2-1
書き物机に置かれた蝋燭の明かりが静かに揺れ、セレネーの手元を暖かな橙色に照らし出す。その炎に合わせて、セレネーの影も頼りなく揺らめいた。昼間はエヴァがいてゆっくり読むことのできない本を、セレネーはここ数日かけて毎夜読み進めていた。
本に書かれているのはこの国、ヘリオニアの歴史だ。と言っても、セレネーの知っているものとは少し違う。しかも文体が古いせいで、途中で何度も引っかかる。その為なかなか読み進めることができずに、足踏み状態だった。
今夜は最後までしっかり読もうと思っているが、まずは違いを比べてみることにした。
セレネーの知っている——いや、この国の民が知っている歴史はこうだ。
数千年前どこからともなく神の使いを名乗る者が現れた。それが一体何者なのか、名前すら謎に包まれている。神の使いは国を統べることを神より認められ、そのときから国の名がヘリオニアと定められた。神の使いは王となり、国を治めることになった。
これとは別に、陽の巫女と呼ばれる者が現れる。一番最初の陽の巫女は、神により選ばれた者だった。神の声を聞くことができるのは、陽の巫女のみとなった。次の陽の巫女が決まるのは、その神託によるものだ。陽の巫女は地下神殿に隠されており、その存在は幻のようなものだった。しかし力は絶大で、数百年置きに訪れる厄災を鎮めるのは、陽の巫女の役割だ。
前に厄災があった年、私欲により国を治めていた王を排斥するために、分家の者たちが民と共に蜂起した。捕らえられていた陽の巫女を解放し、神より認められた分家の者が新たな王となった。その子孫が今の神殿長であるアレクシスだ。
一方で直系の者たちは、陽の巫女を置いて忽然と姿を消した。その行方は誰も知らない。同時に厄災の年、いつしか必ず神託により選ばれるようになった月の巫女も、行方がわからなくなった。その年の厄災は無事鎮まったが、それは陽の巫女が神殿に留まったからだと言われている。
陽の巫女が地下神殿ではなく、地上の神殿で暮らすようになったのはそのときからだ。地上の神殿で祈りを捧げ、神託を受ける。次代の陽の巫女はなぜかいつも隣国からくる者で、皆美しい白金の髪をもっていた。
セレネーは唸り声を上げながら、一度読んだページを再び開く。そこには今思い返したものとは違う歴史が記されていた。神の使いが王となったことや、陽の巫女の役割などは同じなのだが。数百年前のできごとが少しだけ違う。
書かれているのはこんな風だ。
一斉蜂起は、地下神殿に閉じ込められた陽の巫女と、月の巫女を役割から解放する為という名目だった。其の実、陽の巫女の選定や神託を疑い、権力を欲した一部の分家の企みだった。
混乱の最中、王に連なる者たちと月の巫女は、地下迷宮を通り最奥の神殿へ逃れた。数に劣る王とそれに連なる者たちは、無事隣国へ逃げ延びた。その年の厄災は、残った陽の巫女により鎮められた。しかしその儀式を見ていない分家の者たちは、その力を心から信じてはいない。
セレネーは首をひねって、何度も繰り返し読んだページをじっと見下ろした。一体どちらが本当なのだろうか。元々の王家が利益を独占していたのか、それとも権力を欲したのは分家の方なのか。
頭の中にアレクシスの姿を思い浮かべてみるが、とても強欲だとは思えない。そう言えば、アレクシスには子供はもちろん、妻もいない。権力を欲しているなら、跡継ぎがいないことも不自然だ。
それに、陽の巫女の力が絶大なのは誰もが知っている。まさにアリアドネがそうなのだから。特に彼女は、ここ数代の巫女の中でも強い力を持つと言われていた。間近でその力を見ている自分はもちろんのこと、神殿の人間は皆アリアドネの力を信じていると思っていた。実際他の者たちや民は違うのだろうか。セレネーにはここで教えられたこと以外は分からない。
アリアドネが雨を願えば地を潤し、晴天を望めば雲が散る。祈りを込めた薬草は効果が増すし、安寧を祈れば争いが鎮まる。月の巫女であるセレネーがいくら祈っても、そんな奇跡はひとつも起こらない。
セレネーはアリアドネの祈りの様子を思い起こすと、憧れの感情と共にほんの少しの嫉妬が過る。月の巫女の役割は誰も知らず、なぜ厄災の年だけ必要なのかも分からない。自分がここに居る意味があるのか、子供の頃からずっとそう思っていた。
この本を読めば何かわかるかも知れないと思ったが、結局月の巫女が何であるかはどこにも書かれていなかった。頬杖を突きながら、漏らしそうになる欠伸を噛み殺す。そろそろページが終わりそうになったころ、ようやくあの紋章が目に飛び込んできた。
セレネーは両手で本を抱え込み、まじまじとそのページを眺めた。しかし、よく見ると少し形が違う。首を傾げて文字を辿ると、そこには王の分家の紋章だと書かれていた。つまり、アレクシスの肩掛け布に施された紋章と同じものだ。
セレネーはほっと息を吐き、額の汗を手の甲で拭う。アレクシスが分家であることは、周知の事実だ。広く知られている歴史はもちろん、この本にも前回の厄災以来、国と神殿を治めているのは分家と書かれていたのだから齟齬はない。
一度深く息を吐き出したセレネーは、次のページを捲ろうとして喉を鳴らした。あの日アリアドネが見せてくれた紋章は、アレクシスのものとは違った。きっとこの先にあの紋章があるはずだ。
覚悟を決めてゆっくりページを捲れば、そこには目当ての紋章が現れた。どくんと心臓が大きく跳ねて、セレネーの呼吸が一瞬止まる。落ち着くようにと自分に言い聞かせながら、その模様を食い入るように見つめた。
やはりこの紋章で間違いない。震える指先で巾着からペンダントを取り出し、その絵の横に並べた。
「やっぱり同じだ」
何度も視線を往復させて見比べてみるが、全く同じ線を描いている。この紋章の正体を知ろうと、下に書かれた文字を指でなぞった。そこには、王家の紋章だと書かれている。つまり、数百年前に行方知れずになったあの王家だ。
「王……家?」
ポツリとこぼれ落ちた囁きは、掠れて音になっていない。どくどくと心臓が鳴り響き、じんわり掌が汗ばんだ。
「どうしてこれが、リアの部屋に」
口にしてからどっと後悔が押し寄せた。つまりこれがアリアドネのものならば、彼女は王家の血筋と言うことだ。言葉にしてしまえば嫌というほど実感が湧き上がり、息を吸うのが苦しくなる。
アリアドネが王の直系――つまり、セレネーとはそもそも身分が違う雲の上の存在なのだろうか。浮かんでは消えるアリアドネの顔が、徐々に霞んで遠くなる。「レネ」と優しく呼びかける声が耳の奥で木霊して、少しずつ濁った音に変化する。思わず耳を塞ぎ、ぎゅっと瞼を閉じた。
陽の巫女は、特別な力があるから丁重に扱われているのだと思っていた。きっと多くの者はそう思っているだろう。けれど、それだけではなかったのかも知れない。
国の祖である神の使いの血を引く、しかも直系という尊い血筋だったなら当然のことだ。神殿長であるアレクシスは分家の血筋だ。陽の巫女が神殿長と同等に――否、部屋の配置を見ても、それ以上に重要視されていたのはこのためだったのだろうか。
数百年前の厄災についての違いも、どちらが本当なのかわからない。この本が立入禁止の地下書庫にあったのは、歴史と紋章についての記述を知られないためなのだろうか。
そう言えばさっきは読み流してしまったが、前の厄災で王家の者たちは隣国へ逃げ延びたと書いてあった。つまり、陽の巫女が隣国からくるのは、王家の血筋の者から選ばれるということだろうか。
セレネーは何も知らなかった。アリアドネは何も教えてくれなかった。姉妹のように暮らそうと、親友だと言ってくれたのは嘘だったのか。陽の巫女の出自を、アレクシスは知っているのだろう。神殿の上層部、つまり国を治める者は皆知っていることなのかも知れない。なぜなら、あの書庫に立ち入ることができる者たちだからだ。
セレネーは耳を塞いだまま、濁った音を振り払うように大きく首を左右に振った。それと同時に、アンドリオンの言葉が脳裏を掠める。
『アリアドネと一緒に過ごした時間で、セレネーはどう思ったんだ?』
『自分の目で見たものが答えじゃないのか』
セレネーは、耳に当てた手をゆっくり降ろし、もう一度開いたページをじっと見つめた。
そうだった、アリアドネはセレネーを地下の書庫へ連れていったのだ。幼い日のただの冒険だと思っていた。大人に隠れて秘密の通路を通り、禁じられた書庫へ忍び込む。あれは、ただの悪戯だったのだろうか。
セレネーは目を閉じ、あの日のことを思い出す。途端に身体中を地下の冷たい空気が包み込んだ。
『レネ、こっちよ』
『リア、くらくてこわい』
アリアドネがそっとセレネーの手を握った。彼女の持つ燭台の蝋燭が、橙色に優しく揺れる。
『これで怖くないわ』
『ふふっ。リアのて、あったかい』
くすくすと小さな笑い声を立て、あの秘密の通路を二人きりで通り抜けた。胸の奥まで暖かく、冷たい地下も心地いい。
『ねえ、リア。どこにいくの?』
『しっ。レネ、ここに来たことは二人だけの秘密よ』
『アレクシスさまにも?』
『そう、誰にも内緒』
繋いだ手をそっと離し、小さな指を唇の前にそっと立てる。その仕草は、少しだけアンドリオンに似ている。
足を踏み入れたのは、あの地下書庫だ。吸い込んだ空気のかび臭さに、セレネーは顔を顰めてこほこほと咳をした。
『レネ、大丈夫?』
腰の巾着から布を取り出したアリアドネは、セレネーの鼻と口を覆うようにそっと巻き付けた。
『リア、くるしい』
『でも、取ったらもっと苦しいわよ?』
セレネーは眉を下げ、「がまんする」と呟いた。それ以上に、見たこともないほど多くの本が気になった。セレネーは驚きに目を見開き、歓声を上げた。アリアドネと共に、書棚の間をきょろきょろと見回しながら練り歩いた。時折本を触ろうとして、怖くなって手を引っ込める。その様子を見たアリアドネが、大輪の花のような笑顔でセレネーを見つめていた。
ふと書棚の一箇所で立ち止まったアリアドネが、一冊の本を取り出した。
『リア、なにかおもしろいのがあった?』
『……そうね』
床に座り込んだアリアドネの横に、セレネーもぴたりと寄り添い腰を下ろした。
『レネ、これを見て』
『わあ、きれいなもよう。アレクシスさまのとおなじ?』
『ちょっとだけ違うわ。これは、特別な印よ』
『とくべつなしるし?』
アリアドネは淡く微笑み、セレネーを見つめた。
『そうよ。でも、他の人には秘密なの』
『これもひみつ? アレクシスさまにも?』
アリアドネは少しの間考えるような素振りを見せた。
『そうよ。誰にも秘密。ここへきたことを誰かに言ったら、怒られちゃうわ』
『おこられるの? リアが? アレクシスさまも?』
アリアドネはふっと笑みを浮かべた後に、いつになく真面目な顔をした。
『そう。とっても怖い思いをするわ。だから、誰にも言っちゃだめよ?』
『うん。だれにもいわないっ』
その後、眠い目をこすりながら元来た道を辿り、それぞれの部屋へ帰ったはずだ。幼かったセレネーは、その日のことを余り覚えていなかった。アリアドネとの約束を守るために、頭の中から追い出したのだろうか。あの日のアリアドネの真剣な瞳の色に、セレネーは幼いながらもことの重大さを感じ取ったのかも知れない。
アリアドネは、セレネーに何も言わなかったわけではなかった。ただ、セレネーが忘れていただけだ。自分の不甲斐なさに胸の奥がキリキリと痛む。しかし同時にアリアドネが秘密をそっと共有してくれていたことに、じわりと温かなものが込み上げた。
セレネーは大きく息を吐き、少なくなったページに視線を落とした。ゆっくり最後のページを捲ると、それはこんな文で締められていた。
『これは厄災を鎮めたる陽の巫女の手に寄るものである。神より授かった紋章を刻むこの書は、何人たりとも冒すことはできない。もしこれを改ざん若しくは処分しようとしたる者あれば、神によって裁かれることになるだろう。ここに書かれていることは全て真なり』
セレネーはごくりと喉を鳴らし、本をゆっくりと閉じた。黙って持ち出してしまったが、神に裁かれることがあるだろうか。背筋がすっと寒くなり、両手で身体を抱きしめた。大きく息を吐き出してから、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせる。セレネーは部屋に持ち帰って中身を読んだ、ただそれだけだ。
この本に書かれていることが本当に真実なのだとすれば、やはりアリアドネは王の直系の血筋で間違いないのだろう。アレクシスは力を欲した分家側ということになるが、果たしてそれを隠してまで神殿長の座にしがみつく様な人だろうか。恐ろしい文言の書かれたこの本を見ても、やはりセレネーにはそうとは思えない。
本を引き出しにしまいながら、アリアドネの受けた神託を思い浮かべた。
地が闇夜に浮かぶ月を喰らい
白き身体を紅に染めしとき
暗黒を照らす陽が現れ
地上に救済の光を齎さん
セレネーには意味がわからず、アリアドネに尋ねた。
『ねえ、リア。今回の神託はどんな意味なの?』
『……特別な月食が起きるのよ』
『普通の月食と何が違うの?』
アリアドネは目を細め、セレネーをじっと見つめた。何故かその瞳に陰りが浮かんだような気がして、セレネーの胸がざわついた。
『この神託が降りるのは、厄災の訪れが迫るときよ』
セレネーは小さく息を呑み、胸元を握りしめた。
『それは、近頃起こる揺れと関係が?』
『ええ、そうよ』
アリアドネは静かに頷き、真剣な眼差しでセレネーを見つめた。
『レネ。厄災を鎮めるには陽の巫女の力が必要になる。月の巫女は、その時のためにいるのよ』
『……私、リアの役に立てる?』
『レネっ! そんな風に考えないで。厄災で力を使う陽の巫女のために、それまで一緒に祈りを捧げて助けて欲しいの。ただそれだけよ』
ただ一緒に――その言葉に物足りなさを感じ、セレネーは眉を下げて曖昧に頷いた。
神託の内容に記された月の文字が頭にちらつき、中々離れることはなかった。アリアドネは何かを隠しているのかも知れない。そう思うと気が気でなくて、アレクシスにも神託の意味を問うた。
『神託の意味?』
『はい。アリアドネは、厄災の訪れが近いと言うのです』
『陽の巫女の言うとおりだ』
セレネーは眉を寄せて、アレクシスを見上げた。
『では、月を喰らい白き身体を紅に染めるとは、どういう意味ですか?』
アレクシスは一瞬息を呑み、顎に手を当て頷いた。
『次の月食では、月が赤く染まるという意味だ』
『赤い月……ですか?』
『そうだ。厄災の訪れと月食が重なれば、月が赤くなる。ただそれだけのこと』
それ以上の答えは得られず、セレネーはもやもやとした気分のまま引き下がるしかなかった。それからアリアドネにも、アレクシスにも、問い質すことはできなかった。それを聞いて数日後に、アリアドネがいなくなったからだ。
そう――アリアドネはいない。なぜなのか。神託や、紋章になにか関係があるのだろうか。そして、月の巫女の役割とは何か。
セレネーは手の中のペンダントをじっと見つめ、紋章をそっと撫でた。硬く冷たいペンダントに、アリアドネへ辿り着く道標となってくれるようにと祈りを込めた。




