第9話 雨宿りの倉庫で、レオンの過去を知る
地下水路へ降りてから、どれほど歩いたのか分からなかった。
石壁の隙間から滴る水が、一定の間隔で足元へ落ちている。ミレアは灯りを掲げ、流れの色と匂いを確かめながら進んだ。水は黒く濁っていたが、東水門で見たものほど異様ではない。ただ、ところどころに青い粉が沈み、細い筋となって下流へ流れている。
「この粉は、術式の残りです」
ミレアはしゃがみ込み、採水瓶を水へ浸した。
「水を押し戻すための術式が、ここでも使われています。ただ……」
「ただ?」
「ここで流れを変えたのではありません。もっと上流で混ぜられた粉が、沈殿して残っている。つまり、専用水路はこの先ではなく、さらに奥で分かれているはずです」
レオンは灯りを高く掲げた。壁面に、かすかな線が浮かび上がる。古い水門の補修跡だった。
「この壁の向こうに、保守用の倉庫がある」
「倉庫?」
「昔の記録では、洪水の際に工具と土嚢を置く場所だった。今は使われていないはずだ」
レオンが錆びた金具へ手を伸ばした瞬間、上から激しい音が響いた。
雨だ。
地上から落ちてくる雨粒が、排水管を打ちつけている。次いで、遠くで雷が鳴った。水路の水位が急に上がり始める。
「戻るぞ」
「でも、専用水路の分岐が――」
「雨が続けば、ここは危険になる」
レオンはミレアの手首をつかんだ。強引ではなかったが、迷いのない力だった。
二人が来た道を戻る途中、横手の壁から濁流が噴き出した。ミレアの足元がすくわれ、身体が傾く。レオンはとっさに彼女の腕を引き寄せた。
「走れ!」
水音が背後から迫ってくる。
レオンが壁の隙間へ体を滑り込ませ、ミレアも続いた。狭い通路を抜けた先に、古い鉄扉があった。レオンが肩で押し開けると、そこは地上の倉庫だった。
屋根を打つ雨音が、耳を塞ぐほど激しい。
倉庫の中には、崩れかけた木箱と古い土嚢が積まれていた。扉を閉めると、水路の轟音が遠のく。ミレアは濡れた外套を脱ぎ、壁に背を預けて息を整えた。
「怪我は?」
「ありません。レオンは?」
「かすり傷だ」
レオンの左手から血が流れていた。ミレアが布を取り出すと、彼は一度だけためらい、それから手を差し出した。
布を巻きながら、ミレアはその手に残る古い傷へ気づいた。指の付け根から手首へ、白い線が何本も走っている。新しい傷ではない。水路の作業でできたものとも違う。焼けたような痕だった。
「これは、昔の傷ですか」
「ああ」
「水路で?」
「火事だ」
レオンは短く答えた。
雨はますます強くなった。倉庫の隅で、どこかの板が風に揺れている。ミレアは手当てを終えたが、彼の手をすぐには離せなかった。
「話したくないなら、聞きません」
「君は、見たことを知ろうとする」
「水路のことなら」
「私のことも、か」
問いかけられて、ミレアは顔を上げた。
レオンはいつもの無愛想な顔をしていた。だが、声にはわずかな疲れがあった。
「七年前、南区の古い水門で火事があった。水路監督局の倉庫も燃えた。記録では、事故だと処理されている」
「でも、事故ではない?」
「当時、私は見習いだった。父が南区の水門番をしていた」
レオンは濡れた髪をかき上げ、暗い倉庫の奥を見た。
「その夜、父は水門を閉じるなと言った。上流から大量の水が来ているのに、閉じれば南区の家々へ逆流すると判断したんだ」
「正しい判断だったのですか」
「結果だけを見れば、そうだ。だが、上流には貴族街へ送る専用管があった。専用管の水圧を守るため、誰かが別の水門を閉じていた」
ミレアの胸が冷たくなった。
「父親は、それを知っていた」
「知っていた。だから記録に書こうとした。だが、火事が起きた」
レオンの指が、巻かれた布の上でわずかに震えた。
「倉庫に火が回った時、父は古い記録帳を抱えていた。私は助けに戻った。けれど、梁が落ちてきて……私だけが外へ投げ出された」
「お父さまは?」
「亡くなった」
雨音が、言葉の空白を埋めていた。
「記録帳は燃えた。父は規則違反をした水門番として処理され、私は監督局に残った。誰が水門を操作したのか、誰が火をつけたのか、調べるために」
「それで、記録にこだわるのですね」
「記録は、死んだ人間の代わりに話す」
レオンはそう言って、ミレアを見た。
「君の父親の記録も同じだ。誰かが消そうとしているなら、そこには消されては困る事実がある」
ミレアは胸の奥で、何かが静かにほどけるのを感じた。
レオンが無愛想なのも、人を簡単に信じないのも、守ることに執着するのも、ただ冷たい性格だからではなかった。失ったものを二度と記録の外へ追いやらないために、彼は一人で立ち続けていたのだ。
「私が、あなたの父親の記録を見つけます」
「約束する必要はない」
「約束ではありません。私がそうしたいんです」
ミレアは倉庫の床へ手を置いた。
冷たい木板の下から、かすかな水の記憶が伝わってくる。燃えた紙の匂い。誰かが走る足音。鉄の扉を閉める音。そして、火の中へ落ちていく帳面。
だが、すべてが燃えたわけではなかった。
倉庫の奥、崩れた木箱の下に、湿った布で包まれた細長い箱がある。
「レオン。あそこです」
二人で木箱をどかすと、泥にまみれた金属製の箱が現れた。蓋には、水門番の古い印が刻まれている。
レオンは息を止めた。
箱を開けると、中には焦げた紙片が数枚と、黒ずんだ鍵が入っていた。紙片の一枚には、かろうじて文字が残っている。
『第二分水路、夜半に閉鎖。指示者――』
その下は焼け落ちていた。
しかし、紙の端に押された印だけは消えていない。二本の水草が交差した印。ヴァレリオ家の術式印と同じだった。
「父は、知っていたんだ」
レオンの声が低く震えた。
ミレアは彼の隣に立った。肩が触れそうな距離だったが、どちらも離れなかった。
「これで、過去は終わりません」
「ああ」
「でも、過去を証拠にできます」
レオンは焼けた紙片を見つめ、それからミレアへ視線を向けた。
「君と組んでよかった」
雨の音に紛れそうな、短い言葉だった。
けれどミレアには、はっきり届いた。
「私も、あなたと組めてよかったです」
外では、増水した水路が唸っている。
二人は金属箱を包み直し、雨が弱まるのを待った。倉庫の暗がりで、失われた記録と、まだ語られていない過去が静かに息をしていた。




