3-1
「難しい顔してどうしたんだ?」
部屋の扉を開いてすぐのところに立っていたアンドリオンは、セレネーの顔を訝しげに見下ろした。地図を見つけてからもう何日経っただろうか。セレネーの頭の中は、地下神殿のことでいっぱいだ。
「護衛を部屋の中に入れたらおかしい?」
「おかしいな」
即座に答えたアンドリオンに、セレネーは腕を組んで唸り声をあげた。
「あのね、ここ数日エヴァがいないし、一人で部屋に籠もってても暇なのよ」
「それで?」
「扉を少し開けておいたら、あなたを中に入れても大丈夫じゃないかしら?」
アンドリオンは片眉をあげ、顎に手を当て少しの間考えるような素振りを見せた。
「そうだな……ちゃんと名前を呼べたら話し相手になってやるよ」
悪戯っ子のような笑みを浮かべたアンドリオンに、セレネーは目を瞠る。
「アンドリオンっ!」
「違うだろ」
やはり誤魔化されなかったかと、セレネーは小さく肩を落とした。恨めしそうに見上げながら、囁くような声で「リオン、お願い」と呟いた。
「ぶっ」
アンドリオンは口に片手を当てて吹き出しそうなのをこらえながら、肩を大きく揺らしている。
「わ、笑うならもう二度と呼ばないからっ」
「悪かった。謝るからそのままにしてくれ」
アンドリオンは尚も笑い出しそうな口元を拳で隠しながら、部屋の中に足を踏み入れた。扉は完全に閉めず、こぶし一つ分開けたままだ。
「こっちに座って」
セレネーは、食事を摂るのに使っているテーブルに据えられた椅子を勧める。自分も向かいに座るが、居心地悪さに何度か座り直した。
「それで、何か話したいことでもあるのか?」
セレネーは少しの間逡巡し、テーブルに置いてあった本に視線を落とした。
「この間の地図なんだけど」
アンドリオンは何をどこまで知っているのだろうか。王家の紋章のことは、セレネーが知っていては都合の悪いことのはずだ。アリアドネがアレクシスにも秘密にするようにと言っていたのだから。
あの本が立入禁止の地下書庫にあったのだから、普通の人間は知らないことなのだろう。けれど、アンドリオンはそれを知っていた。だとしたら、地下神殿や地下迷宮のことも知っているのだろうか。
黙ってセレネーの言葉を待つアンドリオンに、焦りや含みを感じ取ることはできない。セレネーがそういったことに長けていないからなのか、アンドリオンが隠すのがうまいのか。それとも、誤魔化すつもりもないのだろうか。
「あなた……リ、リオンは、あの地図がなんだかわかる?」
「……レネはなんだと思ったんだ?」
質問で返されたことに、セレネーは眉を寄せた。これではどちらなのかわからない。
セレネーを見つめていたアンドリオンは、決まり悪そうに首の後ろに手を当てながら口を開いた。
「すまん、この言い方はずるいな。この間も言ったが、なぜ知っているかは今は言えない。が、あの地図はかつて陽の巫女がいた地下神殿への道だろうな」
言葉を選びつつも答えたアンドリオンに、セレネーは目を瞬いた。質問を返された時点で、てっきり誤魔化されると思っていたのに。まさか、きちんと答えが返ってくるとは。なぜ知っているのかという謎は残るが、それでも嘘をつくつもりはないのかも知れない。そう思うのは都合がよすぎるだろうか。
本の隙間から取り出したパピルスをテーブルに置き、アンドリオンの方へ滑らせる。
「この地図、裏と表と二つあるけど、私にはなんだかさっぱりわからない。リオンはこれを見て、何かわかることがある?」
アンドリオンは地図に視線を落とし、ひらひらと両面を見比べた。しばらくの間考えるような素振りを見せたが、やがて視線をセレネーに戻した。
「表は恐らく町の地図だな。地下迷宮への入口のひとつだろう」
セレネーは町の地理を全く知らない。セレネーが産まれたのは遠く離れた小さな村で、神殿から見下ろす町で暮らしたことはない。売られたあの日に、父親とラバに乗って通り過ぎただけだ。
「じゃあ、裏は……」
ごくりと喉をならし、アンドリオンをじっと見つめる。
「地下神殿へ続く迷宮の地図みたいだな」
「入口が町のどこなのか、これを見たらリオンはわかるの?」
「ああ」
予想していた答えではあったが、喜んでいいのか疑うべきなのかよくわからない。セレネーは少しの間考えを巡らせ、アンドリオンに視線を戻した。
「地下神殿の入口は、町のどの辺りなの?」
「中心のあたりだ。ここからはよく見えないかも知れない」
「そう。行ったらすぐにわかるようなところ?」
アンドリオンは腕を組んで、思い起こすように視線を宙に彷徨わせた。
「確か、周りに目印になるようなものは無かったはずだ。だが、そこは王家が管理していたもう一つの祭壇がある。今でもその名残くらいは残ってるだろう」
「王家の祭壇? この神殿にあるもの以外に、祭壇があるの?」
「なんだ、知らないのか?」
アンドリオンは驚いたように目を見開いた。
「あの……それは、誰でも知ってることなの?」
「そうだな。この国の人間なら誰でも」
アンドリオンはセレネーを見つめて一瞬息を呑み、言葉を止めた。
セレネーは顔を赤らめ俯いた。大した教育を受けていないことが、アンドリオンにも知れただろう。アリアドネやリアの手紙が脳裏を掠め、自分のたどたどしい文字を思い出す。
「いや、誰でもってことはない。教えられなきゃ知らなくて当然だ。自分で知ろうとしても、限界があるからな」
アンドリオンは地図に目を落とし、小さく頷き口を開く。
「レネは今知った、それだけのことだ」
ぎこちない笑みを浮かべたセレネーは、曖昧に頷いた。
「……あの、地図にこの神殿の場所も載ってるの?」
アンドリオンは再び表の地図に目を落とし、左端の方を指さした。
「ここが神殿の位置だ。町まではほとんど一本道だから、省略されてる。後は町の中の地図だが……初めて行く人間は迷うと思うぞ」
地図をじっと見つめていたセレネーは、おずおずとアンドリオンを見上げた。
「ねえ、もしも」
セレネーはテーブルの下で両手の拳をぎゅっと握り、ごくりと喉を鳴らす。
「もし、私がここに行くって言ったら」
続きの言葉を探すように、セレネーの視線が左右に揺れた。止めて欲しいのか、それとも一緒に行くと言って欲しいのだろうか。そもそも月の巫女であるセレネーが神殿を出るなんて、できるのか。本当にアリアドネは地下神殿にいるのかもわからない。セレネーが追いかけたところで、何の意味があるのだろう。
「行きたいのか?」
セレネーはアンドリオンをまっすぐに見上げた。行ったところで何の役にも立たないのかも知れない――けれど、それでも。
「行きたい」
アリアドネに繋がるかも知れない手掛かりがこれしかないなら、行くしかない。決意を込めてアンドリオンをじっと見つめる。
しばらく視線を合わせていたアンドリオンは、やがて大きなため息を吐いた。
「わかった。だが、行くときは俺も一緒だ。一人で先走るなよ」
セレネーはほっと肩の力を抜き、アンドリオンの言葉に頷いた。握りしめていた拳を開くと、じっとりと汗ばんでいた。
「それにしても、レネは本当にアリアドネが生きてると信じてるのか?」
「ええ、生きてるわ」
「どうして?」
「だって、あの死体はアリアドネじゃなかったから」
確信を持って答えるセレネーに、アンドリオンは不思議そうな表情を浮かべた。
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「だって、棺の中のあの人は……」
セレネーの脳裏にアリアドネとの思い出が鮮やかに蘇る。
八歳で侍女がソフィアに変わってから、セレネーは自分で髪を結うようになった。と言っても、簡単に一つに括るだけだ。それでもあちこちから髪が飛び出し、今思えば無様だった。
『レネ、自分で髪を結って偉いわね』
『うん、もうじぶんでできるよ』
アリアドネの金糸のような髪は、いつも丁寧に編み込まれていた。
『巫女はね、髪にも力が宿るの。だから、短くしてはいけないし、自分で整えられるようにならなきゃいけないわ』
『かみに、ちからが……やどる?』
『ふふっ、そうよ。レネにはまだ難しいから、もう少し大きくなったら編み方を教えてあげる』
美しい笑顔でセレネーを見下ろすアリアドネは、太陽に照らされて神々しく輝いていた。地上に女神がいたなら、きっとそれはアリアドネのような姿だろう。セレネーは眩い笑顔を見上げ、頬を上気させてその日が来るのを心待ちにした。
それからニ年経ち、セレネーが十歳になったころ。アリアドネは約束通り髪の編み方を教えてくれた。
『いい? レネ。私がやってみせるから、よく見てて』
アリアドネは自分の髪をゆっくりと編み始める。三つの束に分けて、器用に右の毛束を中央へ、次は左の毛束を中央へ。下の毛束を掬いながら右を中央へ、左も同じように掬って中央へ。するすると編み上がっていく淡い金の髪を、セレネーは口を開いたままじっと見つめた。細く長い指先が器用に動き、髪をみるみる内に編んでいく。
『どうかしら』
セレネーは目をぱちぱちと瞬かせ、頬を染めてアリアドネをじっと見つめた。
『リア、すごい。すっごくきれい。まるで手品みたい』
『ふふっ。レネもすぐにできるようになるわ』
目を細めたアリアドネは、エヴァへ椅子に座るよう合図した。
『さあ、エヴァで練習しましょう。私も見てるから、まずは人の髪を編む練習ね』
エヴァは一瞬目を見開くが、アリアドネの言ったことに背くことはない。一瞬唇を引き結んだが、すぐに椅子に腰掛けた。
恐る恐る手にしたエヴァの髪は、薄茶の柔らかな手触りだった。溜息を吐き「エヴァの髪もとってもきれいね」と呟くが、エヴァは何も答えなかった。
セレネーがエヴァの髪を優しく掬う。その度擽ったそうにして、エヴァはほんの少しだけ耳を赤らめたような気がする。しかし、手元に夢中だったセレネーは、それをさして気にしていなかった。今となっては幻だったようにも思える。
それから何度も練習を重ねるうちに、自分の髪も結えるようになった。今でも普段は簡単に括るだけだが、儀式の時は自分で結っている。アリアドネに教えられた通り丁寧に、力が宿るように心を込めて。
だから、セレネーが見間違うはずないのだ。
「レネ? どうしたんだ?」
アンドリオンの言葉にセレネーは思考の渦から引き上げられた。訝しげに見下ろすアンドリオンに視線を向けたセレネーは、はっきりとした口調で答えた。
「棺の中のあの人は、違ったのよ」
「何が違ったんだ?」
セレネーは少し間を置き、眼差しを強くした。
「リアは、髪を編むとき必ず右の束から編み始めるの。でも、あの棺の中の人は――左から編んでた」
セレネーは確信に満ちた瞳でアンドリオンをじっと見据えた。
「だから、あれはアリアドネじゃない」
アンドリオンはごくりと喉を鳴らした。
「なるほど……髪か」
アンドリオンは思い返すように視線を下げた。
「だから棺の中をあんなに覗き込んでたんだな」
セレネーは、アンドリオンに出会った日のことを思い出す。突然口を塞がれて、棺から引き離された。あの時は驚きと同時に悔しさも込み上げた。けれど今思えば、あれ以上騒げばどうなっていたかわからない。地下書庫で月の巫女を始末するという話を聞いてしまった今となっては、アンドリオンのお陰で命拾いしたと思える。セレネーは思い返して小さく身震いした。
「蝋燭の光だとあまりはっきり見えなかったけど。でも、ちゃんと確認したから間違いないわ」
「そうか」
もしアリアドネが自ら姿を消したなら、あれはきっとわざとだ。セレネーなら気付くはずだと分かっていたのだろう。それに加えてエヴァのこともある。日々淡々と過ごす様子が、セレネーの確信をより確かなものにする。
「きっとリアは、地下神殿に行ったんだと思う」
アンドリオンは何も答えず、複雑そうな顔をした。
「私、おかしなこと言ってる?」
「いいや、そうじゃない。そうじゃないが……」
首の後ろを掻きながら、アンドリオンは渋面を浮かべた。何かを言いかけては止めるを繰り返すアンドリオンに、セレネーは首を傾げた。しばらく様子を窺うが、それ以上何かを言うつもりはないようだ。
言えない何かを抱えているような素振りは見せるが、全てを教えてくれるわけではない。理由はわからないが、それでもいいかとセレネーは思い始める。アリアドネのことで悩んだとき、アンドリオンが言ったから。
『アリアドネと一緒に過ごした時間で、セレネーはどう思ったんだ?』
『自分の目で見たものが答えじゃないのか』
これはきっとアンドリオンに置き換えても同じなのだろう。地下書庫でセレネーの危機を救ってくれた。神殿女の嫌がらせから連れ出してくれた。この国では価値のない黒髪を美しいと言ってくれた。無知なセレネーに下手な同情もせず、かといってバカにもしなかった。アリアドネをどれほど大切に思っているのか理解してくれた。セレネーの目に映ったアンドリオンは、そんな人だ。きっとセレネーを害するつもりはないはずだ。エヴァとおなじように。
セレネーは口籠るアンドリオンから地下神殿の地図へ視線を落とす。きっとここに行けばアリアドネに会える。震える指先でそっと地図をなぞり、アンドリオンへの違和感には蓋をした。




