第5話 最初の井戸が戻り、二人の距離も変わる
夜明けの鐘が三度鳴るころ、ミレアたちは古い排水口を抜け、東区の外れにある乾いた井戸へたどり着いた。
井戸は十年も使われていない。石組みの縁には雑草が絡み、滑車は錆びつき、底からは水の気配さえしなかった。かつて父が記録板を抱えて何度も訪れた場所だと、ミレアは石に触れる前からわかっていた。
「ここが、次の記録の場所か」
レオンが周囲を見回す。
「父の記録板に、井戸の印がありました。旧西水路から分かれた流れの一つです」
「だが、地図にはただの枯れ井戸とある」
「だから消されたのです」
ミレアは井戸の縁へ手を置いた。
冷たい石の中から、古い水音が押し寄せてくる。雨の夜、子どもたちが井戸の水を汲んでいる。干ばつの年、母親たちが空の桶を抱えて並んでいる。十年前、役人たちが井戸を囲み、「汚染の危険がある」と書かれた札を立てている。
けれど、その言葉の裏側に別の記憶があった。
夜更けに男たちが井戸の底へ石筒を下ろしている。筒の中には黒い液体が入っていた。水を汚したのは井戸そのものではない。誰かが意図的に毒を流し、その責任を井戸へ押しつけたのだ。
ミレアは息を止めた。
「ここは最初から枯れていたのではありません」
「何を見た」
「水を汚したのは、工房の廃液です。けれど、井戸へ流したのは地下水路ではない。人の手で直接、石筒を下ろしていました」
ユアンが顔を青くする。
「それなら、井戸を閉じたのは証拠を隠すためか」
「それだけではありません。井戸の水が地下水路へ戻る仕組みを知っていたからです。汚染が広がれば、住民は井戸を恨む。商会ではなく」
レオンは井戸の底を覗き込んだ。
「水がないのに、戻ると言ったな」
「底に水脈があります。塞がれているだけです」
ミレアは井戸の内壁を見渡した。石の一つに、細い三本の傷が刻まれている。父の合図だった。
彼女がその石へ触れた瞬間、記憶が強く流れ込んだ。
父が縄を使って井戸の底へ降りている。手には小さな金属筒。誰かに追われているのか、何度も振り返っていた。底の石を外し、筒を隠す。そこへ別の男が現れる。
青い石の指輪。
アルベルトだった。
父は筒を守るように抱え、何かを叫んでいる。音は水に溶けて聞き取れない。ただ、最後に父が石壁へ指を走らせる姿だけが残った。
右へ二つ。左へ一つ。
ミレアは目を開いた。
「底に記録があります」
「降りる」
「危険です。記憶の中で、父は追われていました」
「だからこそ、私が行く」
「私も行きます」
レオンはすぐには返事をしなかった。
「君は水の記憶を読む。無理に降りる必要はない」
「必要があります。どこに仕掛けがあるか、私にしかわかりません」
「危険だと言っている」
「私の技能を必要とする時だけ頼り、危険になると遠ざけるのは、対等とは言いません」
風が井戸の中を吹き抜けた。
レオンは眉を寄せたが、やがて革袋から縄を取り出した。
「では、二人で降りる」
ユアンが慌てて声を上げる。
「おれは?」
「上で見張れ。誰か来たら、鐘を鳴らせ」
「わかった」
先にレオンが縄を結び、ミレアの腰へもう一本の綱を回した。指が背中に触れたとき、ミレアは不意に身体を強張らせた。
「締めすぎたか」
「いえ……大丈夫です」
「無理なら言え」
「あなたは、いつもそう言いますね」
「言わないよりはいい」
「でも、あなた自身は無理だと言わない」
レオンの手が止まった。
「私は、無理をしているように見えるか」
「少しだけ」
「君は水路だけでなく、人の顔も読むのか」
「あなたの顔は、石よりわかりにくいです」
レオンはわずかに目を細めた。笑ったのかもしれない。けれど、ミレアには確信が持てなかった。
二人は井戸の底へ降りた。
乾いたはずの底には、薄い水が溜まっていた。泥の下から、かすかな青い光が漏れている。ミレアは膝をつき、石を順に押した。
右へ二つ。左へ一つ。
内部で何かが外れる音がした。底の石が沈み、その下から金属筒が現れる。
ミレアが手を伸ばした瞬間、井戸の上でユアンが叫んだ。
「誰か来る! 役所の制服だ!」
レオンは金属筒をつかみ、ミレアの腕を引いた。
「上がるぞ」
「待ってください。水が――」
足元の泥が大きく揺れた。
次の瞬間、塞がれていた水脈が音を立てて開いた。透明な水が底から噴き上がり、二人の足元を満たしていく。
井戸の壁を伝い、細い流れが上へ向かって走った。石の隙間から水が溢れ、干上がっていた井戸が、十年ぶりに満たされていく。
地上から、驚きの声が聞こえた。
「井戸に水が戻った!」
レオンはミレアの手を強く握った。
「登れ!」
二人は水に押されながら縄を上った。ミレアの指が滑り、身体が落ちかける。レオンがとっさに腕を伸ばし、彼女の腰を抱えて引き寄せた。
胸がぶつかり、濡れた衣服越しに互いの鼓動が伝わる。
「離してください」
「足場を確かめるまで待て」
「……そういう意味ではありません」
レオンは一瞬黙り、それから手を離した。
地上へ戻ると、井戸の周囲には人が集まり始めていた。近所の老人が震える手で水をすくい、何度も頬へ当てている。
「本当に戻った……」
その声には、喜びと同じくらい、失われた年月への悲しみが混じっていた。
遠くから役所の制服を着た男たちが近づいてくる。
レオンは金属筒を外套の内側へ隠した。
「逃げますか」
「逃げない。ここで見つかれば、井戸が戻った証人が増える」
「証拠は?」
「君が覚えている」
ミレアは彼を見た。
「私の記憶を、信じるのですか」
「君が触れた石壁は、私が読めないものを語った。信じる理由としては十分だ」
役所の男が声を張り上げた。
「その井戸に触れた者は、全員その場を動くな!」
レオンはミレアの隣に立った。肩が触れ合うほど近い。
「怖いですか」
彼が低く尋ねる。
「ええ」
「私もだ」
思いがけない言葉だった。
ミレアは彼の横顔を見た。無愛想で、頑固で、何でも一人で背負おうとする男。その人が初めて、自分の恐れを隠さなかった。
「なら、二人で怖がりましょう」
「妙な提案だな」
「対等な協力者なので」
ミレアがそう言うと、レオンの肩からわずかに力が抜けた。
戻った最初の井戸から、清らかな水が溢れ続けている。
そして金属筒の中には、父が命を懸けて残した記録が眠っていた。




