第15話 婚約者の家が、最後の証拠を燃やそうとする
夜明けの共同井戸から役所へ戻る道は、いつもより長く感じられた。
ミレアは、父の紙と町の人々の証言を書き留めた布を胸に抱えていた。隣を歩くレオンは、鉄箱を外套の内側に隠している。失われた水路の図面、改竄された記録帳、そして父が残した短い手紙。どれも、これまでなら一つずつ消されていたはずの証拠だった。
「このまま水利局へ持ち込めば、局長代理が奪うでしょう」
「だから、先に証人を集める」
レオンは歩みを緩めずに答えた。
「記録を一人の役人の机に置けば、紙ごと消される。だが、町の人間が見ていれば、燃やしたことまで隠せない」
「証人なら、もういます」
ミレアは背後を振り返った。南区のパン職人や市場の女たち、共同井戸の周りに集まっていた住民が、少し離れてついてきている。誰も大声では話さない。それでも、足音は途切れなかった。
役所の門前に着いたとき、騎馬の一団が横切った。
濃紺の外套をまとった男たちだった。
先頭の男が、ミレアたちに気づいて馬を止める。顔は見えなかったが、あの地下水路で聞いた声と同じ低さで言った。
「記録を返せ。今なら、まだ父親の名誉を傷つけずに済む」
「父の名誉を傷つけたのは、あなたたちです」
ミレアが答えると、男は薄く笑った。
「名誉など、紙一枚で簡単に変わる」
彼らはそれ以上何も言わず、役所の奥へ消えていった。
レオンは男たちの背を睨んだ。
「急ぐぞ」
しかし、水利局の記録室へ入る前に、伝令が駆けてきた。
「監督官! 旧施療院の薬品倉庫で火事です!」
ミレアの胸が冷たくなった。
失われた水路の出口。改竄記録に記された浄化薬の保管場所。そして、婚約者の家が長年管理してきた倉庫。
「証拠を燃やしている」
レオンが低く言った。
二人は馬車を借り、旧施療院へ向かった。通りにはすでに黒煙が流れている。倉庫の周りには水利局の役人だけでなく、婚約者の家の使用人たちもいた。火は屋根まで回り、窓から赤い舌が噴き出している。
その前に、ミレアの元婚約者が立っていた。
「来ると思っていたよ」
彼は以前と変わらない整った服を着ていた。けれど、袖口には煤がつき、手には油の匂いが染みついている。
「これは事故だ。古い薬品に火が移った」
「薬品倉庫で、帳簿を焼くのが事故ですか」
レオンが一歩進んだ。
元婚約者は肩をすくめる。
「あなたはもう水利監督官ではない。勝手に立ち入れば、職権濫用で拘束される」
「なら、拘束しろ」
レオンは腰の印章を掲げた。
「臨時水路調査官として、証拠保全を命じる」
相手の顔から余裕が消えた。
その瞬間、倉庫の奥で梁が崩れた。炎の向こうから、かすかな水音が聞こえる。
ミレアは地面に手をついた。
焼けた石の記憶が、指先から押し寄せてきた。
昨夜、倉庫の裏口から運び込まれた木箱。中には帳簿と封蝋された書類が入っている。男たちはそれを火の中へ投げ入れた。だが、箱の一部が床下へ落ち、古い水路の縁に引っかかっている。
「床下です。まだ燃えていない箱があります」
「聞いたか!」
レオンが消防人たちへ叫んだ。
彼らは濡れた毛布をかぶり、崩れかけた倉庫へ入っていった。元婚約者の家の使用人が止めようとしたが、南区の住民たちが道を塞ぐ。
「見せてもらおうじゃないか」
パン職人が怒鳴った。
「水が濁った理由を、今度こそな」
やがて、消防人が黒く焦げた木箱を抱えて出てきた。蓋は焼け落ちていたが、中の書類は水路の湿気に守られていた。
ミレアは箱へ手を伸ばした。
紙の記憶が流れ込む。
七年前の工事命令。水路を塞いだ責任者の署名。浄化薬を納入した商会への特別許可。そして最後の一枚に、婚約者の家の家印が押されていた。
その下には、父の名がある。
だが、署名の日付は父がすでに退職した後だった。
「これは偽造です」
ミレアは震える声で言った。
元婚約者が顔を強張らせる。
「そんなもの、君の魔法だけでは証拠にならない」
「魔法だけではありません」
レオンが焼け残った紙を掲げた。
「日付と印章、町の証言、地下水路の構造が一致している。お前の家は、工事の責任を父親に押しつけ、その後も水質異常を隠すために薬を売り続けた」
「黙れ!」
元婚約者が叫び、ミレアへ手を伸ばした。
だが、彼の手が届く前にレオンが腕を掴んだ。
「もう、彼女を役立たずとは呼べないな」
レオンの声は静かだった。
「君の家が消そうとした証拠を、彼女が見つけた」
ミレアは焼け残った紙を見つめた。父の名は汚されていた。けれど、今なら取り戻せる。
彼女は住民たちの方を向いた。
「この記録を、水路記録院の設立審査へ提出します。誰か一人の判断で消されないように、町の人々が読める場所へ置きます」
最初に拍手したのは、年老いたパン職人だった。
小さな音は、やがて大きな波になった。
燃え落ちた倉庫の向こうで、地下の水が流れている。長く塞がれていた水は、灰の下から新しい道を探していた。
ミレアはレオンを見た。
「これで、あと少しですね」
「ああ。だが、相手も最後まで抵抗する」
「なら、私たちも最後まで記録します」
レオンは頷き、焼け残った箱を二人で抱えた。
灰の中には、まだ父の真実が残っていた。|_一本道




