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1-6

 固く目を閉じた瞬間、セレネーは強い力に引き寄せられる。そのままあっという間に狭い部屋へ押し込められた。思わず蝋燭を取り落として声を上げそうになるが、口を塞がれ息が止まる。その部屋の入り口が閉まるや否や、書庫の扉が開いて男たちの話し声がより鮮明になった。

 

「おい、陽の巫女が死ぬなんて、どういうことなんだ」

「さあな。次代の指名もなくこの世を去るなんて、前例もないからな」

「本当に死んだのか? 月の巫女が騒いでいたが」

 

 自分の話題が出たことで、セレネーの心臓が更に速さを増して鳴り響く。手にはじっとりと汗が滲み、ガタガタと震えが大きくなる。

 

 セレネーの口を塞いでいた手が躊躇いがちに少し緩み、ゆっくりと離れた。声が漏れそうで恐ろしくなったセレネーは、思わず自分の両手で口を塞ぐ。そっと身体を反転させられ見上げると、暗さに慣れた目に見知った人影が映り込んだ。

 

 立てた人差し指を唇に押し当てているアンドリオンに、セレネーは小さく頷く。アンドリオンがセレネーの肩に手を置き、下を指して座るように促した。冷たい石の床に静かに腰を降ろすと、アンドリオンがセレネーの背に手を添えた。気遣うようにニ度軽く叩かれ、セレネーは少しだけ落ち着きを取り戻す。

 

「それにしても、計画はどうするんだ」

「陽の巫女が死んだなら、中止になるだろう」

 

 相変わらず男たちの話し声は続いている。アンドリオンのお陰で気分がマシになり、会話に耳を傾ける余裕が生まれた。

 

「神殿長たちノモス派の人間はそもそも反対していたが。こちら側の者たちは納得するだろうか」

「さあな、曲がりなりにも我らがパトス派の一員だ。どちらにせよまとめるしかなかろう」

「全く、面倒なことになったな」

 

 セレネーは、アリアドネに関わる話題に、思わず書庫の方へ振り返った。どうやら二人はパトス派の人間のようだ。神殿内はノモス派とパトス派の二つの勢力が存在している。セレネーに派閥の詳しいことはわからないが、陽の巫女の話題に居ても立ってもいられなくなる。


 音を立てないように隙間からそっと中を覗き込むと、後ろでアンドリオンが微かに息を飲む気配がした。それに構わずそのまま目を凝らした。

 

 部屋の中には国政に携わる評議員と執政官の姿が見えた。評議員は神殿の重鎮で、主に政務についての審議を行う。その肩掛け布は茶色だ。執政官は決定された国政を実際に行うもので、肩掛け布の色は青。さらに上には政務官がいて、すべての政務を取り仕切っている。政務官の肩掛け布は赤だ。政と儀式と、すべての長を担うのが神殿長のアレクシスだ。普段から紫の肩掛け布をしているのは、アレクシスとアリアドネのみだ。

 

「まさか、あいつら陽の巫女を手に掛けたりは?」

「さすがにそこまでのことはするまい」

「だが、月の巫女に関してはまだ諦めていないだろうな」

 

 再び自分のことが話に上り、セレネーはゴクリと喉を鳴らした。男たちの顔が狭い隙間から見えるが、名前まではわからない。

 

「一旦は中止になったがな。陽の巫女がいなくなった今、大した力もないのだから放って置いても問題ないと思うが」

「それでも、あいつらはまだやるつもりだ」

 

 一体何をするつもりなのか――自分に関係することなのだろうか。セレネーの背筋を冷や汗が伝った。

 

「ああ。月の巫女さえ始末すれば、陽の巫女が力を得る機会は永遠に絶たれるからな」

 

 セレネーは思わずひゅっと息を呑み、身体を小刻みに震わせる。後ろから小さな舌打ちが聞こえた直後、腕を引かれて向かい合わせに抱えられた。声が出そうになる口をアンドリオンの肩で塞がれ、震えの止まらぬ手でぎゅっとその服を握りしめた。

 

「今なにか音がしなかったか?」

「そうか?」

 

 震えが止まらぬままアンドリオンにしがみつくと、抱える腕の力が強くなる。セレネーは唇をアンドリオンの肩口に押し当てたまま、固く目を瞑ってじっと耐えた。その時、微かに低い音が響いてくる。

 

「地鳴りだな」

「また揺れるかもしれん」

「ああ、こんなところで本に押しつぶされるなんて御免だ。戻るぞ」

 

 小さな揺れを感じ始めたところで、男たちは慌てて部屋を出ていった。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 セレネーは未だ震える手を開くことができず、かちかちと歯を鳴らした。何か答えようと口を開くが、乾いた喉が張り付いて音が出ない。両肩にそっと手が添えられ、しがみついたままの手を残して距離が空く。

 

「落ち着いて、ゆっくり息をするんだ」

 

 セレネーは震えながらアンドリオンを見上げるが、ひりついた喉から息を吸うことができない。アンドリオンは眉間に皺を寄せ、少し焦ったような声を出す。

 

「いいか、俺と一緒に大きく息を吐くんだ。まずは吐き出せ。いくぞ」

 

 アンドリオンに合わせて必死に息を吐き出したセレネーは、続けて大きく息を吸い込んだ。乾いた喉にカビ臭い空気が一気に入り、思わずむせてじわりと涙が滲む。

 

「慌てて吸い込むな、ゆっくりだ。大丈夫だから焦るな」

 

 幾度かそうして呼吸を繰り返す内に、徐々に落ち着きを取り戻していく。それでも握りしめた拳が開けない。

 

「大分落ち着いてきたな。もし誰か戻ってきてもこの中にいれば大丈夫だ。安心しろ」

 

 セレネーは頷くだけで精一杯だ。頬を濡らす涙を拭こうと手を動かすが、アンドリオンの服を握りしめたままで思うように動かない。

 

「どうした?」

 

 アンドリオンがセレネーの顔と手を見比べ、思わずといった風に小さく声を立てて笑った。

 

「笑うなんて酷いわっ」

 

 悪びれた様子もなく「すまん」と言ったアンドリオンは、片手を口に当てながら笑いを噛み殺している。セレネーは頬に集まる熱に顔を顰め、自分のものでありながら思い通りにならない手をじっと睨みつけた。

 

 アンドリオンは腰元のポーチから布を取り出すと、徐ろにセレネーの顔を拭った。驚いたセレネーは、両手で頬を包み込んだ。

 

「あっ」

「ははっ。無事に動いてよかったな」

 

 セレネーは何も言えずに頬を両手で挟んだまま、アンドリオンを小さく睨む。

 

「何だよ、あのままじゃセレネーだって困ったことになっただろ?」

 

 自然に名前を呼ばれて、肩がぎくりと跳ね上がる。

 

「わ、悪かったわ」

 

 アンドリオンはふっと小さく息を吐き、セレネーの肩をそっと二度叩いた。

 

「何事もなくて何よりだ。そろそろ行くぞ」

 

 アンドリオンは素早く立ち上がった。顔の前に差し出されたアンドリオンの手を、セレネーはおずおずと掴んだ。優しく引き上げられて立ち上がるが、力が入らずたたらを踏む。

 

「歩けそうか?」

「ええ、大丈夫」

 

 アンドリオンの先導で、狭い隠し部屋から書庫へ出た。目が慣れたとはいえ、明かりのない書庫の暗さにセレネーはその場に立ちすくんだ。気付いたアンドリオンが振り向き、セレネーを制止する。その場で手早く蝋燭に火を灯し、燭台を掲げてセレネーを見下ろした。

 

「外に出るぞ」

 

 セレネーは頷き、アンドリオンのあとに続く。先程の揺れで床に散らばった本が、蝋燭の淡い橙色に照らされ薄ぼんやりと浮かび上がった。踏まないようにと下を見ていたセレネーは、書棚に肩を強くぶつけて息を呑んだ。

 

「痛っ」

 

 棚に手をつくと同時に、ばさばさと音がして数冊の本が床に落ちた。舞い上がる埃を見ながら痛さと情けなさにまぶたが熱くなり、慌ててぱちぱちと目を瞬いた。膝から力が抜け、そのままずるすると座り込む。

 

「どうしたっ。怪我でもしたのか?」

 

 焦ったようにアンドリオンがセレネーの顔を覗き込んだ。ゆらゆらと揺れる炎に照らされ、セレネーは顔を俯かせた。

 

「どこか打ったのか?」

 

 セレネーは小さく首を横に振り、唇を噛み締めた。

 

「歩けそうもないか?」

「いいえ、大丈夫。……あの、ごめんなさい」

 

 セレネーの前に座り込んだアンドリオンは、首を傾げてセレネーを見下ろした。

 

「さっきの元気はどうした?」

 

 口の端を少し上げてからかい混じりの声音なのは、自分を慰めるつもりなのだろうか。セレネーは益々居心地悪くなり、下を向いて首を横に振ることしかできない。

 

「怪我したってわけじゃないなら、さっきの奴らの話でも思い出したのか?」

 

 さっきまでの恐怖が蘇り、思わず身体を震わせた。

 

「わ、忘れてたのに思い出させないで」

「悪い、違ったか」

 

 決まり悪そうに首の後ろを掻いたアンドリオンは、視線を泳がせ苦笑いを浮かべた。

 

「じゃあ、どうしたんだ?」

 

 アンドリオンは呆れるでもなく、落ち着いた声で問いかけた。その様子に、アリアドネの姿が頭に浮かぶ。アリアドネもいつも根気強く、セレネーの言葉を聞いてくれた。

 

「リアも」

 

 一瞬目を見開いたアンドリオンは、横を向いて小さく咳払いをした。

 

「あ、ああ。アリアドネのことか」

「ええ。リアも、何もできない私をそうやって待っててくれた」

「……どういうことだ?」

 

 アンドリオンは首を傾げ、訝し気な顔をした。

 

「私はいつも役に立てなくて。どうしていいかわからないことばっかりで。リアのために何かしても、いつも上手くいかない。今日だってまたあなたにも迷惑をかけて」

「は? あ、いや、ちょっと待て」

 

 アンドリオンは腕を組んで視線を宙に彷徨わせた。少しの間考え込んだ後、首を傾げながらセレネーに視線を戻した。

 

「要するに、上手くいかなくて落ち込んでるのか?」

 

 あまりにも率直な言葉に、セレネーは小さく呻き声を上げた。色々考えながら悩んだことを、落ち込むのたった一言で片付けられてしまうとは。

 

「か、簡単に言ったらそうだけど」

「なるほど、そういうことか」

 

 胸の中がもやもやして気持ち悪いが、うまく言葉が出て来ない。セレネーはもどかしい気持ちで肩を落として俯いた。

 

「いいか、セレネー。そんなことで悩む必要はない」

「なっ、なによ! そんなことって……どうせ私の悩みなんて」

「ああ、待った。悪かった、また言い方を間違えた」

 

 アンドリオンは慌てて両手を上げて、セレネーの言葉を遮った。

 

「そうじゃなくて、皆同じだって言いたかったんだ」

 

 セレネーは眉を寄せてアンドリオンを見上げた。

 

「お、怒るなよ」

「怒ってるんじゃないわ。同じってどういう意味?」

 

 ほっと息を吐いたアンドリオンは、座り方を変えてセレネーをまっすぐ見下ろした。

 

「セレネーから見たアリアドネやエヴァ、それに俺も上手くやってるように見えるんだよな?」

「……そうね」

 

 アンドリオンは頷きながら続けた。

 

「そりゃあ、俺達はセレネーより長く生きてるんだから当たり前のことだ」

「……そうかしら。リアが私の年の頃には、もっと色んなことを上手くやってたと思うわ」

「それは、あいつの場合エヴァの手助けもあったからだろ」

 

 セレネーは黙り込んで下を向いた。侍女との関わり方もエヴァとソフィアでは違ったのだと、つい最近知ったばかりだ。

 

「アリアドネは隣国と手紙のやりとりもしてたし、部屋にあれだけ沢山の本もあった。そりゃあ、いろんなことを知ってて当然だ」

「それじゃあ、私はいつまで経ってもリアの役に立てない」

「役に立たなきゃだめなのか?」

「え?」

 

 セレネーは目を瞬き、アンドリオンをじっと見つめた。月の巫女として神殿にやってきたセレネーは、陽の巫女や神殿のために、民のために尽くすのが当然だと思ってきた。陽の巫女ほどの力を持たない自分は、役に立つと思われなければいけない。ずっとそう思ってきたことは間違いだったのか。

 

「アリアドネはセレネーを大切に思ってたんだろ?」

「……多分、そう……だと思う」

「随分自信がなさそうだな」

「だってっ! 私は何も知らないから」

 

 アンドリオンは肩を竦めて小さく首を横に振った。

 

「全てを知る必要があるのか?」

 

 セレネーは眉を寄せてアンドリオンを見つめた。

 

「アリアドネと一緒に過ごした時間で、セレネーはどう思ったんだ?」

 

 口を引き結んだセレネーの胸に、アリアドネとの思い出が蘇る。じわりと涙が滲み、慌てて手の甲で拭った。

 

「自分の目で見たものが答えじゃないのか」

「そう……かも知れない」

 

 断言するほどの自信が持てないセレネーは、曖昧に濁して俯いた。アリアドネもアンドリオンも、どうしてこんなに自信を持てるのか。セレネーにはまだ理解できず、もやもやとしたものを抱えたまま口を引き結ぶ。

 

「まあ、そう難しく考えるなって。ここでのんびりしてる暇もないしな」

 

 セレネーは今の状況を思い出し、はっとして顔を上げた。


 肩を竦めたアンドリオンが「いくぞ」と促す声に頷き、慌てて立ち上がろうと膝を立てた。足元に力を込めたその時、ズルっと滑りそのまま転んだ。急いだせいでよく確認もせず、本を踏んでしまったようだ。

 

「なんで転ぶんだっ」

 

 焦りの滲んだアンドリオンの声に、セレネーは羞恥で顔が熱くなり俯いた。貴重な書物を傷つけたかも知れないと思うと、胃の辺りが重くなる。


 中々顔を上げないセレネーを、アンドリオンは眉を下げて覗き込もうとした。その刹那、勢いよくセレネーが顔を上げ、アンドリオンの顎に後頭部がガツンと音を立てて激突する。

 

「うっ」

「いっ」

 

 顎を押さえるアンドリオンと頭を抱えたセレネーは、しばらく無言で蹲った。

 

「おまえ……急に起き上がるなよ」

「ご、ごめんなさい……い、痛っ」

 

 後頭部をさすりながら、セレネーは今見た本へ慌てて視線を戻す。セレネーは無意味に顔を上げたわけではない。倒れた先に目当てのものを見つけたからだ。

 

「何だ、何かあったのか?」

 

 食い入るように本を見つめるセレネーに、アンドリオンは訝しげな視線を向けた。

 

「ねえ、これっ」

 

 開いたページをアンドリオンの眼の前に掲げる。アンドリオンは目を丸くして、本から少し距離を取る。

 

「これは……紋章か?」

「そう。あのね、リアの部屋から持って帰った本があったでしょう? あの中にペンダントが隠してあった。その裏に刻まれてた紋章が、これと同じだったの!」

「……なるほど。それを見つけて急に顔を上げたのか」

 

 恨めしそうな顔でセレネーに視線を送りながら、アンドリオンは顎を擦る。

 

「わ、悪かったわ。ごめんなさい」

「まあいいさ。落とさずちゃんと持っていけよ」

 

 からかうような口調に眉を寄せて見上げるが、笑みを浮かべたアンドリオンに、何も言い返すことができなかった。

 

 そのままセレネーが通った隠し通路を抜け、回廊に辿り着いた。アンドリオンによれば、日の出にはまだ早い時刻のようだ。階段を上がりセレネーの部屋へ続く回廊を覗くと、出るときは寝ていた見張りの護衛官が起きている。

 

 セレネーは眉を寄せて、小さく唸り声を上げた。アンドリオンはセレネーを見下ろし、一度階段下の影に隠れるように動作で促した。

 

「いいか、俺があいつを一旦移動させるから、大人しく待ってろ。俺がいいと言うまでここから動くなよ?」

 

 ひそひそと耳元で囁かれ、セレネーは慌てて何度も頷いた。本を抱える掌にじっとりと汗が滲み、ほんの少し息苦しくなる。すぐに見つかったときのことを想像して、ぶるりと竦み上がった。

 

 アンドリオンはそのまま階段を上り、セレネーの部屋の方へ消えていった。しばらくすると何かを話しながら、護衛の男と階段を降りてくる。

 

 どくどくと心臓が暴れだし、今にも口から飛び出してしまいそうだ。耳に響く心音で、二人の足音もよく聞こえない。しばらく待っていると、そのまま話し声が遠ざかっていく。


 しかしその直後、一階の回廊の反対側から、こそこそとささやき合いながら誰かが歩いてきた。息を殺していると、神殿女のエリスとリュディアだ。神殿女の住まいは神殿の外だが、交代で幾人かは泊まり込んでいる。今日は二人がその当番の日なのだろう。

 

「ねえ、さっき通ったのってアンディよね?」

「やだっ、エリス。もうアンドリオンを愛称で呼んでるの?」

「ふふっ、いいでしょう」

 

 ささやき声が徐々に近くなる。小さく蹲ったセレネーは、見つからないようにと祈るばかりだ。

 

「セレネーの部屋までいく必要無かったわね」

「あんな地味な女の護衛なんて、アンディも気の毒ね」

「ねえ、あの女の話なんてどうでもいいわ。早く追いかけましょう」

 

 クスクスと笑いながら遠ざかる足音に、セレネーは小さく息を吐いた。アンドリオンはここで待てと言ったが、もう戻っても大丈夫だろう。


 エリスとリュディアの通った後の、甘い残り香が鼻につく。神殿では、巫女と神殿長が祈りの儀式で使う香油しか許されていない。しかしエリスとリュディアは裕福な家の出で、時折こっそりと特殊な香油を使っていた。セレネーはその香りに顔を顰め、匂いを振り払うように首を振った。

 

 セレネーは階段の影からそっと顔を覗かせ、左右を慎重に見回した。誰もいないことを確認して、そのまま素早く階段を上る。部屋の前にも当然誰もおらず、そのまますんなり中に戻ることができた。

 

 すぐに本を開く気になれず、手紙と同じ引き出しにしまい込む。さっきのエリスとリュディアの会話が耳について離れない。得体のしれない胸のざわめきに落ち着かず、しばらくうろうろと部屋の中を歩き回った。


 収まりのつかない気持ち悪さを諦めて、寝台に入ろうと足を向けた丁度そのとき。扉を小さく叩く音が耳に届いた。少し焦りの滲むようなその音に、セレネーは眉を寄せて慎重に近付いた。

 

「誰?」

 

 小さく声を掛けると、ほっと息を吐く気配がする。

 

「俺だ、アンドリオンだ」

 

 セレネーは細く扉を開き、不思議そうにアンドリオンを見上げた。

 

「何かあったの?」

「おっ、おまえっ」

 

 声を荒げそうになったアンドリオンは、慌てて歯を食いしばる。一瞬後に大きくはあっと息を吐き、肩を落とした。

 

「何かあったかと思ったのは俺の方だ。動くなって言ったのに居ないから」

 

 セレネーは首を傾げてアンドリオンをじっと見つめる。

 

「あなたは忙しいかと思って」

「どういう意味だ?」

 

 眉間に皺を寄せたアンドリオンに、セレネーは少し意地悪な気持ちが湧き上がった。

 

「アンディ」

 

 ぎょっとした顔をしたアンドリオンは、一歩後退り顔を引き攣らせる。

 

「その呼び方はやめてくれ」

「どうして?」

「馴れ馴れしい神殿女の、甘ったるい匂いを思い出す」

 

 顔を顰めて頭をがしがしとかき回すアンドリオンを横目に、階段下の甘い香りがセレネーの鼻先に蘇る。

 

「どうせだったら、リオンと呼ばれた方が嬉しいな。レネ?」

「えっ?」

 

 突然飛び出してきたアリアドネにしかされたことのない呼び方に驚き、目を皿のようにしてアンドリオンを見上げた。一瞬後に顔がかっと熱くなる。全身から汗が吹き出し、熱で一気に溶けてしまいそうだ。

 

「なっ、なっ、なんでそんな呼び方っ」

 

 悪戯が成功して得意げな顔をしたアンドリオンは、声を押し殺して笑った。その様子に、セレネーは眉を寄せて拳を握りしめる。からかってやるつもりが、返り討ちにあってしまった。軽い気持ちで仕掛けたことに、悔やんでみても今更だ。

 

 何も言えぬまま睨みつけて、扉を閉めようとすると「おやすみ」と小さな囁きが耳に届いた。聞こえるか聞こえないかという程の小さな声で「おやすみなさい」と返したセレネーは、今度こそ大人しく寝台に潜り込んだ。

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