第7話 古い規則が、調査とミレアの信用を奪う
東水門へ続く道は、夕暮れの人波で埋まっていた。
鐘の音を聞いた住民たちが、共同水槽の周囲に集まっている。水槽からは濁った水があふれ、石畳の溝を茶色く染めていた。子どもを抱いた母親が泣き、商人たちは荷車を遠ざけようとしている。
その騒ぎの中央で、東区管理局の役人が声を張り上げていた。
「水槽には近づくな! 異常の原因が判明するまで、誰も触れてはならない!」
「原因なら、もうわかっています」
ミレアが言うと、何人もの視線が一斉に集まった。
管理局の男は、井戸で会った男だった。名はグレン。銀章を指で撫でながら、冷たい目を向ける。
「また君か。許可なく水源へ近づくなと命じたはずだ」
「私はレオン監督官の調査補助員です」
「臨時契約の補助員だろう。正式な水路技師でもない。しかも、君の読みとやらで井戸を開けた結果、東区の水槽まで濁った」
ざわめきが広がった。
ミレアは水槽へ目を向けた。濁りは底から湧いているのではない。北側の排水口から、細く黒い流れが入り込んでいた。
「水槽が濁ったのは、井戸を開けたからではありません。上流の第二分水路で、堰が逆向きに閉じられています。そのため、汚水がこちらへ流されています」
「証拠は?」
「水の記憶が――」
言いかけて、ミレアは口を閉じた。
水が見せたものを、そのまま証拠にはできない。これまでレオンはそれを理解してくれていた。けれど、ここにいる住民たちは知らない。聞き慣れない力を、都合のよい言い訳だと受け取るかもしれなかった。
「ほら見ろ」
グレンが周囲に聞こえるように笑った。
「水槽を濁らせた者が、水のせいにしているだけだ」
「ミレアの判断を疑うなら、採水すればいい」
レオンが水槽の縁へ歩み寄った。
「北側の排水口と、第二分水路の出口から採る。成分を比べれば流入経路がわかる」
「監督官殿、古い規則をご存じないのですか」
グレンは懐から薄い木札を取り出した。表面には、王都水利規則の条文が刻まれている。
「異常水源への採水は、管理局の指定した技師だけが行う。臨時契約者の指示で採取した水は、公式記録に使用できません」
「その規則は、異常が自然災害だった時代のものだ」
「規則は規則です」
グレンは木札をレオンの胸元へ突きつけた。
「監督官が許可なく採水を続けるなら、調査権限の停止を申請します」
レオンの表情が硬くなった。
背後で、誰かが呟いた。
「監督官まで、あの娘に騙されているんじゃないか」
「父親も記録を改竄したんだろう」
「濁りを広げた責任を取らせろ」
ミレアの胸が締めつけられた。
父の名が、見知らぬ人々の口から汚されていく。反論したくても、古い規則という壁が言葉を塞いでいた。
「ミレア、下がれ」
レオンが言った。
「ですが、あの排水口を閉じなければ、汚れが下流へ――」
「わかっている。だが、今ここで君を拘束されれば、調査そのものが終わる」
「私の信用がないからですか」
思わず声が震えた。
レオンは彼女を見た。いつもの無愛想な顔だったが、その目には怒りがあった。
「違う。古い規則が、君を信用させないために使われている」
グレンが咳払いをした。
「聞こえるように陰謀を語るのはやめていただきたい。ミレア・エルセイン、君には水源への無許可接触と、虚偽の報告による混乱の責任がある。調査が終わるまで、役所への出入りを禁ずる」
「そんな権限が、あなたにあるのですか」
ユアンが食ってかかった。
「管理局規則第十二条だ。補助員の資格停止は、所属監督官の承認を必要とする」
グレンは勝ち誇ったようにレオンを見る。
「承認を」
レオンは答えなかった。
彼がここで拒めば、レオン自身も規則違反になる。承認すれば、ミレアは調査から外される。
その沈黙が、ひどく長く感じられた。
「……承認する」
レオンの声が落ちた。
周囲から安堵したような息が漏れた。ミレアだけが、足元から力を奪われた。
「レオン殿」
「今日だけだ」
彼は低く続けた。
「資格停止の書面には、調査妨害の可能性がある場合、監督官が独自に補助員へ指示できるという但し書きがある。君は私の指示で動く。役所へ入れないだけだ」
グレンが木札を確認した。
「そのような但し書きは――」
「第十二条の補則、三項だ」
レオンは一歩近づき、グレンの手から木札を奪うように取った。
「ただし書きを削った写しを配ったのか。管理局はいつから規則の一部だけを使うようになった」
グレンの顔色が変わった。
ミレアは水槽の縁に残る黒い筋を見た。筋の中に、薄い青色の光が混ざっている。昨日、父の記憶で見た青い石の印章。その光と同じだった。
誰かが、汚水に術式を混ぜている。
「レオン」
ミレアは声を抑えた。
「排水口の内側に、印があります。ヴァレリオ家の印と同じ術式です」
レオンの目が排水口へ向いた。
「触れられるか」
「ここでは無理です。人が多すぎます」
「なら夜まで待つ」
「夜には水門が閉じられます。閉じれば、印の残る水が別の管へ押し出される」
ミレアは周囲を見回した。管理局の役人たちがいる。住民たちは不安に怯え、グレンは彼女を監視している。
信用は失われた。調査の道具も、正式な許可もない。
それでも、水はまだ記憶を残している。
「私を追い出すなら、せめて一つだけ認めてください」
ミレアはグレンへ向き直った。
「この水槽の水を、飲用に戻してはいけません。あなたが規則を守るなら、それだけは守ってください」
「君の妄言を規則にはできない」
「では、あなた自身で確かめてください」
ミレアは足元の石を拾い、水槽の濁水へ投げ入れた。石が沈むと、表面に広がった波紋の一部だけが、逆向きに縮んだ。
流れが術式で歪められている証だった。
レオンがすぐに腰の短剣を抜き、排水口の格子へ差し込む。錆びた格子が外れ、内側から黒い布に包まれた小さな板が現れた。
板には、二本の水草が交差する印が刻まれていた。
誰かが息を呑んだ。
グレンの顔から血の気が引いた。
「それは、誰のものだ」
レオンが尋ねる。
答えはなかった。
ミレアは板へ指を伸ばした。触れる直前、背後の路地から小石が飛んできて、板を弾いた。
同時に、黒い外套の影が走り出す。
「逃がすな!」
レオンが追った。
ミレアも駆けようとしたが、背後から腕をつかまれた。グレンだった。
「資格停止中の者が現場を離れることは許さない」
「離れるのは、あなたの方でしょう」
ミレアは水槽へ手をついた。
濁った水の記憶が一気に流れ込む。
夜の東水門。板を取りつける男。男の手には青い石の指輪。そして、傍らで指示を出す別の声。
アルベルトの声だった。
『ミレアを調査から外せ。あの娘が水に触れれば、すべて露見する』
記憶が途切れた。
ミレアはグレンを振りほどき、震える息を吐いた。
「アルベルトが、私を外せと命じた」
グレンの手が止まる。
遠くで、レオンの怒鳴り声が響いた。逃げた影を捕らえたのか、それとも取り逃がしたのか、ここからではわからない。
ミレアは水槽の黒い板を見つめた。
父を罪人にした家は、父の記録だけでなく、彼女の信用まで奪おうとしている。
けれど、失った信用は、誰かに返してもらうものではない。
自分の手で、取り戻すしかなかった。
ミレアは板を拾い上げた。
「この印が何をしたのか、私が証明します。古い規則のせいで私が黙ると思うなら、間違いです」
水槽の向こうで、レオンが戻ってきた。手には、逃げた影が落とした手袋が握られている。
「捕まえられなかった」
「でも、手がかりはあります」
ミレアは黒い板を差し出した。
「それに、アルベルトの声を聞きました」
レオンは一瞬だけ目を伏せた。
「なら、次は規則そのものを調べる」
「規則を?」
「古い規則には、必ず作った者と、書き換えた者がいる」
彼は板を受け取った。
「信用を奪われたなら、奪った記録を探す。君の父親がそうしたように」
ミレアは頷いた。
役所から締め出され、調査員の資格を失った。それでも、隣にはレオンがいる。そして水は、まだ真実を覚えている。
二人は人波の外へ歩き出した。
東水門の鐘が、再び鳴った。
今度の音は、閉鎖を知らせる鐘だった。




