアは机に手をつき、激しく咳き込んだ。レオンが肩へ手を添える。
「見えたことを話せるか」
「私を……役立たずだと思わせるために、婚約破棄まで利用したんです」
声が震えた。
「アルベルトは、私が水路の記録を読めると知っていた。だから、父の娘として信用を奪って、調査から外そうとした」
「婚約破棄の書状を出したのは、ヴァレリオ家だけではない」
レオンの言葉に、ミレアは顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「君の父親が残した記録を調べた。改竄された記録のいくつかに、婚約破棄の書状と同じ印章油が使われていた」
レオンは懐から小さな紙片を取り出した。
「婚約破棄の書状は、家から送られたものではなく、管理局の書記室で写された可能性がある」
「では、あれは最初から……」
「君を孤立させるための手続きだった」
ミレアは唇を噛んだ。
婚約者に捨てられたことが苦しかった。家族にさえ、役に立たないと言われた気がした。けれど、その痛みさえ誰かの計画に組み込まれていたと知ると、悲しみよりも怒りが先に立った。
「私は、必要とされなかったから捨てられたと思っていました」
自分の声が、遠く聞こえる。
「だから、誰かに必要とされるようにならなければと思った。レオン監督官の役に立てば、ここにいてもいいのだと」
「ミレア」
「でも、違います」
彼女は板から手を離し、まっすぐレオンを見た。
「私は誰かに必要とされるためではなく働く。水路の記録を読み、異常を見つけ、正しい流れを取り戻すために働きます。私を選ぶ人がいなくても、私の仕事まで消えるわけではありません」
工房の中が静まった。
レオンはしばらく彼女を見つめていた。それから、いつものように淡々と頷いた。
「その方がいい」
「それだけですか」
「それ以上の言葉を探すのが苦手だ」
彼は机の上の地図を広げた。
「専用水路は、第二分水路から分かれている。記録上は存在しない管だ。だが、東区の水圧が不自然に下がった時刻と、ヴァレリオ家の染色工房が取水した時刻が一致している」
「なら、次に見るべきは専用水路ですね」
「ああ。ただし、正面から入れば拘束される」
ユアンが地図を覗き込み、指を止めた。
「地下の古い排水路なら、染物屋の裏から近づけます。昔、子どもたちが通り抜けて遊んでいた道です」
「危険だ」
レオンが即座に言った。
「水が逆流している可能性がある。入るなら私が先に――」
「対等な協力者として、私も行きます」
ミレアは遮った。
「守られるだけでは、もう調査できません」
レオンは反論しかけたが、やがて口を閉じた。
「わかった。だが、私の指示には従え」
「あなたも、私の読みを疑わないでください」
「最初から疑っていない」
その言葉は短かったが、ミレアの胸に深く残った。
二人は灯りと縄、採水瓶を準備した。役所の許可も、正式な記録用紙もない。あるのは黒い板と、ミレアの記憶と、レオンの地図だけだった。
地下へ続く入口を開けると、冷たい水の匂いが立ち上った。
ミレアは暗闇を見下ろした。
この先に、父を罪人にした記録がある。自分を捨てさせた計画がある。そして、古い規則の裏側で誰かが売り渡してきた、王都の水がある。
「行きましょう」
ミレアが先に足を踏み入れた。
レオンは一瞬だけ彼女の背を見つめ、それから隣に並んだ。
地下水路の奥で、見知らぬ水音が鳴った。
それは逃げ道を塞ぐ音ではなかった。
隠されていた流れが、ようやく二人を呼び寄せる音だった。




