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祈りの日から数日、セレネーは祭壇を清めながら考えを巡らせた。地下神殿にいつ向かおう。アンドリオンに相談しようと思うのだが、エヴァがいるので中々できない。
エヴァにも話した方がいいのだろうか。そう思うこともあるのだが、反対されそうな気もする。そうでなければ、アリアドネがエヴァをセレネーの元に残していくはずはないと思うからだ。
きっとアリアドネは何か理由があって地下神殿へ向かった。けれど、セレネーを連れていくつもりはなかった。代わりに、エヴァを残してセレネーの不安を払拭した。もしくは――。
「ぼーっとしてるとまた桶をひっくり返すぞ」
ふいに掛けられた言葉にはっとして、声のした方を見上げた。視線の先に映ったのは、口の端を上げて少しからかうような表情を浮かべたアンドリオンだ。セレネーは一瞬むっとして唇を尖らせるが、はたとして周囲を見回した。
「エヴァは?」
アンドリオンは目を丸くして、呆れたように口を開いた。
「それも気付いてなかったのか? レネの服が汚れてるから、先に戻って着替えを用意するって言ってただろ」
セレネーは顎に拳を当てて首を傾げた。そういえば、祭壇の掃除を終えてすぐそんなことを言っていたような。考え事に夢中で耳をすり抜けてしまったようだ。
「そう……だったかしら」
呟いてから、小さく「あっ」と声を上げ、慌ててアンドリオンを見上げた。手招きするセレネーに、アンドリオンは一瞬面食らったように目を見開くが、すぐにかがみ込む。
「ねえ、地下神殿にはいついくの?」
囁き声で耳打ちしたセレネーに、アンドリオンは「ああ」と小さく呟いた。
「すぐには無理だな。地下迷宮を通るための準備が必要だ。もう少し待ってろ」
「でも、私は何をすれば」
「いつもどおりに過ごして待つんだ。支度が整ったらちゃんと知らせるから」
セレネーはもどかしさに小さく唇を噛んだ。けれど、何をしたらいいのかもわからない。アンドリオンの言うことに従うしかないだろう。溜息を吐いて肩を落としたセレネーは、「わかった」と大人しく頷くことにした。
部屋に戻るとアンドリオンの言ったとおり、エヴァが新しい着替えを準備して待っていた。それに袖を通しながら、セレネーはふと思いつく。
アレクシスは何か知っているのだろうか。アリアドネではない死体をアリアドネだと認めたのはアレクシスだ。前に尋ねたときははぐらかされたが、今はどうだろう。地下神殿へ向かう前に、アレクシスとも話してみたい。
「ねえ、エヴァ。アレクシス様と話がしたいの」
「……かしこまりました」
「ありがとう」
セレネーの汚れた服を片手に、エヴァが扉をゆっくり開く。すぐ外にいたアンドリオンへ何か言葉をかけて、そのまま回廊へ出ていった。
アンドリオンとエヴァが話していた光景が再びセレネーの脳裏を過る。アンドリオンは背を向けていたから、どんな表情だったのかは分からない。けれど、あのときのエヴァの笑顔がふとしたときに蘇る。それは決まって、エヴァとアンドリオンが話しているときかも知れない。
セレネーはちくちくと痛む胸に手を当て俯いた。この痛みはどちらのものなのだろう。昔から変わらぬ様子で自分に接するエヴァが、新しくきた護衛に、アリアドネの前ですらしなかった笑顔を見せたことへの動揺なのか。それとも、新顔の護衛が、他の神殿関係者とは違ってセレネーに好意的で、そんな護衛にエヴァが笑顔を見せたことへの違和感なのか。アリアドネに置いてけぼりを食らった自分が、エヴァとアンドリオンからも置いていかれそうで不安なのかも知れない。
急に足元が揺らいだような気になって、セレネーは落ち着かずに部屋を歩き回った。けれど、そもそもセレネーの足元が盤石であったことなどなかった。アリアドネがきてから地に足が着いたように感じていただけだ。それは、アリアドネのこしらえた道をただ真っ直ぐ歩いていただけで。それに気付いた今、踏み出す一歩に不安が過る。
一人で踏み出すのが怖いから、アンドリオンを頼りたいだけなのかも知れない。それでも、地下神殿という小さな光が暗い道の先に見えた気がした。だからこそ、そこへ向かわなければと逸る気持ちで落ち着かない。誰かの手を借りてでも、どうしても辿り着きたい。
ぴたりと足を止めたセレネーは、ぎゅっと両手の拳を握りしめた。そのとき、扉を叩く音が部屋に響く。エヴァが戻ってきたのだろう。セレネーは静かに開く扉を見つめた。
「神殿長様がお話になるそうです」
「ありがとう、エヴァ」
セレネーの力強い眼差しに、エヴァが一瞬誰も気付かない程度に小さく息を呑んだ。セレネーはエヴァにしっかり頷き、回廊へ足を踏み出した。
エヴァに続きセレネー、後ろからアンドリオンが付いて回廊を歩く。セレネーは迷いなく一歩ずつ踏みしめ、表情を引き締めた。
アレクシスの部屋の前で、セレネーは深呼吸した。アレクシスはセレネーの問に答えてくれるだろうか。エヴァが扉を叩く音が、セレネーの鼓動を加速させる。ごくりと喉を鳴らし、静かに開かれる扉の先をじっと見つめた。
「失礼します」
セレネーはアレクシスの部屋へ足を踏み入れ、エヴァとアンドリオンを振り返る。
「二人は、外で待ってて」
アンドリオンは肩を竦め、エヴァは静かに一歩下がった。
「セレネー、何か話があると聞いたが」
扉が閉まるとともにアレクシスが口を開いた。部屋にいたのはアレクシス一人だ。
「アレクシス様、お時間いただきありがとうございます」
「二人きりのときくらいは、昔のように気兼ねなく話してくれんか」
セレネーは初めて会ったときから随分老いたアレクシスを見上げ、小さく頷いた。
「アレクシス様、今日は聞きたいことがあって」
「なんだね」
目尻を下げるアレクシスに、セレネーはほんの少し胸が痛む。孫のようだと言ってくれるアレクシスだが、これから聞くことにちゃんと答えてくれるだろうか。それでもセレネーはアレクシスに真っ直ぐ視線を向けた。
「リアの出自を知ってるんですか?」
アレクシスは顔色を変えることなくセレネーを見つめ返した。
「……なぜそのようなことを聞くのだ」
「知りたいんです。あの棺の中にいたのは、リアじゃありません。アレクシス様もわかってますよね?」
「何度聞かれても答えは変わらぬ。あれは、陽の巫女アリアドネだ」
セレネーは一度唇を引き結び、それでもアレクシスから視線を逸らさず口を開いた。
「私、子供の頃にリアに地下の書庫へ連れていってもらいました」
アレクシスの表情は変わらないが、セレネーはさらに続けた。
「ある紋章を見せてもらいました。特別なものだって。子供の頃は何だかわからなかったけど、最近知りました。それは、王家の紋章でした」
「……なぜそれを?」
ゴクリと喉鳴らしたセレネーは、呼吸を整えてから口を開いた。
「少し前に、地下書庫へいったんです。リアのことがなにかわかるかと思って」
アレクシスは小さくため息を吐き、困った子供に向けるような視線でセレネーを見下ろした。
「それで……私、聞いてしまったんです」
「一体何を?」
一度アレクシスから視線を逸らしたセレネーは、両手の拳をぎゅっと握りしめた。俯いたまま続ける声が微かに震える。
「月の巫女を……始末すると」
アレクシスは息を呑み、一瞬目を見開いた。何かを言おうと口を開き、そのまま閉じて少しだけ俯いた。セレネーはアレクシスに一歩近づき、強い眼差しを向けた。
「アレクシス様、何か知ってるんですよね? 教えて下さい」
アレクシスはセレネーに視線を戻し、大きく息を吐いた。顎を撫でながら少しの間逡巡して、やがて静かに口を開いた。
「……アリアドネの出自だったな。お前の考えているとおり、あの子は隣国に住まう王家の、それも直系の血筋だ。前回の厄災で、王家の者たちは隣国へ逃れた。その血筋があちらで受け継がれている」
セレネーはその言葉に、今更ながらに胃を掴まれたような気分になった。それは予想していたことだし、そうに違いないと思っていたことだった。けれど、確証もなかった。
アレクシスの言葉でそれが完全なものになった。これでアリアドネとセレネーの立場の違いが明確になってしまった。以前にも増してアリアドネの笑顔が遠のく気がして、胸の奥がずきずきと痛む。
「では、リアが姿を消したのはなぜですか? 棺の中身はリアじゃなかった。それもまだ否定しますか?」
小さく呻き声を上げたアレクシスは、再び息を吐いた。
「セレネー、儂が一度そうだと認めたものを覆すことはできない。何があっても、誰に対してもだ」
セレネーは眉を下げてアレクシスを見つめた。その表情は苦悶に満ち、瞳には悲しみの色が滲む。こんな顔をさせたかったわけではないが、尋ねずにはいられなかった。
「アレクシス様、ごめんなさい」
アレクシスは無言のままセレネーを見つめた。
「あの、エヴァとアンドリオンを私に付けたのは、そのことと関係してるんですか?」
セレネーに視線を合わせたままのアレクシスは、否とも応とも答えない。
「……セレネー。アリアドネも儂も、お前を大切に想っている。あの子はお前を妹のように、儂は孫のように」
ゆっくりと近付いたアレクシスは、そっとセレネーを抱きしめた。子供の頃は何度も抱きしめて貰った。けれど、アリアドネがきてしばらく経ってからは、それもなくなった。寂しくはあったが、仕方ないとも思った。アリアドネも家族から離れてきっと寂しいのだから。それから幾年も過ぎるうちに、セレネーの全てを包み込むようなこの温もりは記憶の奥底に埋もれていた。
セレネーはアレクシスの服をそっと握り、小さく息を吸い込んだ。懐かしい乳香の香りが鼻腔を掠める。この距離にこなければ分からない、微かな香りだ。それは、森の奥深くに漂うほんの少し甘くて爽やかで、セレネーの心を落ち着かせるものだ。
アレクシスはそっとセレネの肩に手を置き、少し距離を取った。
「いいか、セレネー。今は全てを詳らかにすることはできん。だが、必ずそれを知る日がくる。それまで、エヴァやアンドリオンから離れず、自分の身を守りなさい」
「はい、アレクシス様」
セレネーはアレクシスとしっかり目を合わせてから、深く頷いた。そのまま重い足取りでアレクシスの部屋を後にする。
回廊に出ると、エヴァとアンドリオンが待っていた。二人を交互に見比べ、セレネーは小さく頷いた。
セレネーが二人のどちらともから離れることは、まずないだろう。地下神殿に行くのも、アンドリオンと共に向かうのだから。アレクシスに嘘をついたわけではない。ただ、アレクシスが全てを語らないように、セレネーも言わなかっただけだ。そう思うとほんの少し胸が痛むが、それでも考えは変わらない。
アリアドネはやはり王家の血筋だった。それも、直系の。セレネーとは身分が違いすぎて、姉妹のようになどという言葉が幻のように思える。子供の交わした小さな約束で、実現などするはずもない夢。
それでもセレネーはアリアドネに会いたいと思う。アリアドネがエヴァを残して消えたのは、きっとセレネーのためだ。地下書庫の男たちの話では、アリアドネが消える前の方がセレネーが始末される可能性は高かったのだから。
アレクシスも真実を隠している。二人がそうまでして守ろうとする者、それはセレネーではないか。そう考えるのは思い上がりだろうか。それとも、アリアドネにとってセレネーはただの足手まといで、置いていかれただけだろうか。大切な侍女であるはずのエヴァをセレネーの側に残したままで。
アリアドネの本心はわからない。だからこそ会いたい。会って、目を見て話せばきっとわかる。月の巫女の力が陽の巫女にとって必要なものなら、役に立てるのかも知れない。
『レネ。厄災を鎮めるには月の巫女の力が必要になるわ。月の巫女は、その時のためにいるのよ』
『……私、リアの役に立てる?』
『レネっ! そんな風に考えないで。厄災で力を使う陽の巫女のために、それまで一緒に祈りを捧げて助けて欲しいの。ただそれだけよ』
あの日の言葉が脳裏を過る。ただ一緒に祈るだけ、アリアドネはそう言っていた。けれど、セレネーはその言葉に納得したわけではなかった。今でもそれは変わらない。それにアリアドネは、厄災で力を使う巫女のためと言っていた。厄災の迫る今、そのために必要な何かをしているのではないか。
「おい、いつまで突っ立ってるんだ?」
アンドリオンの言葉にセレネーは肩を跳ねさせ、下げていた視線を戻した。いつの間にか部屋の前に辿り着き、エヴァが扉を開けて立っていた。
「ごめんなさい、ちょっと考え事をしてて」
「神殿長と何を話してたんだ?」
セレネーは首を傾げてアンドリオンを見上げた。ちょっとの間をあけて、思いついたように小さく笑みを浮かべた。
「今すぐには言えないわ」
アンドリオンもアレクシスも、セレネーに待てと言う。それなら、セレネーだって同じことを言ってもいいはずだ。悪戯を思いついたような顔でくすりと笑うセレネーに、アンドリオンは口を開いて唖然とした表情で固まった。
「セレネー様、お部屋でお休みください」
すかさずエヴァがセレネーを部屋へ誘い、口をぽかんと開けたままのアンドリオンを放って扉を閉じた。少しして、アンドリオンが外で何か言っていたが、セレネーはゆったり椅子に腰を下ろした。




