3-5
全身を脈打つような心臓の音に、セレネーは息が詰まり胸苦しさを覚える。アンドリオンとヴァンが立ち去ってから、まだあまり時間は経っていない。このままここで待てば、そのうちエヴァが戻って来るだろう。
混乱するセレネーの脳裏に、アンドリオンを満面の笑みで見つめるエヴァの顔が蘇る。アンドリオンにだけ笑顔を見せたエヴァ。王家直系の血筋であるアリアドネ。二人は隣国からきている。ヴァンと共にメーニャについて話し、アリアドネを呼び捨てるアンドリオン。この四人は何か繋がりがあるのだろうか。
考えれば考えるほどわからなくなり、目眩を覚えて額に手を当てた。かと言って、ここでエヴァを待つ気にはもうなれなかった。何を信じればいいのか、誰を信じればいいのか。セレネーは思考がまとまらずに、とにかく誰もいない場所を探して階段下から抜け出した。
ズキンズキンと熱を持ったように響く痛みも、心臓の音に紛れてよくわからない。軽く足を引きずりながら、暗い回廊をアンドリオンたちとは反対の方へ歩き出す。壁に手をつきゆっくり進みながら、額の汗をそっと拭った。口の中がからからに乾き、喉を鳴らすが飲み込めるものは何もない。
しばらく進むと、扉の開いている部屋を見つけた。日替わりで泊まる神殿女が休む部屋だ。今の時間なら誰もくることはないはずだ。セレネーはそのまま部屋の中へ足を踏み入れた。痛む足を引きずり、部屋の中央で座り込む。今まであった様々な出来事が繰り返し浮かんでは消えていく。セレネーは思わず両手で頭を抱えて蹲った。
アリアドネは王家の直系、これはアレクシスにも確認したから確実だ。そのアリアドネと共にきたエヴァは、もちろん縁の者だろう。侍女として仕えているのは、そういう役割を持った血筋なのかも知れない。
アリアドネがセレネーの側にエヴァを残したのは、どういう意味があるのだろう。書庫で聞いたように、陽の巫女が月の巫女の力を得るためにセレネーが必要ならば、地下神殿に連れていかなかったのはなぜだろう。必要になるのは、地下神殿ではないからだろうか。それまでの間監視が必要だから、エヴァを残したのかも知れない。
アンドリオンは、セレネーの見たものが全てだと言っていた。確かにそうだと思ったが、そのアンドリオンを信じていいのかもわからない。アンドリオンとヴァンの会話から漏れ聞こえた隣国語が蘇り、セレネーは振り払うように首を左右に振った。
思い返せばエヴァとアンドリオンは、何となく遠慮がなかったようにも思える。エヴァはどことなくアンドリオンを牽制しているようにも見えた。けれど、笑っていたのも確かだ。元々四人が深く繋がりがあったなら、相反する態度もあり得るのかも知れない。気心が知れているからこそだ。
もしどちらもセレネーを利用したいのなら、アリアドネはすぐにセレネーが必要でないからエヴァを側につけて置いていった。アンドリオンがセレネーを励ましたのは、アリアドネに対する信頼を失わせないためかもしれない。ヴァンがどう関わっているのかはわからないが、きっと同じ目的で動いているのだろう。
そこでふとアレクシスの言葉が脳裏を過る。
『いいか、セレネー。今は全てを詳らかにすることはできん。だが、必ず全てを知る日がくる。それまで、エヴァやアンドリオンから離れず、自分の身を守りなさい』
アレクシスは、エヴァやアンドリオンから離れるなと言った。セレネーの身を守るために。だとするなら、二人の目的はセレネーを守ることのはずだ。アレクシスがセレネーを本当に孫のように想っているのならば、という前提がつくのだが。アレクシスまで疑いだしたらもう何を信じればいいのか本当にわからなくなる。
セレネーはゆっくり深呼吸をして、自分の気持ちを見定めるために、頭の中を整理することにした。考えることが苦手で、既に頭がぱんくしそうだ。それでもここで考えることをやめれば、きっと後悔するだろう。
まず、この神殿で初めて出会ったアレクシスはどうだろう。もしセレネーを利用するつもりなら、もっと優しかったかも知れない。
アリアドネがくるまでは、よく抱きしめ慰めてくれた。少し前に思い出したばかりだが、あの乳香を忘れてはいない。けれど、一番面倒を見てくれたのは名前も忘れた母親のような侍女だった。その侍女が、アレクシスを過度に敬うよう話したことは一度もない。神殿で過ごすセレネーに不都合がないように。それから、子どもの成長に必要なことを教えてくれただけだ。
アレクシスとの時間は、アリアドネがきてからは徐々に減っていった。かといって黒髪を蔑まれたり、アリアドネだけを大切にしたりといったこともなかった。思えばセレネー自身がアリアドネと過ごすことを望んだというのも一因かも知れない。
アリアドネはどうだろう。初めて会ったときから、他にするのとは違う年相応の笑顔で接してくれた。もちろん、黒髪を揶揄することもない。頭を撫で、髪の編み方も教えてくれた。セレネーがアリアドネを慕うように誘導したと言われればそうかも知れない。けれど、本当にそうなのだろうか。
『……私、リアの役に立てる?』
『レネっ! そんな風に考えないで。厄災で力を使う陽の巫女のために、それまで一緒に祈りを捧げて助けて欲しいの。ただそれだけよ』
ただそれだけ――その言葉に不満を感じたのはセレネーの方だ。あのときアリアドネがセレネーを利用するつもりなら、否定しなければよかったのだ。そうすれば、喜んでアリアドネに自らを差し出したのだから。
エヴァは、アリアドネの意思に背くことはないだろう。エヴァ自身がどう思っているのかはわからないが、ソフィアよりよくしてくれている。ただ利用するつもりなら、ソフィアと同じように仕えればいいだけだ。それに、階段から落ちそうなセレネーに手を伸ばしたとき、珍しく焦っていたように見えた。
アンドリオンは――そこまで考えて、胸がキリキリと痛んだ。その刹那、ギシリと背後で扉の軋む音が響いた。はっとして振り返ろうとした瞬間、首に腕が回され声も出せなくなる。呼吸が乱れるが、苦しいのは肺ではない。男の腕を必死に剥がそうともがいても、びくともしない。徐々に視界が狭くなり、頭の芯がぼんやりしてくる。なす術もなく、セレネーはそのまま意識を手放した。
「おい、それで最後か?」
うっすらと意識を取り戻したセレネーの耳に届いたのは、聞き覚えのない男の声だ。
「へえ、これでおしまいです。待たせちまって申し訳ねえ」
その返事とともに、セレネーは何かの上にどさりと身体を落とされた。思わず呻き声を上げるが、視界は暗く身動きもとれない。口に何かを噛まされ、両手足は縛られていた。麻袋に詰め込まれているようで、隙間からチラチラと光が差し込んでいる。
「それにしても随分重そうな袋だな。何が入ってるんだ?」
「ああ、こいつはこの間祭壇に供えた物の残りで。いつもどおり町の貧しいもんにでも分けてやろうかと」
「殊勝な心がけだな」
「いえいえ。まあ、あんまり手間なら途中で始末するかも知れやせんがね」
まだ上手く動けないセレネーはここで助けを求めることができそうにない。ぼんやりする頭を働かせようとしたところで、ガタガタと身体に振動が伝わってきた。どうやら木製の台に載せられ、坂を下り始めたようだ。
ずくずくと痛むのは足首なのか胸の奥なのか。それ以上に頭痛が酷くて気が遠くなりそうだ。岩山を下る振動で不自然に揺らされ、気分も悪くなってきた。額に滲む汗に髪が張り付き、不快さが増す。じんわり浮かんでくる涙を拭うことさえできない。
セレネーは、大人しくエヴァを待たなかった自分の迂闊さを呪いたくなった。考え無しに行動して、事態を悪化させてしまったのはセレネーだ。エヴァやアンドリオンから、離れるなと言われていたのに。書庫で不穏な言葉も聞いていたのに。どこか危機感の薄かった自分の未熟さを、今更後悔してももう遅い。
気分が限界を迎えそうになったところで、台の揺れが収まった。どうやら一番下に着いたようだ。
「おい、わかってるな。いつでも始末できるんだ。騒ぐなよ」
ホッとしたのもつかの間、麻袋の外から先程の男の声が聞こえてきた。セレネーはぐったりとしたまま身じろぎもできない。
「早く馬車に乗せちまおう」
少し離れたところから別の男の声がした。
「ああ。本物の供物はどうした?」
「ちょっと前に別の馬車で運んである」
「よし、ならこっちも運んじまおう」
セレネーは台の上から持ち上げられるが、身体に力が入らずなすがままだ。担がれたときに胃が圧迫され、気分の悪さが再び沸き上がる。そのままどさりと硬い床の上に降ろされ、背中を打ち付け痛みに呻き声をあげた。
「まだ死なれちゃ困るんだ、もう少し丁寧に降ろせよ」
「このくらいじゃ死にやしないだろ」
セレネーは意識を保つために口枷をぎゅっと噛み締めた。このまま何もせず目的地まで運ばれれば、逃げる機会はないだろう。それまでの間に何かできることがあるかもしれない。
ガタゴトと音を立ててラバの引く荷台が動き始めた。不規則に揺れる馬車に、セレネーは気が遠くなりそうになる。男たちが何かを話しているが、セレネーの耳には届かない。
しばらくすると、人々の話し声が聞こえてきた。神殿から何度も見下ろした賑やかな町並みを思い浮かべ、セレネーはここで逃げれば助かるかも知れないと思い始める。そのとき、ぎしりと床の軋む音がして、軽く足で転がされた。
「妙な気を起こすなよ。ここで始末したって俺は別に構わねぇんだ」
セレネーの顔からさっと血の気が引いた。町中の喧騒が一気に遠くなった気がして、目の前が暗くなる。額に張り付いた髪や、じっとり濡れてまとわりつく服がセレネーの身体をより重くする。ぎゅっと閉じた瞼から一筋の涙がこぼれ落ち、セレネーは再び意識を手放した。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。再び目を開けたセレネーは、今度は見知らぬ部屋にいた。薄暗い部屋の木の床に寝転がり、両手足の拘束はそのままだ。麻袋からは、いつの間にか出されていた。小さく呻き声をあげ、起き上がろうとするが中々上手くいかない。まだ気分の悪さは残るが、気を失う前よりはいくらかましになっていた。
身体を起こすのを諦めたセレネーは、そのまま周囲の様子を窺った。部屋の中に埃っぽさはなく、人の出入りがあるように見える。清潔とまでは言い難いが、荒れているわけでもない。周囲からは話し声も、物音すらも聞こえない。一体どこまで運ばれたのか、セレネーには全く予想がつかない。身体に張り付いていた服が冷たく感じられ、思わず身震いした。
今頃神殿はどうなっているのだろうか。セレネーがいなくなったことを、エヴァはもう気付いているだろう。アレクシスにも心配を掛けているだろうか。身を守るようにと言われたのに、こんなことになってしまった。
それに――アンドリオンはどうしているだろう。ヴァンと共に歩いていく後ろ姿が脳裏を掠めた。今でも信じていいのかどうかはわからない。けれど、少なくともこんな風に扱われることはなかったかも知れない。同じ利用されるにしても、アンドリオンのほうがましだったのだろうか。
熱を持った足首が、ズキンズキンと鼓動の音に合わせて痛みを訴える。
セレネーの様子を焦ったように窺うエヴァの顔が浮かんで、じわりと涙が滲んだ。セレネーを見下ろし、からかう様に笑うアンドリオンの姿が脳裏を過ぎって霞んでいく。アレクシスに抱きしめられたときの香りがふっと鼻先に蘇った。アリアドネがセレネーに向ける慈しむような微笑みが瞼の裏に浮かび、暗闇に落ちていく。
疑って離れようとしたのは自分だ。それなのに、もう会えないのかも知れないと思うと内臓を握りつぶされそうな気分に襲われる。
それでもセレネーはどうにか深く息を吐き、ゆっくりと吸い込んだ。まだ本当に終わってしまったわけではない。そう自分に言い聞かせ、口枷をぎゅっと噛み締めた。
そのとき、少し離れたところから床の軋むような音が響いてきた。ぎしぎしと鳴り響く音は、どうやら一人の足音のようだ。床を伝うその音は、徐々にこの部屋へ近付いてくる。心臓が再びどくどくと鳴り響き、きりきりと胃を締め付ける。足音の正体は一体誰なのだろうか。セレネーには予測もつかない。
ゆっくり近づいてきた足音が、扉の前で一度止まった。ゴトゴトと何かを外すような音が響き、額に汗を滲ませる。硬いものを立てかけるような音の後に、扉が軋む音を立てて少しずつ開きはじめた。扉から差し込む蝋燭の炎がゆらめき、部屋をほんのり照らし出す。セレネーは息を詰めて炎に映し出される人物をじっと見つめた。




