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2-4

『レネ、手紙が来たわっ』

『おてがみ?』

『ふふっ、そうよ』

 

 アリアドネが年相応の笑顔で嬉しそうに手紙を見つめた。セレネーは手紙を貰ったことがなく、幼い頃はそれがなぜそんなに嬉しいのかわからなかった。ただ、いつも楽しそうに手紙を読むアリアドネを見ると、なんだか胃がむかむかとした。

 

 数年経ってたからそれが隣国からのものだと知って、ほんの少し――いや、本当はとても羨ましかった。アリアドネも家族に捨てられたと思っていたのに、違ったのかも知れない。大好きなアリアドネに想われる手紙の相手は、自分より大事な人なのだろうか。家族ならきっととても大切なのだろう。セレネーも捨てられるまではそうだった。

 

『リア、いつも読んでる手紙は家族から?』

『ええ、そうね。それから、もう一人のリアよ』

『もう一人の?』

『そう。私と同じリアがいるの』

 

 同じ名前なのか、単なる愛称なのか。セレネーはアリアドネと同じ名前を持つ相手がいるこを知り、二人の間に溝を感じた。レネとリア――そんな風に呼び合えるのは、お互いだけだと思っていたのに。セレネーにはそんな友人も、家族さえもいない。アリアドネだけだ。その違いを見せつけられたような気がして、気持ちが重くなった。その心を必死に淡い笑みで隠した。

 

『いつかきっとレネも、もう一人のリアと会うことになるわ』

『私が?』

 

 別にもう一人のリアに興味はなかった。けれどアリアドネが会わせたいと思うなら、会うしかないのだろう。その時の自分はどんな顔をしているのだろうか。想像するだけで石を飲み込んだかのように、身体の奥が重くなった。アリアドネに自分の本心を知られるのが怖かった。


 でも、アリアドネは言ってくれた。

 

『私はレネに会えたから、寂しくないわ』

『ずっと姉妹のように、ここで共に暮らしていきましょう』

 

 そう――だから、大丈夫。アリアドネを見つければ、きっと今までみたいにずっと一緒に変わらずいられるはず。

 

 セレネーは、纏わりつく寝間着に息苦しさを感じて目を開いた。アリアドネの夢を見ていた。冷えた指先で額の汗を拭いながら、湿った寝間着の気持ち悪さに眉を顰める。

 

 なぜこんな夢をみたのか。きっとアンドリオンのせいだ。

 

『レネにとってのアリアドネは、一体なんだ?』

 

 そんなの決まっている。家族であり親友であり――たった一人、自分がここにいていいのだと思わせてくれた人だ。例えセレネーがアリアドネにとっての唯一ではなかったとしても。

 

 酷く汗をかいたせいか、喉が張り付き小さく咳き込む。寝間着の不快さも気になり、エヴァがくるには大分早いが自分で着替えることにした。


 それが終わると、部屋の中央にあるテーブルに近寄った。そこには昨夜エヴァが置いていった土器の水差しがあるが、中身は残り僅かだった。とりあえず飲んではみたものの、乾いた喉を潤すには物足りない。

 

 セレネーは水差しを抱えてしばらく逡巡するが、自分で汲みにいこうと入口の扉に向かった。護衛はもうアンドリオンに交代しているのだろうか。それとも、昨夜のヴァンという青年がいるのだろうか。そっと扉を開くと、腕を組んだアンドリオンがセレネーを見下ろしていた。

 

「こんな朝早くにどうした?」

「あの、けほっ。喉が……渇いて」

 

 喉が張り付き上手く言葉が出てこない。詰まりながら話すセレネーに、アンドリオンが顔を顰めた。

 

「今水を持ってきてやるから、部屋で待ってろ」

「でも」

「……そうだな、護衛が離れちゃ意味がないか」

 

 しばく考え込んだアンドリオンは、それなら一緒にいくかとセレネーの持った水差しと器を引き取った。

 

 水汲み場は神殿から出てすぐの場所にある。常に水の流れる石造りのものだ。高い棟の上には大きな風車が設置され、ポンプで地下の水を汲み上げている。巫女が神殿の外に出るのはあまり好ましくないが、今日のところは仕方ないだろう。水を汲めるのはここだけなのだから。

 

 セレネーは水差しに満たされていく水をぼんやりと眺めた。渇いた喉と同じようにひりつくセレネーの心も、水差しのように簡単に満たされたらいいのに。そんな思いが浮かんで、小さく自嘲するような笑みがこぼれた。

 

「大丈夫か?」

 

 ふいに掛けられた言葉に、はっとして視線を上に移動する。アンドリオンが心配そうに見つめているが、セレネーにはその心の内は読めない。喉が張り付き返事をするのも躊躇われ、小さく頷くだけにした。

 

「ほら、とりあえずここで飲んでおけ」

 

 差し出された土器の器は、ほどよく水で満たされていた。両手で受け取り、一気に飲み干す。渇いた身体はそれだけでは潤わず、心がひび割れてしまいそうだ。もう一杯注いでもらい、今度はゆっくり飲み干した。しかし、その違和感にセレネーは首を傾げる。

 

「どうした?」

 

 アンドリオンに問われて、セレネーは少し考えてから口を開いた。

 

「なんだか、少し変な味がする」

 

 訝しげな顔をしたアンドリオンが、水飲み場の水を手で掬って味わいながら飲み下す。

 

「……確かに、いつもと違うかもしれないな」

「これも、厄災の影響なの?」

「恐らくな」

 

 セレネーは背中にゾクリとしたものが走り、小さく身震いした。厄災とは一体何なのか、どうしたら止められるのか。セレネーには何もわからない。アリアドネは知っているのだろうか。

 

「戻るぞ」

 

 小さく頷いたセレネーは、アンドリオンの後に付いて部屋へ戻りながら考える。書庫にあった本には、厄災を鎮めるのに、陽の巫女の力が本当に必要なのか疑問視する記述があった。


 もし本当に必要ないのならば、陽の巫女の力を使わずにどう厄災を鎮めるのだろう。セレネーの力では絶対に足りない。書庫の男たちも、陽の巫女の力は認めていた。しかし、月の巫女は大した力もないと言っていた。

 

『月の巫女さえ始末すれば、陽の巫女が力を得る機会は永遠に絶たれるからな』

 

 あのときの言葉がセレネーの脳裏に蘇り、心臓がどくりと音を立てた。セレネーがいなければ、アリアドネが力を得ることはできない。力が必要ならば、なぜアリアドネはセレネーを残して消えたのか。そもそもアリアドネは自ら消えたのか――それとも。

 

「着いたぞ」

 

 アンドリオンの声に、セレネーは俯いていた顔をぱっと上げた。いつの間にか部屋に着いていたことすら気付かないほど、考え事に没頭していた。

 

「さっきからどうしたんだ。何かあったのか?」

 

 セレネーはアンドリオンを見上げるが、何も言えずに口を引き結んだ。

 

「陽の巫女のことか?」

 

 セレネーは躊躇いがちに頷いた。

 

「書庫で何も見つからなかったからな。この間持ってたパピルスの束は、何かの手掛かりじゃないのか?」

 

 手紙のことに触れられ、セレネーは緊張の面持ちでアンドリオンを見上げた。

 

「あれは、リアの手紙なの」

「そうか」

 

 アンドリオンの様子は特に変わらない。あれが手紙だと知っているからなのか、興味がないからなのか。どちらとも取れるような態度に、セレネーは益々不安に気持ちが揺れる。

 

「中を見たのか?」

「いいえ」

「なぜだ?」

 

 セレネーは咎めるような視線でアンドリオンを見上げた。

 

「他人の手紙を勝手に暴くなんて、そう簡単にできることじゃないわ」

「まあな。でも、今のところ手掛かりはそれしかないんだろ?」

「そうだけど」

 

 手紙を見れば、アリアドネが消えた理由もわかるのだろうか。それに、リアとどんな話をしていたのか。セレネーの知らない二人の秘密を知りたくもあり、見たくないような気もする。

 

「それ以外にないなら仕方ないんじゃないか?」

 

 セレネーはそれでも躊躇する。複雑な心境をアンドリオンにどう説明すればいいのか。そもそも、説明する必要がるのだろうか。渋面を浮かべてそんなことを考えている内に、横からよく知った声が響いてきた。

 

「……セレネー様、おはようございます。護衛が何か?」

「エヴァっ。お、おはよう。なんでもないの」

 

 静かに佇むエヴァが視界に入り、セレネーは何となく後ろめたさを感じた。

 

 エヴァはアンドリオンを涼しい視線で見上げ、扉を開いてセレネーを中へ導いた。水差しと器を受け取ったエヴァは、何か言いたげなアンドリオンを無視してそのまま扉を閉じた。


 窓を開けたエヴァはセレネーの脱いだ寝間着を片手に、洗面用の水を汲みに再び部屋を出ていった。セレネーはエヴァの後ろ姿を見ながら、いつもどおりのその様子にほっと息を吐いた。やはりアリアドネは自ら姿を消したのだろう。そうでなければエヴァがあんな風に普通に過ごせるはずはない。

 

 日中はエヴァの目があるから手紙を見ることはできない。今日も普段どおりに祭壇を清めたり、巫女としての務めをこなして過ごす。頭の中に手紙のことがちらつき、落ち着かない時間を過ごした。余計なことを考えていたのが悪かったのだろうか。

 

「ちょっと、セレネー!」

「どうしてくれるのよっ」

 

 エリスは腕を組み、リュディアは手を腰に当て、蔑むような視線をセレネーに向けた。

 

「……ごめんなさい」

 

 セレネーは水浸しになった祭壇の前室の床を見つめながら、小さくため息を吐いた。

 

 いつもどおりに動いているつもりだったが、考え事に気を取られて単純な嫌がらせに引っかかってしまった。奥の部屋で祭壇を清め、前室へ出てきたところで足元に桶を差し出された。注意散漫になっていたセレネーは、そのまま躓いて水をぶちまけてしまった。


 彼女たちがきてすぐに始まったこの嫌がらせも、流石にニ度三度とやられればセレネーも気付いて避けていた。だから、ずっとこんなことは無かったのに。

 

「さっさと片付けなさいよ」

「せっかく磨いたのに、また汚れちゃったわ」

 

 周囲には人影もない。もし誰かいたとしても見て見ぬふりなのだが。この二人も、エヴァがいない隙を狙っているあたりが手慣れている。


 前からアリアドネがセレネーの側にいない時間を見計らっては、こうして何かを仕掛けてきたものだった。ここ最近はほとんどエヴァかアンドリオンが側にいた為、機会を伺っていたのかも知れない。少し前にエヴァとアンドリオンが呼び出されたのも、もしかしたら仕組まれていたのだろうか。

 

 セレネーは周囲を見回し、壁に立てかけられたモップを見つけた。それを手に取り床を拭こうとしたところで、エリスの意地悪い声が響いた。

 

「まさか、モップで拭いて誤魔化すつもり?」

 

 リュディアもうっすら笑みを浮かべてエリスに同調する。

 

「磨くところからやり直しに決まってるじゃない」

 

 見たところ大して汚れてもいない水だ。そもそも二人が本当に床を磨いたのかすら怪しい。しかし、ここで口答えをすればもっと酷いことになる。


 仕方なく近くに置かれたブラシを手にしたところで肩に手を置かれ、思わずブラシを取り落とした。ブラシの柄が石床に当たり、乾いた音がカラカラと部屋の中に響き渡る。

 

「月の巫女様が床磨きですか? 殊勝な心がけですが、それは神殿女の仕事でしょう」

 

 振り向くと冷たい笑顔を浮かべたアンドリオンが立っていた。

 

「ア、アンディっ」

 

 エリスは嬉しさと気まずさの混じったような複雑な笑みを浮かべた。よく見れば、アンドリオンの額に汗が滲んでいる。もしかして、慌てて駆けつけたのだろうか。

 

「以前もお願いしましたが、その呼び方はやめてください」

 

 笑みを深めたアンドリオンに、セレネーの顔も青ざめる。自分に向けられたわけでもないのに、その鋭利な視線に背筋が凍りそうだ。エリスとリュディアを盗み見ると、二人とも不自然な笑顔のまま固まっていた。

 

「月の巫女様、お部屋に戻りましょう」

 

 視線を和らげたアンドリオンは、セレネーの背を軽く押してから先導する。セレネーはぽかんとその様子を見上げてから、慌てて足を動かした。

 

 部屋の前に辿り着いたところで、アンドリオンが大きく息を吐き出しながら壁に片手を付いて項垂れた。

 

「なんなんだあの神殿女は」

 

 セレネーは目を瞬かせならがアンドリオンを見上げた。

 

「あなたに気があるんじゃない?」

「心底迷惑だ」

 

 アンドリオンのうんざりしたような声に、セレネーは首を傾げてアンドリオンを見つめた。

 

「でもいいところの出だし、美人だし。嬉しくないの?」

「は? あれが美人……俺には全くそう見えん」

「そうかしら? リアほどじゃないけど、綺麗だと思うのに」

 

 アンドリオンは信じられないものを見るような目でセレネーを見下ろした。

 

「レネの基準はどうなってるんだ」

「顔立ちは整ってるし……髪色だって美しいわ」

 

 アンドリオンは眉を顰めてセレネーを見つめた。セレネーは落ち着かず、適当に括っただけの自分の黒い髪の先を無意識に撫でた。

 

「俺にとっては黒髪のほうが余程美しいがな」

「えっ?」

「特にレネの髪は、黒檀よりも深い色合いだ」

 

 セレネーはぽかんと口を開けて、アンドリオンを見上げた。この国でこんなことを言うのは、アリアドネだけだった。アレクシスですら髪色に触れたことはない。それは、黒髪が民の色で、神殿にはそぐわないからだ。


 陽に透けたアンドリオンの薄茶の髪は、アリアドネと同じ淡い金にも見える。彼は、もしかしてこの国の人ではないのだろうか。

 

「ところで、レネ」

 

 セレネーは自分がアンドリオンをじっと見つめていたことに気付いて、慌てて視線を逸らした。

 

「な、なに?」

「いつになったらリオンって呼ぶんだ」

 

 何を言われたのか分からず、セレネーはアンドリオンを訝しげな顔で見上げた。アンドリオンは少し決まり悪そうに、頭を掻きながら視線を泳がせている。

 

「あなたなんて呼ばれると、なんだか決まり悪くてな」

「……じゃあ、アンドリオン」

 

 愛称で呼ぶのは気が引けて、名前をそのまま呼んでみる。アンドリオンは唸り声を上げて、セレネーを見下ろした。

 

「あなたもアンドリオンも、なんだか母親に叱られてるみたいで落ち着かない」

 

 セレネーは目を見開き、アンドリオンをまじまじと見つめた。

 

「頼むからリオンにしといてくれ」

 

 まさに叱られた子供ような顔で懇願する護衛官に、セレネーは思わず吹き出した。まだ信用しているわけではない。けれど、額に汗を浮かべながらセレネーを助けにきてくれたアンドリオンに、ほんの少しだけ歩み寄ってもいいのかも知れない。


 母親に叱られた覚えのないセレネーには、わからない感情に切なさも滲む。胸の奥が冷たいような暖かいような。心の中に凍てつく冬の寒さと陽だまりが同居したような複雑な気分で、セレネーはなかなか止まらぬ笑いに目尻を拭った。

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