2-5
夜になり、エヴァがセレネーの寝支度を整えている。まだ慣れずに落ち着かない気分で見守っていると、完璧に仕事を終えたエヴァが、就寝の挨拶をして扉を閉じた。セレネーはそれを見届けてから、逸る気持ちを抑えてそっと寝台を降りた。
今夜の夜番は誰だろう。今ならまだアンドリオンかも知れない。就寝の挨拶を終えたのに、蝋燭の火を点ければ不審に思われるだろうか。そんな考えが頭を過るが、ゆっくり手紙を見るには夜しかない。
セレネーは迷いなく火口箱に火を起こし、消したばかりで油の匂いの残る蝋燭に火を灯した。ごくりと喉を鳴らし、音を立てぬように引き出しを開ける。取り出したのは、麻布に包まれた手紙の束だ。ほんの少し震える指先でそれを解いた。紙の端には丁寧に番号が振ってあり、その順番に手紙を並べた。
並べ終えて眺めていると、アリアドネがこれらを手にして微笑む様が蘇った。これからその中身を暴くことに、胸の奥がずきりと痛む一方で、高鳴りも感じる。こんなことを知られたら、後でアリアドネにどう思われるだろうか。けれど、何も言わずに消えたアリアドネも悪いのだ。セレネーは自分に言い聞かせて、手紙を一束手に取った。
冷えた指先で丸く束ねたパピルスの紐を解いていく。開いた途端目に入ったのは、直線的でありながら整った文字だ。綺麗な文字を書くことができないセレネーは、僅かに顔を顰めた。
男性的で力強いそれは、セレネーより余程読みやすいものだ。アリアドネの文字も美しかったし、やはり高貴な血筋なのかもしれない。セレネーは手紙の文字を見つめ、中身をじっくり読み始めた。
少し読み進めたところで、セレネーは大きくため息を吐いた。セレネーよりずっと読みやすく丁寧な文字で書かれた手紙の主は、もう一人のリアだった。アリアドネが嬉しそうに語っていたもう一人のリアは、どうやら男性のようだ。セレネーの胸がちくちくと痛み、続きを読む手が自然と止まる。
一度席を立ち、水差しの水を器に注ぐ。表面が波立ち、セレネーの心をざわつかせた。セレネーは器をじっと見つめた後、決意を固めるように一気に水を飲み干した。いつもより少し乱暴に器を置き、再び書き物机の椅子に座り直す。
一通目の手紙は、リアの名を持つ者同士の誓いのようなものだった。アリアドネの手紙に返事をする形で、互いの宿命を忘れはしないといった内容だ。セレネーは眉根を寄せて、手紙の文字を指で辿った。二人のリアは、一体何を背負っているのだろうか。何通か言葉を変えて繰り返される絆の確認に、胃をぎゅっと掴まれたかのような気になった。
アリアドネには祖国に深い絆で繋がる運命の相手がいた。会えなくても寂しくなかったのは、セレネーが居たからではないのかも知れない。これほど互いの存在を確認し合う相手がいたから、孤独を感じなかったのではないだろうか。
セレネーは自分が幼いころの、孤独に包まれた記憶を思い返した。アリアドネがくるまでの三年間、神殿の生活を覚えるのに精一杯だった。六つになってアリアドネがきたとき、彼女が文字を読めることに驚いた。セレネーは書くことはもちろん、読むことすらもできなかったからだ。
四つ上のアリアドネができるのは、当然と言えばそれまでだ。しかし、神殿の大人たちは、月の巫女に必要な教育を考えたこともなかったのだ。子供が巫女として神殿に上がるのは、陽の巫女が数十年に一度だけ。その陽の巫女も、ある程度学んでからやってくる。幼少期の子どもに必要な教育など、神殿に用意されていなかった。
そもそもこの国できちんと学ぶことができるのも、豊かな層だけだ。多くの民と同じ黒髪のセレネーに、そんなものが必要だと思う大人もいなかったのだろう。アリアドネが神殿にきてセレネーの無学に気付くまで、誰も思い付きすらしなかったようだ。
上手く馴染めないまま突然始まった教育に、セレネーは大変な戸惑いを覚えた。月の巫女は陽の巫女のように大事にされるわけでもなく、しかも黒髪だ。そんな巫女の教育を喜んで引き受ける教師もいない。
結果、最低限だけ施されて今に至っている。当然学ぶことが好きになれるわけもなく、セレネーの文字はお世辞にも美しいとは言えない。セレネー自身も、どうせ書く機会などないのだから、読むのに困らなければいいと思うようになっていた。
セレネーは唇を噛み締め、目の前の手紙をじっと見つめた。進んで読みたいわけではないが、とにかく確かめなければ手掛かりも掴めない。大きく深呼吸をして、次の束に手を伸ばした。
それから先の手紙には、セレネーのことも書かれていた。アリアドネが書き綴っていたようだ。漆黒の美しい髪を持つ、妹のような少女。自分をそんな風に表す文字に、そわそわと落ち着かない気分になった。
もう一人のリアも、いつか会ってみたいと書いている。今まで会うつもりもなかったリアに、ほんの少し興味を惹かれた。黒髪の自分に会ってみたいと思うなんて、隣国の人は少し変わった価値観なのかもしれない。でもそれがほんの少しくすぐったい。
手紙に振られた数字が大きくなる毎に、相手の文字がより強く美しいものへと変わっていく。アリアドネの文字も、こんな風に変わっていたのだろうか。セレネーの記憶には、いつでも整った文字を書くアリアドネの姿しか思い浮かばない。彼女はいつでもセレネーの進む先にいる道標のような人だ。
読み進めるうちに、いくつかの単語が目に留まる。そこには、地下神殿や地下迷宮といった文字が綴られている。はっきりとは書かれていないが、文脈からすると厄災の年に地下神殿へ向かわなければならないようだ。
アリアドネが向かわなければならないのか、もうひとりのリアなのか。前後に送られたはずのアリアドネの手紙を見なければ、正確にはわからない、けれど。もしかしたら、アリアドネは地下神殿に向かったのかも知れない。
セレネーは揺れる蝋燭の炎を見るともなしに見つめながら考える。照らし出されたセレネーの影が、炎のゆらめきに合わせて小さく揺れた。
地下書庫から持ち出した本には、昔の陽の巫女は地下神殿で祈りを捧げていたと書かれていた。ならば、厄災を鎮めるためには地下神殿に行く必要があるのではないか。
手紙の中身だけではわからないことが多すぎる。得られた手掛かりは地下神殿へ行くことだ。けれど、セレネーには地下神殿への道がわからない。アリアドネの知っていた地下通路のように、神殿へ繋がる道がどこかにあるのかもしれない。
アリアドネの部屋をもう一度調べるべきか。セレネーは口元に拳を当てて考える。そういえば、数日後には巫女の祈りの儀式がある。そのための供物や祭具の準備は侍女の仕事だ。
となれば、昼間にアンドリオンしか側にいない時間があるはずだ。アンドリオンは既にセレネーがアリアドネの部屋を調べたことを知っている。今更隠す必要もなく、都合がいい。
一先ず読み終えた手紙を麻布に包み直し、書き物机の引き出しにしまい込んだ。蝋燭の炎を見つめ、強く息を吹きかける。大きく揺らいだそれが一瞬で消え、白い煙が立ち上った。
翌朝現れたエヴァは、報告があるとセレネーに告げた。アンドリオンにも話す必要があるとのことで、部屋の内側へアンドリオンを招き入れた。そこでエヴァは予想どおりの言葉を口にした。
「数日お側に控える時間が減ります」
「そう。儀式の準備よね?」
「はい」
セレネーは表情を変えないように気をつけながら神妙に頷いた。
「私なら大丈夫よ。エヴァがついてくれてからずっとよくしてもらってるけど、前は一人でやってたんだから」
エヴァは一瞬黙り込むが表情を変えることはない。
「……申し訳ございません」
「どうしてエヴァが謝るの? ああ、アリアドネのときはその必要がなかったから?」
「……左様でございます」
部屋の中に束の間の沈黙が落ちた。確かに、儀式の前でもエヴァはアリアドネの側にいた。支度は儀式を取り仕切る祈女が代わりに行っていたのかも知れない。もしかしたら陽の巫女の場合はそれが普通で、月の巫女だから違うのだろうか。エヴァの表情を窺うが、言葉以上の内心は読めない。
「ごめんなさい、エヴァ。リアのときにはなかった仕事ね」
「セレネー様が気になさることではございません」
淡々と答えているが、その声音は硬いような気がした。セレネーの侍女になったことで、エヴァは不自由を感じているのかも知れない。セレネーはそう思うと居た堪れない気持ちが込み上げて、エヴァに掛ける言葉を見失った。
「おい、エヴァ。お前何か怒ってるのか?」
不躾に尋ねたアンドリオンを、セレネーは口をぱくぱくとさせながら呆れた顔で見上げた。エヴァは無言でアンドリオンに冷たい視線を送っている。
「何だよ、何か不満があるなら言ってみろ」
エヴァはアンドリオンからセレネーに視線を移し、少しだけ間を置いて口を開いた。
「儀式の準備は祈女がすべきことです」
「つまり自分はやりたくないってことか?」
「侍女の仕事が手落ちになります」
セレネーはエヴァの顔をまじまじと見つめ、小首を傾げた。
「要は侍女としての務めが疎かになるのが嫌だってことか」
アンドリオンの問いかけに、エヴァは少しの間を置いて答えた。
「……そうです」
「仕事熱心な侍女だな」
エヴァはアンドリオンにちらりと視線を送るが、何も答えない。
「ありがとう、エヴァ。私なら大丈夫だから、儀式の準備をお願いね」
「かしこまりました」
セレネーはエヴァの顔を正面から見ることができず、視線を少し下げた。側にいないだろうことを都合がいいなどと考えてしまった。ちくちくと胸が痛み、後ろめたさが込み上げる。アリアドネの部屋を探っているなどと知られたら、セレネーの侍女であることを後悔するかも知れない。
エヴァはそのまま儀式の支度に向かうことになった。残されたアンドリオンに、セレネーはどう言い出そうかと頭を悩ませる。エヴァがいないのをいいことに、アリアドネの部屋に再び忍び込むとも言いづらくなってしまった。腕を組み唸り声をあげたセレネーに、アンドリオンが小さく吹き出した。
「くくっ。レネはわかりやすいな」
セレネーは上目遣いにアンドリオンを睨んだ。
「どうして笑うのよ」
「エヴァに悪いと思いつつ、また何か企んでるんだろ?」
「た、企むなんてっ」
酷いと言おうとして、その通りだと口を噤んだ。所在なく両手と視線を彷徨わせたセレネーに、アンドリオンは再び笑いを零した。
「で、今度は何をしたいんだ?」
「……リアの部屋で何か見つからないかと思って」
「手紙に何か書いてあったのか?」
アンドリオンにどこまで明かしていいのだろうか。セレネーは唇を引き結び、表情を硬くした。セレネーにとってはわからないことが多すぎて、頭が混乱してくる。
アリアドネのこともエヴァのことも、そしてアンドリオンのことも。厄災のことも、陽と月の巫女のことも。それらの全てが繋がっているのか、それともまったく無関係なのか。頭の中を今までのことがぐるぐると駆け巡り、何を考えるべきなのかすら見失いそうだ。
「じゃあ、いくか」
セレネーはアンドリオンの声で、思考の波から抜け出した。詳しく聞かれないなら、好都合だ。すぐに頷き、二人でアリアドネの部屋へ向かった。
今回は蝋燭を二つ持ってきている。前回の反省を踏まえ、それぞれが燭台を持つことにしたのだ。本棚ならアンドリオンも触れることができる。とは言え、何を探せばいいのかセレネーにも説明できない。
「で、どうすればいい?」
セレネーは再び唸り声を上げ、答えを求めて頭を悩ませた。アンドリオンの蝋燭の炎と共に、二人の影が頼りなく揺れる。
「……また笑ったわね?」
「いや、そんなことはない」
蝋燭の頼りない明かりでは、その表情をしっかり確かめることができないが、笑われているような気がする。セレネーは顔を顰めるが、それもアンドリオンには見えないだろう。
「とにかく、何か変わったものとか気になるものがあったら教えて」
具体的なものはセレネーにも思い浮かばない。随分抽象的な話だが、それ以外に何と言えばいいのか。
「まあ、やってみるか」
軽く肩を竦めたアンドリオンは、燭台を手に本棚へ向かった。
しばらく無言で探し回るが、目新しい発見はない。もう何も見つからないのかも知れないと思ったところで、アンドリオンが声をあげた。
「おい、ちょっとここを見てくれ」
セレネーは蝋燭の火を頼りに、アンドリオンの指し示す場所を覗き込んだ。そこは本棚の一角で、セレネーには特段変わった様子には見えない。
「ここがどうしたの?」
「この本、どうやっても動かない」
訝しげな視線を向けながら、セレネーは蝋燭に照らされた本をじっと見つめた。試しに引き抜こうと指をかけるが、確かにまったく動かない。どうしたものかと悩んでいると、地鳴りの音が鳴り響く。
「あっ」
驚いて本を押し込むと、カタリとどこかで音が響いた。地面がかすかに揺れ始め、軽く舌打ちしたアンドリオンがセレネーの手を引き座らせようとする。しかし、押し込んだ本の少し先に、他より飛び出した一冊を見つけて思わず手を伸ばした。
「危ないからしゃがめ」
「でもっ」
アンドリオンに軽く腕を引かれながら、ぎりぎり届いた本をどうにか掴む。その刹那、大きな揺れを感じて慌てて本を抱えてしゃがみ込んだ。
いつもより大きな揺れだ。部屋の家具がガタゴトと音を立てる。本が次々に棚から滑り落ちてきた。セレネーの額に汗が滲み、ゴクリと喉を鳴らす。大きな本棚が倒れて来たらと想像して、背中がゾクリと寒くなる。暗がりの中で震えながら、本を抱えて必死に蹲った。
しばらくそのままじっとしていると、揺れが収まりほっと息を吐いた。その時やっと、自分がアンドリオンに庇われていたことに気付く。セレネーに覆いかぶさるようにしていたアンドリオンは、セレネーから離れて大きく息を吐いていた。
部屋が薄暗く、アンドリオンの表情は見えない。気付けば蝋燭の油の匂いが漂い、いつの間にか火は消えていた。セレネーの気付かぬうちに、アンドリオンが消したのだろう。
「レネ、揺れがきたらまずは自分を優先してくれ」
「だって、本がっ」
「本よりまずは自分を守れ」
「でも、手掛かりかも知れないじゃない」
アンドリオンが大きくため息を吐いた。暗さに慣れてきた目に、呆れたような顔がかすかに映る。
「まったく手のかかる巫女様だな」
セレネーはムッとした表情を浮かべ、アンドリオンを小さく睨んだ。この薄暗さでは、その表情もよく見えていないことが少しだけ悔しい。いや、見えていたとしてもセレネーが睨んだくらいでアンドリオンが怯むわけもないのだが。
「で、何を見つけたんだ?」
蝋燭に火を点けたアンドリオンは、セレネーの手元を照らすように燭台をかざした。
「本みたいだけど」
セレネーは蝋燭の火を頼りに、ぱらぱらとページを捲る。すると、中から一枚の紙片が出てきた。本のページとは違う質感のパピルスだ。
「何かしら」
慎重に取り出し蝋燭の灯で照らす。何かの地図のように見えるが、なんだかわからない。
「どこかの地図みたいだな」
裏返すと別の地図が描かれており、見覚えのある紋章が記されている。あのペンダントに描かれた紋章だ。
「ねえ、これって」
「ああ、王家の紋章だ」
セレネーはごくりと喉を鳴らした。これはもしかしたら地下神殿への地図なのかもしれない。探るようにアンドリオンを見上げるが、それを見つめたまま沈黙している。
一本の蝋燭の炎が頼りなく地図を照らし、アンドリオンの顔に影が浮かぶ。薄暗い明かりに照らされた表情がよく見えず、セレネーの胸の奥をざわめかせた。




