3-4
祭壇を清める巫女の日課を終えたセレネーは、エヴァとともに前室を歩いていた。今はアンドリオンが不在なのだが、きっと地下迷宮へ潜るための準備もあって忙しいのだろう。セレネーにできることは、普段どおり過ごしながら支度が整うのを待つのみだ。
一階の回廊から部屋に戻るため、エヴァの先導で階段を上る。もうすぐ上り切るというところで、前から一人の男が現れた。
『月の巫女の祈りでは、やはり厄災は鎮まらないっ』
顔を見た瞬間、セレネーの頭に祈りの儀式で聞いたその男の声が蘇った。茶色の肩掛け布を纏う男は評議員の一人で、神殿の重鎮である。とは言え、巫女のほうが扱いは上であるため避ける必要はない。
エヴァはそのまま当然のようにセレネーを先導して階段を上りきった。セレネーの耳の奥は、緊張で速まった鼓動の音が煩く響いている。
男は階段の上でセレネーが登り切るのを待っているように見えた。しかし、セレネーが最後の一歩を踏み出した瞬間、その肩に強くぶつかってきた。
「あっ」と小さく声を上げたセレネーは、そのまま最後の段を踏み外した。がくりと身体が傾ぎ、手を伸ばすが手すりには届かない。
「セレネー様っ」
焦ったようにエヴァが手を差し伸べるが、すんでのところで空を切る。セレネーはどうにか前に倒れて手を着くが、数段階段を滑り落ちた。不自然な着地で足首を捻り、顔を歪めて呻き声を上げる。エヴァが珍しく焦ったような表情を浮かべ、セレネーの足元に膝を着いた。足首の様子を確認した後、微かに眉を寄せた。すぐに周囲を見回すが、先程の男の姿は既にない。
「エヴァ、ごめんなさい」
セレネーは眉を下げてエヴァを見上げた。エヴァは表情を消し、セレネーの足首に視線を戻した。
「手当の道具を取りにいって参ります。しばらく、階段下でお待ちください」
差し出された手をおずおずと握り、セレネーは無事な片足で立ち上がった。こんな目立つ場所で座り込んでいては、何を言われるかわからない。先程の男が戻ってきたら、セレネーだけで対処することも無理だろう。素直にエヴァに従い、顔を歪めながらゆっくりと階段を下りた。
エヴァがセレネーを導いたのは、階段下の目立たない空間だ。他から死角になるこの場所は、以前アンドリオンと地下書庫から戻るときに隠れたのと同じところだった。
「エヴァ、面倒をかけてごめんなさい」
「セレネー様に瑕疵はありません。すぐに戻ります」
頷いたセレネーは、エヴァに小さく「ありがとう」と呟いた。
ずきずきと響いてくる痛みに、セレネーは深いため息を吐いた。いつも何をやっても上手くいかない。誰かに助けて貰ってばかりの自分に、心底がっかりする。この場所でアンドリオンを待っていたときも、助けられたあとだった。
足首を軽く擦りながら、座り込んだ背をさらに丸める。このまま小さくなっていっそ消えてしまいたい。けれど、そうなったらアリアドネにはもう会えない。セレネーは後ろ向きな考えを振り払うように、首を左右に振った。
そのとき、階段の上から足音と共に話し声が聞こえてきた。セレネーの心臓がどくりと跳ね、息を殺して様子を窺う。徐々に近付いてくるのは、男の声だ。ところどころ聞こえる単語は、どうやら外国の言葉のようだ。
声の主をそっと覗き見ると、アンドリオンとヴァンだ。予想どおり二人は他所の国からきたようだ。アンドリオンが黒髪に対して忌避感がないのは、やはりそのせいかと納得した。セレネーは小さく息を吐き、声をかけようとして息を呑んだ。
「……メーニャ……」
会話の中から漏れ聞こえた単語。メーニャ――それは、セレネーの唯一知っている隣国語だ。セレネーの脳裏にアリアドネの姿が浮かんだ。
『ストレイア メーニャ』
セレネーの頭を優しく撫でながら、アリアドネが微笑む。
『スト……レ? ……メーニャ?』
『ふふっ。ストレイア メーニャ。可愛らしい月って意味よ』
『つきが、かわいいの?』
目を丸くしたセレネーを見下ろし、アリアドネは笑みを深めた。
『メーニャは月。月はレネ。かわいいレネって言ったのよ』
***
「おい、リオン。聞いてるのか?」
「ん? ああ、聞いてるが」
二階の回廊を、アンドリオンはヴァンと並んで歩いていた。少し前にパトス派の男が通った道を辿っている。距離は空いたが行き先は分かっているから焦りはない。恐らく男は地下書庫へ向かうのだろう。それを裏の通路からヴァンと追いかけるつもりだった。それにしても、こんなところで隣国の言葉を使っては変に思われるかも知れない。
「おい、こっちの国の言葉で話せよ」
「それじゃ、万が一会話を聞かれたらまずいだろ」
「むしろ、外国語を聞かれたほうがまずいんじゃないか?」
ヴァンは肩を竦め、口をへの字に曲げた。
「それよりリオン、さっきから何を考えてたのさ?」
「え?」
アンドリオンは一瞬立ち止まり、宙を見上げた。数日前に見た祈りの儀式が脳裏にちらつく。前に視線を戻すと、もうすぐ階段に差し掛かるところだった。こんな所で立ち止まっていては、流石に大分遅れを取ってしまう。アンドリオンは慌てて足を進めた。
「今何を思い浮かべてたんだ?」
にやりとからかうような笑みを浮かべたヴァンに、アンドリオンは顔を顰めた。
「なんでもない」
階段を下りながら、ヴァンが笑い声を漏らす。
「どうせ、メーニャのことでも考えてたんだろ」
「メーニャ?」
夜空に浮かぶ月を思い浮かべたアンドリオンは、訝しげな顔でヴァンを見つめた。一階に下り、そのまま回廊を真っすぐ進み秘密の通路へ足を進める。
「そう、黒髪の小さくて可愛らしい月だよ」
「ばっ、おまっ」
思わず声を大きくしそうになり、ヴァンが慌ててアンドリオンの口を塞いだ。呻き声を上げたアンドリオンは、ヴァンの手を力づくで引き剥がす。
「エヴァンゲロスっ」
小さいが鋭さを滲ませた声でヴァンの名前を呼んだ。エヴァンゲロスと呼ばれた護衛官は、エヴァの双子の兄だ。この双子は雰囲気こそ違うが、よく見れば面立ちが似ている。無表情なエヴァと軽薄そうに見えるヴァン。この二人の繋がりに気付く者は、そういないだろう。
「リオン、そんなに怒るなって」
両手を挙げたヴァンは、薄い笑いを浮かべて肩を竦めた。アンドリオンは小さく溜息を吐き、ヴァンの横にある壁に手を置き秘密の通路への入口を開いた。
素早く中へ身を隠した二人は、そっと入口を閉じた。二人とも通路を熟知している上に、夜目が利く。蝋燭を付ける必要もない。壁に左手を着きながら進み、迷うこと無く目的地へ向かった。
アンドリオンはヴァンに言われたことを思い返す。脳裏に浮かんだのは、初めて会った日のセレネーだ。
アレクシスの手配で神殿に潜り込み、月の巫女を守ること。それがアンドリオンの目的の一つだ。セレネーについては予め話を聞いていた。正式な顔合わせの前にどんな娘か見てみようと、祭壇の間を覗きに行った。
アリアドネの棺の側では、人々が何かを囁き合っていた。遺体に何かあったのかと焦りを覚え、ゆっくり近付いた。
『いくら陽の巫女様によくしてもらってたからって、そんな不敬は許されないわよっ』
『そうよ、あなたかばってくる人が居なくなって焦ってるの? だからってこんな冒涜見過ごせないわ』
神殿女の喚く声が耳障りで、自然と渋い顔になる。
『だって、これはアリアドネじゃないものっ』
真っ直ぐ響いてきた声に、アンドリオンの心臓がどくりと音を立てた。線は細いがしっかりと立ち、一つにくくった黒髪を揺らしながら声を上げたのは月の巫女だ。
『どうしてよっ! 何で誰もおかしいって言わないの? こんなのアリアドネじゃ』
慌ててその口を塞ぎ、棺から離れた。このまま騒ぎを起こせば、守るどころではなくなってしまう。ゆっくり目立たない柱の陰に引きずっていく。立ち姿の印象よりずっと華奢で軽く、力を込めれば折れてしまいそうだった。
手を離すと素早く振り向き、強い眼差しで見上げてきた。しかし、一瞬目を細めたかと思うとすぐに俯いてしまう。視線を下げたセレネーは、一転頼りなく見えた。
『まったく、とんだ巫女だな』
アンドリオンは先程のセレネーの様子を思い浮かべ、目の前の小さな娘をじっと見つめた。この非力な娘が、祭壇の前で騒ぎを起こすなど未だに信じがたい。しかし、このまま騒がれては守りにくい。せめて大人しくしていてほしいと忠告をすれば、鋭い目つきで見上げてきた。
『あんなところであんなことを言ったら、色々言われるだろ?』
『そんなのいつものことよ。別に何を言われても構わないわ』
祭壇で神殿女に酷い言葉を投げつけられていたが、それはいつものことなのか。アンドリオンはセレネーについて聞いていたことを思い起こす。
曰く、小さく可愛らしい巫女。美しい黒髪で、大人しく素直な娘。アンドリオンが聞いたところでは、か弱く守られるべき頼りない存在という印象だった。ところが実際目の前に現れたのは、小さいながらも強い眼差しの娘だ。聞いていた話と大分違い、アンドリオンは戸惑いを覚えた。
翌日、アレクシスから正式に護衛官として紹介を受け、顔を合わせた。どんな顔をするか楽しみにしていたのだが、また想像とは違っていた。訝しげな表情でこちらを探る様子は、ただの素直な娘とは到底思えなかった。アンドリオンにとってそれは少し面白く思えた。ただ従順な、か弱い娘を守るだけなら楽だったのだろうが、退屈でもあっただろう。ところがセレネーは、自分の予想を裏切ってくる。
アンドリオンもまたセレネーを驚かせたくなり、わざと丁寧な口調で話しかけた。険しい表情だが驚いている様子はない。調子に乗って護衛官の正式な誓いをしてみたら、あっという間に手を引き抜かれてしまった。驚かせるのには成功したが、またしても思っていたのとは違う反応だった。それからセレネーと過ごす時間は、想像していたような退屈な日々とは真逆だった。
少し目を離せばいつの間にか姿を消し、アリアドネの部屋を探っていた。エヴァと二人気付かぬ振りで部屋から離れれば、何食わぬ顔で戻っていた。アリアドネの手紙を落として焦る様は、大胆なのか小心なのかわからない。
一人で地下書庫に侵入するほど肝が座っているのに、危険が迫れば頼りなく震える。アリアドネのことで悩む心は、繊細で真っ直ぐだ。アンドリオンには理解しがたいその苦悩は、年下らしく少しだけあどけない。
無知を恥じてはいるが、卑屈ではない。深く美しい黒髪の、森の小さなリスのようだと思っていた月の巫女。臆病なリスは待っていろと言い含めても、目を離せば瞬く間にかどこかへ消えてしまう。黒く艷やかな羽を持つ蝶のように、ひらりと目の前を掠めてあっという間に。だから、気づけばいつも目で追ってしまうのだ。
アンドリオンの脳裏に、祈りの儀式で見たセレネーの姿が鮮やかに蘇る。四つ下のセレネーは、普段は年相応の娘だ。しかし、儀式となればその印象がまた大きく変わった。
祭壇に向かう足取りは淀みなく、その後ろ姿は静謐で。張り詰めた空気の中で鳴り響いた祈りの鈴は、アンドリオンの耳に今でも木霊する。まるで神の領域に足を踏み入れたかのような、夢現の不思議な感覚だった。
白のチュニックとスミレ色の肩掛け布が可憐に揺れて、華奢なセレネーが大きく見えた。しかし、手の届かない、どこか遠くへいってしまったかのようにも思えた。あの様を見て、月の巫女に力がないと思えることが不思議で仕方ない。
そんなことを考えていると、目の前のヴァンが立ち止まった気配がする。アンドリオンは思考の波から抜け出して、今からすべきことに意識を戻した。
ヴァンが音もなく目の前の壁を少しずらし、明かりの漏れる部屋へ足を進めた。アンドリオンも音を立てずにその後へ続く。この隠し部屋は、セレネーを匿ったところだ。この部屋の先には書庫がある。慎重に奥へ進むと、先程追いかけていた男が部屋の中にいるのが見えた。評議員の一人で、パトス派の人間だ。もう一人もその仲間の男だった。
「例の計画はどうなってる?」
「ああ、順調に進んでる」
「ヴァンとかいう護衛はどうだ?」
「腕はいいな。何も考えてなさそうだから、使い勝手もいい」
ヴァンは自分の名が話題に昇ったことで、口の端を上げて愉快そうな表情を浮かべた。
「パトス派の仲間に引き入れられそうか?」
「まあ、問題ないだろう。面白そうならなんでもやるといった雰囲気だ」
「そうか。アンドリオンとかいう護衛はどうだ?」
アンドリオンは片眉を上げ、ヴァンとは対象的に不愉快そうな表情を浮かべた。
「あいつはだめだろう。神殿長が連れてきた男だ」
「ノモス派についたとみたほうがいいか」
「そうだな」
狙いどおりに進んではいるが、アンドリオンは険しい顔を崩さない。
「実行はいつだ?」
「さっき階段から落としてやった。足を痛めたようだから、あれなら容易いはずだ」
「あまりあからさまに動くなよ」
「月の巫女がどうなろうと、そう騒ぐ者もいないだろう」
アンドリオンは拳を強く握りしめた。その気配に、ヴァンがそっと振り返る。
「いや、神殿長やノモス派の人間がやっかいだ」
「あの腰抜け共に、何ができるわけでもないさ」
「とは言え、邪魔立てされてもうまくない」
「小娘一人ぐらいどうとでもなるだろう」
今にも飛び出したくなる気持ちを抑え、アンドリオンは奥歯を噛み締めた。ここで出ていけば、何もかもが台無しだ。細く息を吐き出し、熱くなりそうな頭をどうにか冷ます。
いつの間にか男たちは出ていき、ヴァンが大きくため息をこぼした。
「リオン、落ち着けって」
ヴァンの言葉に顔を上げたアンドリオンは、頭をがしがしと掻き回した。
「くそっ、あいつらやっぱりまだレネのことを諦めてないのか。しかも、階段から落としただとっ?」
すぐにでも走り出しそうなアンドリオンの胸を、ヴァンが拳で軽く叩いた。
「焦るな。月の巫女にはエヴァがついてる。きっと大丈夫だ」
ヴァンの冷静な様子に、アンドリオンは余計に苛立ちが増す。握りしめた拳が微かに震えるが、焦ったところで起きたことは変わらない。それに、アンドリオンも純粋にセレネーを守るためだけに動いているわけではないのだ。ヴァンの静かな視線に、徐々に落ち着きを取り戻した。
「悪い」
気まずそうな表情で視線を逸らしたアンドリオンに、ヴァンは相好を崩して小さな笑い声を立てた。
「たまにはそんな顔も悪くないぜ」
片手を顎に当てたアンドリオンは、自分が一体どんな顔をしていたのか分からず眉を寄せた。
とにかく、目的を達成するためにもセレネーを守らなければならない。そう自分に言い聞かせながら、胸の奥に正体の分からないざわめきを感じていた。




