3-2
「それで、地下神殿へ」
「しっ」
言い掛けたセレネーをアンドリオンが素早く制止した。アンドリオンは人差し指を唇に当て、素早く扉の方を振り返る。そっと立ち上がり、いつでも左の腰の剣を抜けるように構え、扉に一歩ずつ近付いた。
扉が音もなくゆっくりと開き、いつも以上に平坦な表情の持ち主が顔を覗かせた。
「……護衛が巫女様の部屋で何を」
鋭い視線でアンドリオンを見上げたのは、エヴァだ。凍てつくような視線がアンドリオンを貫く。
「いや、これは」
慌てて両手を挙げたアンドリオンは、言葉が続かずしどろもどろだ。
「エヴァ、ごめんなさい。私が話し相手になって欲しいってお願いしたの」
エヴァは幾分視線を和らげ、セレネーを見つめた。
「……左様でございましたか」
「そういうことだ。で、ちょっと話があるからそのまま下がってくれ」
アンドリオンが少し引きつったような笑みを浮かべ、挙げた両手を前後に振ってエヴァを下がらせた。アンドリオンは扉の外に出る間際、ちらりとセレネーに視線を向けた。
「ちょっとエヴァと話してくるから、待っててくれ」
セレネーは小さく頷き、出ていく二人を見送った。一体何を話すのだろうか。扉が開いたままなのが気になり、自分で閉めるために席を立つ。話の邪魔をしては悪いと思い、足音を立てないように静かに近付いた。取っ手に指をかけて閉めようと思ったとき、開いた扉の隙間からエヴァの顔が見えた。
「……えっ?」
セレネーは思わず小さく声を上げた。すぐに片手で口元を抑え、音を立てぬようにそっと扉を閉じた。取っ手を握る指が微かに震え、両手で口を抑え直して息を呑む。
エヴァが、笑っていた。アンドリオンを見上げて、それはそれは美しい顔で。今まで一度も見たことのない、エヴァの笑顔。おそらくアリアドネの前でも見せたことはない。微笑ですら見たことがなかったのに、あれは満面の笑みだった。アリアドネが芍薬のような笑顔なら、エヴァのそれは――蓮の花のような、神秘的な美しさだ。
体中を脈打つように大きく鳴り響く心臓に、セレネーはその身を震わせた。口元の手を体に回し、ぎゅっと自分を抱きしめる。
あの二人は何かあるのだろうか。本当に信用していいのだろうか。いや、そうではない。エヴァとアンドリオンがどんな関係であっても、信用できるかどうかは無関係だ。アリアドネのこととは何も関わりないはずだ。
セレネーは考えがまとまらず、意味もなく部屋を歩き回った。大きく深呼吸をして、テーブルに置かれた水差しへ手を掛けた。その刹那、扉を叩く音がして思わず水差しを倒してしまう。
「あっ」
ごとりと音を立てて倒れた水差しを、セレネーは呆然と見つめた。直後に扉が開かれ、エヴァがすぐに足を踏み入れた。手早くテーブルと床を拭くエヴァを見下ろし、セレネーは足が縫い留められたように動けなくなる。
「大丈夫か?」
外から遠慮がちに覗き込んだアンドリオンに、セレネーはびくりと肩を揺らした。
「問題ありません」
すぐに振り向いたエヴァがアンドリオンに答えた。無表情で立ち上がり、躊躇うことなく扉を閉めた。その様子は普段セレネーが見ているものと何も変わらない。まるで先程の笑顔が夢であったと思えるほどに。
「……胃の不調ですか?」
エヴァに声を掛けられ、セレネーは自分が腹を押さえていたことに気付いた。無意識に手を当てていたが、言われてみればやもやもする。けれど、不調かと問われるとよくわからない。セレネーは眉を寄せて首を傾げた。
「明日に備えてお薬をお持ちしますか?」
「明日?」
何か特別なことがあっただろうか。思い当たらずセレネーはさらに首を傾げた。
「祈りの日です」
「あっ」
色々な事がありすぎてすっかり頭から抜けていた。確かに明日は祈りの日だ。ここ数日エヴァが側にいなかったのは、その準備のためだったのに。考えることばかりが山積みで、セレネーの頭は限界を超えそうだ。そもそもアリアドネがいないのに、月の巫女だけで祈ることに意味があるのだろうか。セレネーはさらにもやもやとしたものが込み上げて、無意識に腹を撫でた。
「今お薬をお持ちします」
「えっ? ああ、エヴァ、私なら」
大丈夫と言い掛けたところで、エヴァは既に扉を潜って回廊に出ていた。開いた隙間からアンドリオンが顔を覗かせ、首を傾げてセレネーに視線を送る。
「具合でも悪いのか?」
「いいえ、大丈夫よ」
アンドリオンの顔を見て、さらに酷くなったような気がする。けれど、それを伝えるのもおかしい気がした。セレネーには不調の心当たりがないのだ。
しばらくするとエヴァが薬を持って戻ってきた。よく見れば水差しも持っている。先程セレネーが零してしまったので、新しく入れ直してくれたようだ。自分のせいで手間を掛けさせてしまったと、セレネーは申し訳無さが込み上げた。
「エヴァ、ありがとう」
「いいえ。もうすぐ夕餉の時間です。先にお飲みください」
セレネーは小さく頷き、エヴァの持ってきた薬包を掌の上に乗せた。これは、アリアドネが祈りを込めた加護付きの薬草だ。薬包の印でそれがわかる。セレネーはその印を見つめ、胸の前で両手に包み込む。アリアドネの顔を思い浮かべ、淡く微笑んでから包みを開いた。サラサラと口の中へ落とし、一気に水で流し込む。
夕食を食べたら今日は早く寝てしまおう。明日の祈りを失敗しては大変だ。そうでなくても神殿でのセレネーは、役に立たないお飾りの巫女だと思われているのだから。
準備されたのはここ数日口にしている儀式の前の食事だ。肉を抜いた野菜と果物のみの味気ない食事。それでもアリアドネと食べるときは、身の引き締まる思いだった。明日は一人で祈るのだと考えると、尚更胃が重くなる。いつもよりのろのろと口に運んだセレネーは、早々と床に就いた。
翌朝目を覚ますと、胃の不快感はすっかり消えていた。アリアドネの薬の効果は絶大だ。不調の去った胃をさすりながら、セレネーは深呼吸をした。
一人で迎える祈りの日は初めてだ。神殿にきて祈りの作法を覚えてからは、先代の陽の巫女と祈っていた。代替わりしてからはアリアドネと二人で。考え出すと緊張で鼓動が少し速くなる。深呼吸を繰り返していると、部屋の扉を叩く音が響いた。
「おはようございます」
ゆっくり扉を開いたのは、エヴァだ。今朝もその佇まいに変わったところはなく、セレネーは少しだけほっとする。
「おはよう、エヴァ。今日もよろしくね」
「はい」
淡々と支度を始めるエヴァを見つめていると、ふと昨日の笑顔が浮かび上がる。途端に胸がちくりと痛み、セレネーは微かに顔を顰めた。
朝食を終えると、儀式の準備に忙しい。アリアドネに教えられたとおり、丁寧に黒髪を編んでいく。
その間にエヴァは装飾品を整え、衣装の準備も抜かりない。隙無く編み上がった髪を、エヴァがオリーブの葉で飾り付けた。衣装を着替えて、子供の頃は重いと思っていた装飾品を、順に身に着けていく。
一つ着ける毎に、セレネーの表情が変わっていく。それは道端に埋もれて咲く、可憐なスミレの花のように。小さく謙虚に咲く花は、目立ちはしないが芯は強い。最後にまとった肩掛け布は、淡い紫だ。
セレネーは部屋を出る前に、エヴァから鈴を受け取った。両手首につければ、巫女の装束は完成だ。深呼吸をして、エヴァに小さく頷いた。
エヴァはそっと部屋の扉を開き、セレネーを先導する。回廊に一歩足を踏み出すと、すぐのところに立っていたアンドリオンが一瞬息を呑む気配がした。巫女装束のセレネーは、周囲の音が遠く感じる。祈りの前はいつもそうだ。不安や緊張が嘘のように遠のいて、ただ祈りの儀式に意識が向かう。
前後をエヴァとアンドリオンに挟まれて、セレネーは静かに回廊を歩く。一階に下り前室を通り過ぎ、祭壇の間へと足を踏み入れた。
松明の炎に照らされた祭壇の間に、セレネーの影がゆらゆらと揺れる。ぱちぱちと鳴り響く炎の音が聞こえるほど、中は静まり返っていた。
祭壇には供物が置かれ、周囲には神殿長であるアレクシスと、儀式を取り仕切る祭官が二人立っている。少し離れた場所には、記録のための典官が控えていた。さらに離れたところにには、神官や祈女。さらには、国政を取り仕切る政務官、執政官や評議員なども首を揃えていた。
松明の燃える音も、今のセレネーの耳には届かない。ただ真っ直ぐ前を見つめ、一人ゆっくりと祭壇へ向かって足を踏み出す。衣擦れの音だけが部屋の中に響き、アンドリオンはごくりと喉を鳴らした。セレネーの腕の鈴も、不思議と音を立てることはない。
祭壇の前に辿り着いたセレネーは、一度アレクシスの方に視線を向ける。アレクシスが手を上げ合図を送ると、その場に居るものは皆顔を俯けた。
セレネーが静かに両手を挙げ、手首の鈴をしゃんと鳴らす。その音は部屋の隅々に響き渡り、空気がぴんと張り詰める。それをきっかけに、ゆっくりとした動作で祈りの舞が始まった。
松明の炎に照らされたセレネーの影が、舞に合わせて優雅に揺れる。チュニックと肩掛け布がセレネーの動きに合わせてふわりと広がり、風になびくスミレの花びらのようだ。舞の合間に鳴り響く鈴の音に、どこか遠い世界へ迷い込んだような気分になる。松明の炎があるはずなのに、闇夜に立っているかのようだ。一つ鈴がなる度に、暗闇に星が散りばめられていくかのように。セレネーが安寧を祈る言葉を紡ぐ度に、その星が瞬くかのように。
緩やかな舞が収束を迎え、最後に一つしゃんと鈴の音が響き渡った。その刹那、ナオスの張り詰めていた空気が一瞬で解き放たれる。ぱちぱちと燃える松明の音が耳に届き、夢から覚めたかのようだ。
セレネーは祭壇からゆっくりと後ずさり、エヴァとアンドリオンの居る方へ足を踏み出した。そのとき、低い地鳴りの音が響く。エヴァがいち早くセレネーの元へ足を踏み出した。夢と現の狭間を彷徨うように、ぼうっとしていたアンドリオンは、一歩遅れて走り出す。
祈りを終えたセレネーは、未だ半分現実に戻っていない。焦ったように走ってくる二人の姿に、何かあったのだろうかと首を傾げた。
先にセレネーの元に辿り着いたアンドリオンに「しゃがめ」と言われて、慌ててその場に座り込む。そのときになってようやく足元の揺れに気づき、両手の鈴を鳴らして頭を抱えた。
アンドリオンとエヴァに庇われ、どれくらいその場にしゃがみ込んでいただろうか。ようやく揺れが止み、ゆっくり顔を上げると真剣な顔をしたアンドリオンと視線が合う。
「あの、二人とも……ありがとう」
普段どおりのセレネーの様子に、アンドリオンがほっと息を吐いた。エヴァは小さく頷き、周囲に視線を巡らせた。
儀式の様子を見守っていた者たちが、何かを囁きあっている。そのうちの一人が、祭壇の間に響くほどの大きな声をあげた。
「月の巫女の祈りでは、やはり厄災は鎮まらないっ」
セレネーはビクリと身体を揺らし、声の方へ視線を向けた。その男の周囲には、地下書庫で見た執政官の男もいた。声を上げた男の肩に手を置き諌めているようだ。とすれば、憤る男はもしかして――。
『月の巫女に関してはまだ諦めていないだろう』
『月の巫女さえ始末すれば』
書庫で聞いたパトス派の男の言葉がセレネーの脳裏に蘇る。思わず両手で抱きしめた身体が、がくがくと震えだす。
ざわつき始めた者たちに、アンドリオンが小さく舌打ちをした。
「レネ」
他の者には聞こえないくらいの声で、アンドリオンがセレネーを呼ぶ。見上げた先のアンドリオンは、真っ直ぐな視線でセレネーを見つめていた。
「大丈夫だ。エヴァも俺もいる。とにかく部屋に戻るぞ」
セレネーはアンドリオンからエヴァに視線を移した。エヴァも小さく頷き、セレネーの背にそっと手を添えた。二人に片方ずつ手を取られ、セレネーはゆっくり立ち上がる。来たときとは真逆の気持ちで、祭壇の間をそっと後にした。
明るい日に照らされた前室を抜け、足早に回廊の階段を上る。急ぎ部屋の扉を潜ったセレネーは、膝から力が抜けて座り込んだ。
「セレネー様」
エヴァがすぐ側で膝をつき、セレネーに水で満たした器を差し出した。
「ありがとう」
震える手でそれを受け取り、ゴクリと喉を鳴らして流し込んだ。扉を叩く音が鳴り響き、セレネーは再びぎくりと肩を揺らす。エヴァが扉を開くと、アンドリオンが顔を覗かせた。
「……」
無言でアンドリオンを見上げたエヴァは、薄く笑みを浮かべた。アンドリオンは一歩後退り、呻き声を上げた。
「驚かせたか? レネの様子が気になって」
気まずそうに頭を掻いたアンドリオンは、エヴァ越しにセレネーの様子を覗き込む。セレネーは座り込んだままアンドリオンを振り返り、ほっと息を吐き出した。
「心配かけてごめんなさい、二人とも。私は大丈夫だから」
ぎこちない笑顔を浮かべたセレネーに、アンドリオンは眉を寄せた。
「無理しなくていい。怖いなら怖いって言っていいんだ」
アンドリオンの言葉にセレネーはふっと小さく笑った。
「ありがとう。でも、あんなのいつものことよ。それに今は二人がいてくれるから心強いわ。アレクシスさまにも感謝しなくちゃね。あなたたちを私の側に置いてくれたんだから」
肩を竦めたセレネーに、エヴァとアンドリオンは顔を見合わせた。
「さっきの儀式では別人みたいだったが。レネはいつものレネのほうが落ち着くな」
ぼそりと呟かれた言葉は耳に届かず、セレネーは小さく首を傾げた。
「いや……儀式のセレネーは」
「儀式の私がどうしたの?」
言い淀んだアンドリオンは、少しの間考え込んでから言葉を選ぶようにゆっくり口を開いた。
「やっぱり、月の巫女も陽の巫女と並ぶ、国を照らす光に違いない」
セレネーは目を皿のようにしてアンドリオンを見つめる。アレクシスに護衛として紹介されたときも、同じようなことを言っていた。月の巫女も陽の巫女同様大切な存在なのだと。
セレネーは顔に熱が集まるのを感じて、慌てて俯き両手を頬に当てた。しゃらりと鳴り響く鈴の音が、セレネーの心臓を鎮めることはなかった。




