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セレネーは本を抱えて、息を吸ったり吐いたりと緊張を解していた。今日はこの本を元に戻そうと思っている。立入禁止の書庫にあったものを持っているのはどう考えてもまずい。それに、本がこの部屋にあること自体が不自然だ。
部屋を出ようとすればアンドリオンがいるのだろうか。書庫で助けて貰ってから数日経つが、夜の護衛はさすがに交代するようだ。その隙を狙うのもいいだろうか。
セレネーは、アンドリオンに対して複雑な気持ちを抱えていた。セレネーが危機を脱したのは確かにアンドリオンの助けがあったからだ。しかし、アリアドネの部屋を探ることも咎めなかったし、書庫にいたことについて何も聞かれなかった。
アリアドネのことを調べていると知っているからだと言われればそうなのだが、それにしてもやはりおかしい。セレネーがアンドリオンに抱く違和感に気付いたのは、本を読み終えた後だった。
セレネーはアンドリオンの言葉を思い返した。
『アリアドネは隣国と手紙のやりとりもしてたし、部屋にあれだけ沢山の本もあった。そりゃあ、いろんなことを知ってて当然だ』
そう、彼はアリアドネのことを『アリアドネ』と呼んだ。ただの護衛がアリアドネをそう呼ぶだろうか。普通はみな『陽の巫女様』と呼ぶ。エヴァはアリアドネ様と呼ぶが、それは特別だ。セレネーがリアと呼ぶのもアリアドネに許されているからだし、周囲が咎めないのも一応巫女という肩書きがあるからだ。
神殿長は国を治める立場なので、何人に対しても呼び捨てである。しかし、他の為政者たちも『陽の巫女様』と呼ぶのだ。神殿女たちが名前を呼ぶときも『陽の巫女アリアドネ様』である。
ところが、アンドリオンは敬称すら付けなかった。あのとき何度も呼び捨てたのだから、間違えたとか忘れていたとかではないだろう。
それだけでばない。アリアドネが隣国と手紙のやりとりをしていたと、なぜ一介の護衛が知っていたのか。セレネーはアリアドネの手紙をアンドリオンに見られていたが、中身は見えなかったはずだ。セレネーの脳裏に、落としたパピルスの束を手早く拾うアンドリオンの姿が蘇った。もやもやとした気分が込み上げて、思わず顔を顰める。
それから、セレネーの通った秘密の通路だ。地下の書庫から戻るときも、行きと同じ所を通った。しかし、アンドリオンは何も聞かなかった。それどころか、特段不思議そうにも見えなかった。神殿の大人たちも知らない、アリアドネと二人きりの秘密である通路を使ったのにも関わらずだ。
更におかしいのは、セレネーの押し込められた隠し部屋だ。あの時は助けて貰ったことにほっとして、疑問に思わなかった。あの部屋で聞いた話に衝撃を受けたこともあるし、何より助けてくれたことに感謝もした。
けれど、なぜあそこにアンドリオンがいたのだろうか。あの隠し部屋の奥に、同じような通路があったのだろうか。それともセレネーが行くより前に、同じ通路を通って書庫に行っていたのだろうか。それにしても、なぜあの書庫に。書庫での出来事を思い出したセレネーは、小さく身震いした。
考えれば考えるほどおかしなことばかりで、セレネーの頭は混乱する。その場ですぐにおかしいと気付かず、何も聞かなかった自分はなんて間抜けなのだろう。あの場でセレネーを慰めるようなことを言ってくれたのもアンドリオンだが、まさにその人が怪しい存在なのだ。
しかし、セレネーが最初からそこまで警戒心を抱かなかったのは、単にアンドリオンが親切だったからだけではない。
まず、祭壇の部屋でセレネーが声を上げたとき、棺から引き離したのはアンドリオンだった。そして、アレクシスはそれを見ていたのだ。しかもその後エヴァが侍女になると同時に、アンドリオンを護衛として付けたのもアレクシスだ。
セレネーは護衛や神殿衆の顔を、それほど知っているわけではない。入れ替わりもあるし、月の巫女にわざわざ近寄る者も少ないからだ。だから、アンドリオンが元々いた護衛の一人なのか、他所から来たのかも知らない。
けれど、エリスとリュディアの反応を思い返せば、元からいた護衛ではないのだろう。ならば、アレクシスがどこかから呼び寄せたのか、あちらからやってきたのか。どちらにせよ、セレネーの身を案じて側に付けたのだと思える。だからこそあまり警戒心を持たなかった。
それにもう一つ。セレネーをレネと呼んだのは、偶然なのか意図的なのか。セレネーをレネと呼ぶのはアリアドネだけだ。他は誰にも呼ばれた覚えはない。その呼び名をなぜアンドリオンが。考えれば考えるほど分からなくなり、セレネーは頭を抱えたい気持ちで唸り声を上げた。
そもそも、深く物事を考えるのも苦手なのだ。幼いころからアレクシスや大人たちに導かれるままに歩んできた。アリアドネに出会ってからは、度々手を差し伸べて貰っていた。自分から何かをしようとか、見つけようとか、そんな風に思ったのは今回が初めてだった。
腕の中の本をもう一度しっかりと胸の前で抱え直し、ため息を吐いた。どちらにせよ、書庫にこれを戻さなければならない。セレネーはそっと入り口の扉に耳を押し当てる。外の気配を探るが、何の物音もしない。今の護衛が誰なのか、それも分からない。
アンドリオンがいたら、書庫に行くことはすぐに分かってしまうだろう。もし違う護衛がいたら何と言い訳をすればいいだろうか。扉の前を何度も往復しながら考えるが、一向にいい案は思いつかない。考えても分からないならいっそ扉を開けてしまおう。セレネーは一度ぎゅっと目をつむり、ゆっくり扉を押し開けた。
細く開いた隙間から外を覗くと、暗い回廊しか見えない。護衛が立つなら扉の開いたすぐ側のはずだ。もしかしたら誰もいないのかもしれないと期待と不安に心臓の音が速くなる。更に扉を開き、左右を確認しようとしたところで呆れたような声が響いた。
「こんな時間にどこへ行くつもりだ?」
ぎくりと肩を震わせゆっくり見上げると、開いた扉の影からアンドリオンが顔を覗かせた。
「……どうしていつもと立ってる場所が違うの?」
「誰かさんが中から不穏な気配を漂わせてたからな」
セレネーは目を瞬かせてから、視線を左右に彷徨わせた。
「ひ、人の部屋の様子を窺うなんて失礼よ」
「護衛対象だからな。部屋の中だって絶対に安全とは言い切れない」
肩を竦めるアンドリオンに、セレネーは顔を青褪めさせた。
「部屋の中も危ないの?」
セレネーの部屋にも隠し通路があるのだろうか。途端に不安が込み上げて、思わず部屋の中をぐるりと見渡した。
「ああ、悪い。怖がらせるつもりじゃなかったんだが」
気まずそうに頬を掻いたアンドリオンは、眉を下げてセレネーを見下ろした。
「セレネーが何をしでかすか分からないって意味で、ちょっとした冗談のつもりだったんだ」
部屋の中を見ていたセレネーは、ぱっと顔を上げてアンドリオンを小さく睨んだ。
「酷いわっ」
「す、すまん。……でも、何かやらかす気だったのは当たってるだろ?」
アンドリオンはセレネーの顔と抱えた本を交互に見比べた。
「変なことするわけじゃないわっ! これを……返しにいこうと思って」
「全く、一人で動くなんて無茶な巫女様だな」
「だって」
あなたを信用していいのかわからないし、という言葉を飲み込んだセレネーは、続きに詰まって呻き声を上げた。アンドリオンは首を傾げるが、それ以上のことを聞いてくる様子はない。
「そろそろ交代の護衛がくる時間なんだが」
回廊に続く階段の先を見つめたアンドリオンが、小さく「あっ」と声を上げた。
「今日の夜番はヴァンか」
セレネーはその護衛官の顔も知らない。最近入ったばかりであろうアンドリオンが、親しげに話す姿も怪しく見えてしまう。けれど、エリスに愛称を呼ばれているくらいだ。誰とでもすぐに親しくなれるのかも知れない。そう考えたところでセレネーの胸がズキリと痛み、その違和感に首を傾げた。
「ああ、そうだけど。月の巫女様がなぜそこに?」
「ちょっと神殿長様に頼まれた物を返しにいきたいそうだ」
「ふうん。お前が一緒にいくのか?」
「そうだ。少し遅くなるかもしれんが」
「わかった。まあ好きにすればいい。適当に無人の部屋でも見張っとくさ」
肩を竦めたヴァンは、セレネーと視線を合わせて片目を閉じた。口元には楽しげな笑みを浮かべている。他の神殿関係者たちと違い、ヴァンと呼ばれた護衛官は妙に気安い。セレネーは慣れない態度に顎を引き、ぎこちない笑みを浮かべた。
「おい、ヴァン」
アンドリオンが軽くヴァンの胸を叩き、咎めるような視線を向けた。ヴァンは両手を上げて肩を竦めているが、悪びれた様子もない。
軽くため息を吐いたアンドリオンは、セレネーに向かって「いくぞ」と声を掛けてヴァンの横を通り過ぎた。セレネーは二人を交互に見比べるが、足が竦んで動けない。本当にアンドリオンに付いていっていいのだろうか。このヴァンという護衛官の青年は、信用できるのだろうか。
ヴァンをじっと見上げていると、なぜかどこかで見たような気がして目を離せなくなる。誰かに似ているような気がするが、それが誰なのか分からない。ヴァンはセレネーの様子を興味深げにじっと見つめ、浮かべた笑みを深めた。
「おい、レネっ」
不意打ちで呼ばれたセレネーは、その呼び名にぎくりと肩を跳ねさせた。慌ててアンドリオンに視線を向けると、不機嫌そうな顔で振り返っていた。セレネーが急いでアンドリオンの方へ足を進めると、すれ違いざまにヴァンのくすくすと笑う声が耳を掠めた。
地下書庫までの道のりは、運良く誰にも見つからなかった。しかし、先程から何となくアンドリオンの背中から不穏な空気が漂っている。本来なら休憩できる時間を潰されて、面倒だと思っているのかも知れない。
「あ、あのっ」
セレネーは書庫に入ったところで遠慮がちに声を掛けた。アンドリオンは「どうした?」と振り返るが、その表情は既に普段通りだ。
「えっと、お休みの時間なのにごめんなさい」
片眉を上げたアンドリオンは、訝しげな顔でセレネーを見下ろした。
「護衛の目を掻い潜って抜け出そうとしてた癖に、随分殊勝な物言いだな」
セレネーは眉を下げてアンドリオンを見上げた。
「それは、今まで護衛なんてついてなかったから、なんだか落ち着かなくて」
「そうか。まあ、そのうち慣れるだろ」
肩を竦めたアンドリオンに、セレネーは「そうね」と小さく返して俯いた。本当に慣れてしまって大丈夫なのだろうか。アンドリオンもだが、先程のヴァンという護衛官の青年も気になる。見覚えがあるような気がするのはなぜなのか。
口を閉ざして考え込むセレネーを見下ろしたアンドリオンは、再び不機嫌そうな表情を浮かべた。
「ヴァンが気になるのか?」
セレネーは図星を指されてぱっと顔をあげる。眉を寄せるアンドリオンの表情に、視線を所在なく彷徨わせた。
「あ、えっと、あの。ど、どこかで会ったような気がして」
思わず漏れた本音に、掌からじっとりと汗が滲む。アンドリオンに何かを問われると、うっかり全部話してしまいそうだ。
「……なるほどな」
アンドリオンは腕を組んで考え込むが、そのまま口を閉ざした。セレネーは深く聞かれず小さく息を吐いた。どこで会ったか聞かれても答えようはないし、また不機嫌になられても気まずい。とにかく急いで用事を済ませてしまおうと、持ち出した本を戻すべく書棚をぐるりと見渡した。
前回きたとき落ちていた本は、全て棚に戻されていた。定期的に見回りがくるのかもしれない。長居は無用だ。そう思うのだが、ペンダントの紋章の本を見付けたことで、他にも何か分かることがないかと考えを巡らせる。
適当なところに本を戻して、並んだ背表紙を視線で辿る。歴史や紋章について書かれていそうな本は見つからず、なんだか難しい文言ばかりが並んでいた。
「なにか探してるのか?」
ふいに声を掛けられ、セレネーはアンドリオンの存在を思い出す。本を探すのに夢中になって、つい忘れていた。それにアンドリオンは、あまり気配を感じない。
「えっと、この間の紋章のこととか、昔の歴史とか、もっとわかることはないかなって」
ペンダントの紋章がなんだったのか、アンドリオンに話していいのかわからない。けれど、この書庫に出入りできるなら、既に知っているのかもしれない。セレネーはアンドリオンを見つめ、探るような視線を向けた。
「……なんだ。俺の顔に何かついてるか?」
「えっ? あ、いいえ。……あの、聞きたいことがあるんだけど」
「どうした?」
セレネーは少しの間逡巡するが、思い切って口を開いた。
「あの本の紋章がなにか、あなたは知ってるの?」
一瞬目を見開いたアンドリオンは、呻き声をあげて首の後ろを掻いた。気まずそうにセレネーを見下ろし、ため息を吐いた。
「まあな。……今は詳しく話せないが」
セレネーは眉根を寄せてアンドリオンを見上げた。思い返せば本を開いたとき、アンドリオンは驚いていなかったかもしれない。そんなことにも今更気づくなんてと、自分の迂闊さに唇を噛み締めた。
「俺からも聞きたいことがあるんだが」
「なに?」
「レネにとってのアリアドネは、一体なんだ?」
セレネーは訝しげな顔のまま、小さく首を傾げた。なぜそんなことを聞くのだろうか。そして、それを答えたことによって何が変わるのだろうか。目の前の護衛官がなんだか少し遠く感じる。
ふっと息を漏らして曖昧に微笑んだセレネーは、そのまま言葉を濁して書庫を後にした。




