↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約を捨てた記録魔法使いは、枯れない水路と恋をする  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/20

第9話 雨宿りの倉庫で、レオンの過去を知る

 地下水路へ降りてから、どれほど歩いたのか分からなかった。


 石壁の隙間から滴る水が、一定の間隔で足元へ落ちている。ミレアは灯りを掲げ、流れの色と匂いを確かめながら進んだ。水は黒く濁っていたが、東水門で見たものほど異様ではない。ただ、ところどころに青い粉が沈み、細い筋となって下流へ流れている。


「この粉は、術式の残りです」


 ミレアはしゃがみ込み、採水瓶を水へ浸した。


「水を押し戻すための術式が、ここでも使われています。ただ……」


「ただ?」


「ここで流れを変えたのではありません。もっと上流で混ぜられた粉が、沈殿して残っている。つまり、専用水路はこの先ではなく、さらに奥で分かれているはずです」


 レオンは灯りを高く掲げた。壁面に、かすかな線が浮かび上がる。古い水門の補修跡だった。


「この壁の向こうに、保守用の倉庫がある」


「倉庫?」


「昔の記録では、洪水の際に工具と土嚢を置く場所だった。今は使われていないはずだ」


 レオンが錆びた金具へ手を伸ばした瞬間、上から激しい音が響いた。


 雨だ。


 地上から落ちてくる雨粒が、排水管を打ちつけている。次いで、遠くで雷が鳴った。水路の水位が急に上がり始める。


「戻るぞ」


「でも、専用水路の分岐が――」


「雨が続けば、ここは危険になる」


 レオンはミレアの手首をつかんだ。強引ではなかったが、迷いのない力だった。


 二人が来た道を戻る途中、横手の壁から濁流が噴き出した。ミレアの足元がすくわれ、身体が傾く。レオンはとっさに彼女の腕を引き寄せた。


「走れ!」


 水音が背後から迫ってくる。


 レオンが壁の隙間へ体を滑り込ませ、ミレアも続いた。狭い通路を抜けた先に、古い鉄扉があった。レオンが肩で押し開けると、そこは地上の倉庫だった。


 屋根を打つ雨音が、耳を塞ぐほど激しい。


 倉庫の中には、崩れかけた木箱と古い土嚢が積まれていた。扉を閉めると、水路の轟音が遠のく。ミレアは濡れた外套を脱ぎ、壁に背を預けて息を整えた。


「怪我は?」


「ありません。レオンは?」


「かすり傷だ」


 レオンの左手から血が流れていた。ミレアが布を取り出すと、彼は一度だけためらい、それから手を差し出した。


 布を巻きながら、ミレアはその手に残る古い傷へ気づいた。指の付け根から手首へ、白い線が何本も走っている。新しい傷ではない。水路の作業でできたものとも違う。焼けたような痕だった。


「これは、昔の傷ですか」


「ああ」


「水路で?」


「火事だ」


 レオンは短く答えた。


 雨はますます強くなった。倉庫の隅で、どこかの板が風に揺れている。ミレアは手当てを終えたが、彼の手をすぐには離せなかった。


「話したくないなら、聞きません」


「君は、見たことを知ろうとする」


「水路のことなら」


「私のことも、か」


 問いかけられて、ミレアは顔を上げた。


 レオンはいつもの無愛想な顔をしていた。だが、声にはわずかな疲れがあった。


「七年前、南区の古い水門で火事があった。水路監督局の倉庫も燃えた。記録では、事故だと処理されている」


「でも、事故ではない?」


「当時、私は見習いだった。父が南区の水門番をしていた」


 レオンは濡れた髪をかき上げ、暗い倉庫の奥を見た。


「その夜、父は水門を閉じるなと言った。上流から大量の水が来ているのに、閉じれば南区の家々へ逆流すると判断したんだ」


「正しい判断だったのですか」


「結果だけを見れば、そうだ。だが、上流には貴族街へ送る専用管があった。専用管の水圧を守るため、誰かが別の水門を閉じていた」


 ミレアの胸が冷たくなった。


「父親は、それを知っていた」


「知っていた。だから記録に書こうとした。だが、火事が起きた」


 レオンの指が、巻かれた布の上でわずかに震えた。


「倉庫に火が回った時、父は古い記録帳を抱えていた。私は助けに戻った。けれど、梁が落ちてきて……私だけが外へ投げ出された」


「お父さまは?」


「亡くなった」


 雨音が、言葉の空白を埋めていた。


「記録帳は燃えた。父は規則違反をした水門番として処理され、私は監督局に残った。誰が水門を操作したのか、誰が火をつけたのか、調べるために」


「それで、記録にこだわるのですね」


「記録は、死んだ人間の代わりに話す」


 レオンはそう言って、ミレアを見た。


「君の父親の記録も同じだ。誰かが消そうとしているなら、そこには消されては困る事実がある」


 ミレアは胸の奥で、何かが静かにほどけるのを感じた。


 レオンが無愛想なのも、人を簡単に信じないのも、守ることに執着するのも、ただ冷たい性格だからではなかった。失ったものを二度と記録の外へ追いやらないために、彼は一人で立ち続けていたのだ。


「私が、あなたの父親の記録を見つけます」


「約束する必要はない」


「約束ではありません。私がそうしたいんです」


 ミレアは倉庫の床へ手を置いた。


 冷たい木板の下から、かすかな水の記憶が伝わってくる。燃えた紙の匂い。誰かが走る足音。鉄の扉を閉める音。そして、火の中へ落ちていく帳面。


 だが、すべてが燃えたわけではなかった。


 倉庫の奥、崩れた木箱の下に、湿った布で包まれた細長い箱がある。


「レオン。あそこです」


 二人で木箱をどかすと、泥にまみれた金属製の箱が現れた。蓋には、水門番の古い印が刻まれている。


 レオンは息を止めた。


 箱を開けると、中には焦げた紙片が数枚と、黒ずんだ鍵が入っていた。紙片の一枚には、かろうじて文字が残っている。


『第二分水路、夜半に閉鎖。指示者――』


 その下は焼け落ちていた。


 しかし、紙の端に押された印だけは消えていない。二本の水草が交差した印。ヴァレリオ家の術式印と同じだった。


「父は、知っていたんだ」


 レオンの声が低く震えた。


 ミレアは彼の隣に立った。肩が触れそうな距離だったが、どちらも離れなかった。


「これで、過去は終わりません」


「ああ」


「でも、過去を証拠にできます」


 レオンは焼けた紙片を見つめ、それからミレアへ視線を向けた。


「君と組んでよかった」


 雨の音に紛れそうな、短い言葉だった。


 けれどミレアには、はっきり届いた。


「私も、あなたと組めてよかったです」


 外では、増水した水路が唸っている。


 二人は金属箱を包み直し、雨が弱まるのを待った。倉庫の暗がりで、失われた記録と、まだ語られていない過去が静かに息をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。