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2-2

 セレネーの覚えている一番古い記憶は、親に売られた日のことだ。晴天続きの空はどこまでも青く、澄み渡る空気が静謐な神殿を包み込んでいた。

 

 両親に手を引かれたセレネーは、初めての神殿に目を丸くした。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、物珍しさにきょろきょろと辺りを見回した。

 

「とおさん、おっきなおうちね」

「セレネー、ここは神殿だよ」

「しんでん?」

 

 幼いセレネーは首を傾げて両親を見比べた。

 

「今日からここで暮らすのよ」

 

 セレネーは丸くした目をさらに見開き、繋いだ両親の手をぎゅっと握りしめた。

 

「おうちがかわるの?」

「そうよ」

 

 母の笑顔に陰りが滲むが、セレネーには逆光でその顔が見えない。ただ小さな家から大きな神殿へと移り住むことが、なんだかいいことのように思えた。

 

「こんなにおっきなおうち、みんなまいごになっちゃうね」

 

 無邪気な笑みを浮かべたセレネーを、両親はどんな気持ちで見つめていたのだろうか。二人の顔はやはり影になっていて、セレネーがはっきりと思い出すことはない。

 

 両親より大分年上の神殿長、アレクシスに対面したのはこの日が初めてだった。見上げたその人は、実際の背丈以上に大きく感じられた。思わず後ずさったセレネーを、アレクシスは腰を落として出迎えた。

 

「月の巫女、セレネー。よくぞ参った。今日からここがそなたの住処だ」

「すみか?」

「セレネー、ここがあなたのお家になるのよ」

 

 顔のわからない母は、セレネーに言い聞かせるような声音で話した。両親はそっとセレネーから手を離し、神官と何かを話し始めた。じゃらじゃらと音の鳴る大きな麻袋を手にして、アレクシスに向き直る。膝を付いた両親は、アレクシスに向かって祈りを捧げた。

 

「とおさん……かあさん?」

 

 両親に近寄ろうとするセレネーを、神官の一人が留めた。

 

「神殿長様、セレネーをお願いします」

「神殿長様、特別な計らいに感謝します」

 

 顔を上げた二人が、どんな目でセレネーを見つめていたのか覚えていない。そのまま部屋を出ていこうとする二人を、大きな声で呼び止めた。

 

「とおさんっ」

「かあさんっ」

 

 手を伸ばして叫んでも、二人は振り返らなかった。

 

「おいてかないでっ」

 

 二人の後ろ姿が大きく歪み、両目からは止めどなく涙が溢れ出した。神官を振り切って走り出そうとしたところで、アレクシスに抱きとめられた。

 

「すまない、セレネー。これは月の巫女の定めなのだ」

 

 月の巫女が何なのか、定めとはどういう意味なのか。幼いセレネーには何もわからず、ただ両親の去った扉を見つめながら大声で泣き続けた。

 

 翌朝目を覚ましたのは、今もセレネーの過ごす月の巫女の部屋だった。今までの家に比べれば贅沢なその部屋は、本来なら走り回りたくなるような広さだった。しかし、そこに両親の姿はない。前日の光景を思い出したセレネーは、赤く腫れ上がった瞼が収まる暇もなく泣き続けた。

 

 その頃の侍女の名前をセレネーは覚えていない。母親と同じ年頃の女で、優しかったような気がする。神殿に売られたセレネーを気の毒に思ったのかも知れない。


 神殿で過ごすための基本的な作法を教えてくれたのはこの人だ。服の着替えもままならぬ年頃のセレネーは、この時の侍女には着替えを手伝って貰っていた。それは侍女としての勤めというより、母親代わりのようなものだった。自分で服を着られるように教えてくれたのも彼女だ。

 

 当時の陽の巫女は高齢で、どことなく近寄りがたかった。神殿での祈りの作法を教えてくれたのは、その人だった。と言っても、陽の巫女ほどの力も役目もない。どこか高貴で威厳に満ちたその人が、セレネーは何となく苦手だった。自分が神殿に売られた原因が、その人にあったからかもしれない。彼女の神託がなければ、セレネーはずっと両親と暮らしていたはずだから。

 

 三年の月日が経っても、セレネーは神殿が居心地悪く馴染めなかった。一人での着替えにすっかり慣れた頃、隣国から新たな陽の巫女が来ることになった。セレネーが神殿に売られた日と同じ、よく晴れた抜けるような青空だった。ただし、その空気は天と地ほどの差があった。

 

 数週間前から神殿内外は騒がしく、窓から見える眼下の町もどこか賑わっていた。茶色の屋根と真っ白な壁が陽の光に反射して、セレネーは微かに目を細めた。いつもより沢山の人が行き交い、色とりどりの花輪やリボンが掲げられている。見ているだけで心が浮き立つが、それが何を意味するのか、その時のセレネーにはわからなかった。

 

「ねえ、みんなたのしそう。なにがあるの?」

 

 母親代わりの侍女を目を輝かせて見上げた。侍女は少し躊躇うような仕草を見せてから、曖昧に微笑んだ。

 

「陽の巫女様がいらっしゃるのですよ」

「ひのみこさま? もういらっしゃるのに?」

「次の陽の巫女様です」

 

 セレネーは首を傾げてから、もう一度窓の外を眺めた。

 

「どこからくるの?」

「お隣の国ですよ」

「ここからみえる?」

「いいえ。ずっとずっと遠いところです」

 

 眼下に望む町ですら遠いのに、それよりもっと遠いところから来るという陽の巫女。自分と同じように売られてくるのだろうか。そう思ったが、口に出すことは憚られた。賑やかな町をつい先程まではわくわくしながら眺めていたが、今度はもやもやとした気分が湧いてくる。

 

「月の巫女様。おめでたいことですから、楽しくてよろしいのですよ」

 

 うつむき加減のセレネーの頭をそっと撫でて、目を細めた侍女が淡く微笑んだ。

 

 特別な装束を身に着けたセレネーは、侍女に手を引かれて神殿の入口へ向かった。滅多に着ない薄紫の肩掛け布や、小さなセレネーにとっては重い装飾品に頭が不格好に揺れる。周囲の大人は顔を顰めたり、コソコソとなにかを囁きあっているが、セレネーの目にも耳にも入らない。それ以上に注目されることへの緊張と、新しい陽の巫女に会うことへの期待と不安で、心臓が潰れてしまいそうだったから。

 

 前庭に集まった人々は、左右に分かれて巫女の到着を今か今かと待ち侘びていた。


 列の先頭の者が見えた途端、わっと歓声が沸き上がった。セレネーはどきどきと高鳴る胸を両手で抑え、ごくりと唾を飲み込んだ。


 横に立ったアレクシスに軽く頭に手を置かれ、見上げると柔らかな笑みを浮かべていた。セレネーは少しだけ肩の力が抜け、再び陽の巫女が現れるであろう先へ視線を戻した。

 

 徒歩の者が見えた後には、屈強な男たちに担がれた輿が現れた。二本の棒を渡した上に、豪華な囲いの付いた立派なものだ。その上にはセレネーよりいくつか年上の少女が二人、寄り添うように乗っていた。

 

 いつの間にか民の歓声は止み、皆が輿に注目していた。張り詰めたような雰囲気に満たされ、セレネーは息が苦しくなる。まるでその場の空気が全て入れ替わってしまったかのようだ。じわりと汗が滲み、全身の血の気が引いていく。息が詰まり、セレネーの身体が揺らめいたところで、少女が輿から降り立った。

 

「ありがとう」

 

 よく通るしっかりとした声に、艶やかな笑顔。それはまるで、美しく咲き誇る芍薬のようだ。幾重にも重なる花びらが開いたかのように、華やかであり鮮やかな。

 

 ゆっくりとこちらに向かってくる足取りはしっかりと地面を踏みしめ、迷いなく真っ直ぐ進む。まずは陽の巫女の前で立ち止まり、小さく笑みを交わした。


 向かい合う二人の髪が陽の光に透けて、まるで遠い世界のお伽噺でも見ているかのような気分になる。この国では見られない白金の滑らかな髪の小さな巫女に、その場の全ての者が目を奪われた。よく見れば今代の陽の巫女も、老いてはいるが華やかな顔立ちだ。

 

 神殿長にも挨拶を済ませた次代の陽の巫女は、それまでとは一変した明るく年相応の笑顔でセレネーの前に立った。じっと見つめられたセレネーは、思わず一歩後ずさった。

 

「初めまして、アリアドネよ。月の巫女……あなたの名前は?」

 

 それまで息を止めていたセレネーは、屈託のないアリアドネの様子にぽかんと口を開いた。目をぱちぱちと瞬き、何を聞かれたのかを思い出そうとするがわからない。

 

「ふふっ。緊張してるのかしら。名前を教えてくれる?」

「セっ、セレネー!」

 

 教えられた挨拶すら頭から抜け落ち、必死に自分の名前を告げた。アレクシスとセレネーの侍女以外の大人たちは眉を寄せたが、口に出して咎める者はいなかった。

 

「そう、セレネー。素敵な名前ね。今日から私もここに住むのよ。よろしくね」

 

 差し出された手とアリアドネの顔を何度も見比べる。侍女やアレクシスと手を繋いだことはあったが、握手をするのは初めてだ。少しだけ大人の仲間入りをしたような気分になり、セレネーは照れたようにアリアドネの手を握り返した。

 

 存在感の大きさとは違い、セレネーより少し大きいだけの柔かな手だった。その暖かさにほっと息を吐き、固くなった身体の力が自然に抜けた。

 

 それから二年の間は平穏だったように思う。眠れぬ夜は隣室のアリアドネと壁で合図を送り合い、時折手を繋いで秘密の探検に出る。アリアドネが儀式や作法を学ぶために不在のときを除いて、昼夜の食事を共に過ごした。


 陽の巫女と共に隣国からきたのは、アリアドネより二つ年下の侍女、エヴァだった。常にアリアドネに寄り添い、侍女としての努めを他の者から学んでいた。エヴァもまだ子供であったため、一人でアリアドネの世話をすることが困難だったからだ。

 

 セレネーが八歳、アリアドネが十二歳になったときのことだった。陽の巫女が身罷られ、その見送りが盛大に行われた。それと同時に、陽の巫女としての役割をアリアドネが担うようになった。


 エヴァは僅か十歳だったが正式な侍女となり、それでもまだ子供であっために補佐が付けられていた。そして、セレネーの侍女もソフィアに変わった。

 

 セレネーより十歳年上のソフィアは、侍女としての適切な距離を保った。それまでの侍女はときに母のように、けれど侍女としての役割を果たし、セレネーに寄り添っていた。ソフィアはまだ幼いセレネーに対しても、大人の巫女に接するような態度だった。


 アリアドネも陽の巫女としての務めが増え、セレネーは一人で過ごす時間が増えていった。

 

 それでも昼夜の食事の時間になれば、度々エヴァがセレネーの食事を運んでアリアドネの部屋を訪れた。以前のようにほぼ毎日とはいかないが、セレネーはそれがとても楽しみだった。その日の出来事を互いに話し、他愛もない冗談を言い合う。セレネーはアリアドネを姉のように慕い、アリアドネもまたセレネーを大切に扱った。

 

 大人に近付くにつれ、セレネーは自分の立場を認識するようになった。民と同じ黒髪を持つ、神殿女にも劣る出自の名ばかりの巫女。神殿に上がる者の多くは、濃茶の髪を持つ裕福な家の者たちだ。その中でセレネーのありきたりな黒髪は、美しい花たちに紛れた雑草のように浮いていた。

 

 けれど、出会ってから十一年経った今も、アリアドネはずっと変わらなかった。ときには姉のように、ときには唯一の友のように。セレネーにとってたった一人の、この世に存在する意味をくれた人だった。

 

 それなのに、アリアドネはセレネーに何も告げずにどこかへ消えた。目の前を照らす道標となる光を失い、セレネーはその場で動けなくなりそうだ。暗闇に一人取り残された気分で、本当は毎日が不安でたまらない。

 

 それでも、エヴァが神殿にいることで心の均衡はぎりぎり保たれている。共に隣国からきた、一番信頼しているはずの侍女であるエヴァ。彼女をセレネーの側に残したのは、アリアドネの意思ではないか。アリアドネ不在の今でも取り乱す様子のないエヴァに、セレネーはアリアドネが生きているのだと思わずにはいられない。

 

 なぜ他の人間がそれに思い至らないのか不思議に思うが、近くで接していなければ気付かないこともあるのかも知れない。なぜならエヴァは、常に感情を表に出さないからだ。それでもセレネーは、他の人間より多くの時を近くで過ごしてきた。アリアドネと共にした時間の中で、二人の絆がどれほど強いのかも知っている。

 

 エヴァがセレネーをどう思っているのか、窺い知ることはできない。けれど、ソフィアより手厚く接してくれているのは間違いない。それが侍女の仕事だと淡々と告げてはいるが、本当に気に入らなければソフィアに習って手を抜くのではないだろうか。


 それに、アリアドネとの食事を当然のように取り計らっていた。いくらアリアドネの命であっても、嫌々従っているようにも見えなかった。そう思うのはセレネーの願望だろうか。

 

 セレネーは腰に下げた巾着から、布に包んだペンダントを取り出した。じっと見下ろし、紋章を指で軽くなぞってみる。なぜこのペンダントがアリアドネの部屋にあったのか。幼い日にあの紋章をセレネーに見せたのは、どういう意味があったのか。わからないことばかりで、セレネーの心がアリアドネを求めて悲鳴を上げる。

 

 ペンダントを両手で包み込み、目を瞑って祈りを込めた。

 

「どうか、一刻も早くアリアドネに会えますように」

 

 そっと開いた両手の中のペンダントが小さく光り、セレネーの目には暗い道を照らす一筋の光のように映った。

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