第6話 父が残した記録に、婚約者の家の印があった
役所の制服を着た男たちは、井戸の周囲を取り囲んだ。
「水利監督官レオン殿。これはどういうことですか」
先頭に立つ男が、濡れた外套を見下ろして言った。年の頃は四十ほど。胸元には東区管理局の銀章がある。けれど、その目は井戸ではなく、レオンの懐ばかりを見ていた。
「枯れ井戸の調査中に水脈が開いた。住民に危険はない」
「調査許可証を」
レオンは黙って許可証を差し出した。男は紙を受け取り、隅々まで確かめるふりをした。
「これは臨時契約の書類ですね。しかも、記録補助員の名がある」
男の視線がミレアへ向く。
「ミレア・エルセイン。前科はないようですが、父親が水路記録の改竄に関与した疑いで失脚した家の娘ではありませんか」
胸の奥が冷えた。
父が失脚したという噂は、婚約破棄の席でもアルベルトの母が口にしていた。けれど、父は最後まで罪を認めなかった。証拠を示すよう求めても、記録を見せることはできないと言った。
「彼女は私の調査協力者だ」
レオンが遮った。
「協力者であっても、井戸に触れた者は事情聴取を受けてもらいます。水質に異常があれば、責任の所在を明らかにしなければならない」
「なら水を採取しろ。住民を追い払う理由にはならない」
「監督官殿、規則をご存じないのですか。異常が発生した水源は封鎖する。それが決まりです」
男が手を上げると、部下たちが井戸の周囲へ縄を張った。
戻ったばかりの水が、再び閉ざされようとしている。
ミレアは井戸の縁へ目を向けた。水は澄んでいた。けれど、底の奥からかすかな濁りが流れ込んでいる。遠い場所で、別の水路が揺さぶられている記憶だった。
「封鎖してはいけません」
男が眉をひそめる。
「何ですって?」
「この井戸は、別の水路へ水を戻しています。今ここを塞げば、圧力が地下で滞ります。次に壊れるのは東区の共同水槽です」
「根拠は」
「水がそう言っています」
男たちの間から、嘲笑が漏れた。
「水が話すと?」
「彼女は水路の異常を読む」
レオンの声は淡々としていた。
「私が確認した。少なくとも、彼女の判断を無視する理由はない」
管理局の男は鼻で笑った。
「監督官殿も、ずいぶん変わった協力者をお持ちだ」
「変わっているかどうかは関係ない。東区の水槽を見ればわかる」
「そこも封鎖すればよい」
「住民を見殺しにするつもりか」
一瞬、空気が張り詰めた。
男は視線を逸らし、部下に何かを囁いた。すると、その部下が井戸の脇へ置かれた採水瓶を蹴った。瓶が石に当たり、乾いた音を立てて割れる。
「証拠が必要なら、改めて採取してください」
レオンの目が冷たくなった。
「わざと割ったな」
「足元が悪かっただけです」
言い争いが続けば、金属筒を見つけられる。
ミレアはさりげなくレオンの袖を引いた。
「ここを離れましょう」
「だが――」
「井戸を守るには、筒を持っていることを知られてはいけません」
レオンは一度だけ井戸を見た。住民たちが不安そうに立ち尽くしている。彼は管理局の男へ向き直った。
「封鎖は一刻だけ待て。東区水槽の確認後、私が判断する」
「命令違反になりますよ」
「異常を見逃す方が、よほど重い」
レオンはミレアとユアンを連れ、井戸の裏手にある細い路地へ入った。ユアンが何度も振り返る。
「本当に、あの人たちは井戸を隠したいのか」
「隠したいのは井戸ではない」
レオンが外套の内側から金属筒を取り出した。
「この中身だ」
筒の蓋は固く封じられていた。ミレアが指先で触れると、冷たい金属の中から父の記憶が流れ込んだ。
暗い部屋。壁一面に広げられた水路図。父は誰かと向かい合っている。
「この印が、なぜ公式記録に残っている」
父が問い詰めていた。
机の上には、青い石を埋め込んだ印章が置かれている。盾の中央に、二本の交差した水草。その紋章を、ミレアは知っていた。
エルセイン家の婚約者、アルベルト・ヴァレリオの家の印。
父の向かいに立つ男の顔は見えない。けれど、指には同じ印の指輪があった。
「この印を押した記録は、すべて廃棄しろ」
「廃棄すれば、王都の水路が壊れる」
「壊れる前に、責任を別の者へ移せばいい」
父は記録板を抱え、首を横に振った。
「水は嘘をつかない。改竄した者の名を、いずれ流れが暴く」
男が父の胸ぐらをつかむ。
「娘の婚約も、家の名誉も、どうなってもいいのか」
ミレアは息を呑んだ。
記憶が途切れる直前、父は水路図の端に小さな文字を書いていた。
ヴァレリオ家。東水門。第二記録庫。
そこで光景が消えた。
「ミレア?」
レオンの声で、彼女は我に返った。
「見えました。筒の中に、記録だけではありません。父はヴァレリオ家の印を見ていました」
ユアンが顔を強張らせる。
「ヴァレリオ家って、あの大商会の?」
「婚約者の家です」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
アルベルトが父の失脚を知っていたのか。婚約破棄の理由として、父の罪を持ち出したのは偶然ではなかったのか。
レオンは筒を見つめたまま尋ねた。
「中を開けるか」
「今すぐに」
筒の蓋には、三重の封印が施されていた。ミレアが水を一滴垂らすと、封印の青い線が淡く光る。父が残した術式だった。
蓋がゆっくり外れ、中から薄い記録紙と小さな黒石が現れた。
記録紙の最初の行には、父の筆跡でこう記されていた。
――水路改竄の命令は、ヴァレリオ家が発した。
ミレアの指が震えた。
その下には、日付と場所、関係者の名前が細かく並んでいる。最後の行だけ、赤い染みで読めなくなっていた。
「父は、ここまで突き止めていた」
「そして誰かに消された」
「いいえ」
ミレアは黒石へ触れた。石の中に残っていた記憶が、鋭く弾ける。
父が記録紙を筒へ押し込み、井戸の底へ隠す。背後から迫る足音。父は振り返り、怯えながらも笑っていた。
「ミレアなら、きっと見つける」
その言葉だけが、はっきり聞こえた。
ミレアは黒石を握りしめた。
「父は、私が見つけると信じていた」
レオンは何も言わず、彼女の隣に立った。
路地の向こうで、遠く鐘が鳴った。東区の水槽に異常が起きた合図だった。
ミレアは涙を拭い、顔を上げる。
「行きましょう。次は東水門です」
「ヴァレリオ家の印を追う」
「ええ。私の父を罪人にした記録を、全部取り戻します」
レオンは短く頷いた。
「その先に何があっても、君一人では行かせない」
「守るつもりですか」
「違う。隣を歩く」
ミレアは初めて、彼の言葉を疑わずに受け取った。
そして二人は、父の残した記録を胸に、東水門へ向かって走り出した。




