4-1
揺らめく炎に照らされたのは、書庫で見た執政官の男だ。セレネーは男の名前も知らない。ただ、儀式でいつも見る顔であることと、執政官を表す青い肩掛け布をしていることでその立場がわかるだけだ。
この男は、祈りの儀式で月の巫女を非難した評議員、つまりセレネーに階段でぶつかってきた男をなだめていた人物だ。地下書庫では、月の巫女は放っておいても問題ないと言っていた。だとするなら、まだ最悪の事態ではないかもしれない。セレネーは額に汗を滲ませながら、男の様子を窺った。
「目が覚めたようだな」
蝋燭を徐ろに近づけられ、セレネーは思わず目を眇めた。ゆらゆらと波打つ炎の向こう側に見える男の顔に、これといった感情は浮かんでいない。男は蝋燭を持ったままセレネーから距離を置き、箱のようなものに腰を降ろした。どうやらこの部屋は、物置のようだ。
「なぜこんな目にあっているのか、さっぱりわからないといったところだろうな」
男は腰掛けたすぐ横の箱に燭台を置き、セレネーに視線を向けた。セレネーは口枷のせいで話すこともままならず、呻き声をあげた。
「ああ、そうか。話すこともできないのだったな」
男はゆっくり立ち上がり、セレネーの方へ近付いてくる。セレネーは男から離れようともがくが、縛られた手足が思うように動かない。
「どうせ逃げられんのだ。大人しくしておいたほうが身のためだぞ」
男はセレネーを起こし、壁に寄りかかるようにして座らせた。
「口枷を取ってやるが、大声を出すなよ。この周辺は何もないから助けを呼んでも無駄だ。だが、女の金切り声は耳障りだ」
セレネーはゴクリと喉を鳴らし、硬い表情で男を見上げた。
「もし大声を上げれば、命はないと思え。いいな?」
肩をびくりと揺らしたセレネーは、小さく震えながら頷いた。男はそれを確認してから、そっと口枷を外した。
「まだ時間には早くてな。暇つぶしに話し相手になってもらおうか」
セレネーは声を出そうとして、喉が張り付き小さく咳き込む。男は少し顔を顰めたが、何も言わずに再び箱に腰掛けた。
「さて、まずは月の巫女様。私が誰かわかるかな?」
セレネーは男をじっと見つめ、少ししてから首を横に振った。
「そうか。お前は本当に何も知らないのだな」
男は憐憫を含んだ眼差しでセレネーを見つめた。腕を組み、ゆっくり口を開く。
「しかし子供でも知っているような国の歴史くらいは分かるだろう?」
「……ええ。国の成り立ちや、数百年前の厄災のことなら」
男は頷き、少し間を置いてから口を開いた。
「お前は、月の巫女がなんであるか知っているか?」
「……厄災の年に必要だということなら知ってるわ」
「では、陽の巫女が受けた神託の意味は?」
セレネーはアリアドネとアレクシスに聞いた神託の意味を思い起こした。
「……厄災の年に受ける神託だと聞いてるわ。特別な月食を表すものだと」
「ふっ」
男は小さく笑い、僅かに顎を上げてセレネーを見下ろした。
「陽の巫女や神殿長がそう言ったのか?」
「……ええ。厄災の年の月食は赤く染まると聞いたわ」
「なるほどな」
セレネーは男の含みを持った返事に、嫌な汗がじっとりと滲む。この男は何を知っているのだろうか。
「神殿に派閥があることはお前でも気付いているだろう?」
「ノモスとパトス、二つの勢力があることくらいなら」
男は再び頷き、ゆっくりと口を開いた。
「神殿長や儀式を執り行う者の多くはノモス派だ。一方我々政に携わる者たちはパトス派がほとんどだ。この二つの主張の違いを知っているか?」
「……よくは、知らないわ」
男は再び笑みを浮かべ、満足げに頷いて見せた。
「ノモスは陽の巫女の力を肯定し、厄災を鎮めるのは陽の巫女であると信じている者たちだ。一方我々パトスは、陽の巫女に頼らずとも厄災を退けることができると考えている」
「陽の巫女を頼らずに……それは、どうやって?」
男は組んでいた腕を解き、一度広げてから膝に手を置いた。揺れた袖が横に置いた蝋燭の炎を煽り、それに合わせて部屋中の影が小さく揺れる。
「まあ、まだ時間はある。まずは順を追って話してやろう」
セレネーは訝しげな顔で男を見上げた。
「お前は、陽の巫女により選ばれた月の巫女だ」
「ええ」
「民の中から選ばれる、大した力も使えない名ばかりの巫女」
セレネーは小さく唇を噛み締めた。確かに月の巫女には陽の巫女のような力は無い。ならば、ここに連れてこられたのはなぜなのか。男が何を語るのか、セレネーは息を詰めて続きを待った。
「数百年前の厄災の折、王家は陽の巫女を残して隣国へ逃げた。それ以来神殿は――この国は、王の分家が治めることになった」
それは、地下書庫で見つけた本にも書いてあったことだ。王家が隣国へ逃れたことまでは民は知らないが。黙り込んだセレネーを男がどう思ったのか、探るような視線を向けてきた。
「その年の厄災をどうやって鎮めたのか、お前は知っているか?」
「方法までは知らないわ」
「厄災は陽の巫女が鎮めたとされているな?」
「そう教えられたわ」
男は薄い笑みを浮かべながら頷き、目を細めた。
「我らパトス派は、陽の巫女の力は必要ではないと考えている。しかし神殿長らノモス派は、陽の巫女の力で鎮めるのだとしている」
「あなたたちは歴史が間違っていると言いたいの?」
「大っぴらに口にする者はないが、そういうことだ。実際陽の巫女に力があるのは確かだからな。だが、我々パトス派の考えはこうだ」
セレネーはごくりと喉を鳴らし、口を閉じて男の言葉を待った。
「まず、陽の巫女が授かった神託の意味だ」
男は少し視線を上げ、遠くを見るようにして口を開いた。
「地が闇夜に浮かぶ月を喰らい、白き身体を紅に染めしとき。暗黒を照らす陽が現れ、地上に救済の光を齎さん。……お前はこれを聞いて何を思い浮かべる?」
セレネーは改めて神託の内容を頭の中で繰り返す。アリアドネもアレクシスも、これは特別な月食のことだと言っていた。ただ月が赤く染まるのだと。けれど、本当はセレネーも違和感を覚えていた。地が闇夜に浮かぶ月を喰らうとは、厄災によって月の巫女に何かあるということだろうか。白き身体を紅に染めるとは、月が血を流すかのようだ。暗黒が厄災なのだとすれば、それを照らすのは陽の巫女であるアリアドネだろう。そう考えれば。
「厄災の訪れで月の巫女の命が失われ……それと共に陽の巫女が地上を救う、とも取れるわね」
男は片側の口の端を上げ、目を細めた。
「そうだ。恐らくノモスの者たちも、陽の巫女がお前の命と共に力を奪うのだと考えている」
セレネーは神託の話を聞いたときのアレクシスを思い起こす。ほんの少し答えに間があった気がしていた。だからきっと、アリアドネもアレクシスも本当のことは言っていないのだろうと思っていた。けれど、命を奪うとまで考えていたのだろうか。
「我らパトス派も、その点は同じだ。そう考えれば陽の巫女が死んだのは好都合だった」
「ア、アリアドネは生きてるわっ」
そう、アリアドネは生きている。ここでセレネーが死んでしまえば本当に会えなくなってしまう。もう一度アリアドネに会って、なぜ死を装ったのか聞かなければならない。
「……お前は、祭壇の間で陽の巫女の遺体を目の前にしても同じことを言っていたな」
セレネーにしてみれば当然だ。あれは、アリアドネではなかったのだから。そもそもなぜ誰もがアレクシスの言うことを信じたのだろうか。この男も――なぜ。
「そうか、お前は知らんのだな」
男はセレネーを見下ろし、口の端を上げて嘲笑うように言った。
「神殿長と陽の巫女の纏う肩掛け布は特別なものだ」
「特別?」
「そうだ。あの肩掛け布は血の契約が施されている。神が、国の祖の血を引く王の資格を持つ者と、陽の巫女だけが身につけられるよう特別に与えたものだ。身につけている間はその力が制御され、身体の負担を軽減させる。しかし、資格のないものが身につければ負担になる。つまり、その血を引く者しか身につけることは叶わん。」
セレネーは眉を寄せて俯いた。もしかしたら、セレネーが普段肩掛け布を身につけることを許されなかったのは、そのせいなのだろうか。色は薄いが、同じ紫の布だ。
「もし、死んでからなら? 死体に着せるならできるわ」
「くくくっ。まあ、お前がそう考えても仕方ないな。だが、それも不可能だ。あれは不思議と身につけるべき者以外を拒絶する。仮に死体であっても、資格がなければあっという間に消し炭になっているはずだ」
その言葉にセレネーはぶるりと体を震わせた。では、あれは本当にアリアドネだったのだろうか。
「それに、あのように見事な白金色の髪を持つ者など他にはいない」
そうだ――髪だ。セレネーはアリアドネの髪を思い出す。やはりあれはアリアドネではない。髪の編み方が違うとしっかり確認したのだから。ならば、あの遺体は一体誰だったのだろう。王家の血を引く誰かなのだろうか。
髪を編んだときのことを思い浮かべながら、セレネーはふとあることを思いつく。アリアドネとエヴァは隣国からきている。ならば、エヴァは一体何者なのだろうか。隣国に逃げたとされる王家の直系がアリアドネなら、侍女として仕えるエヴァは一体。もしかしたら、あの遺体はエヴァだったのでは。
何度も編んだエヴァの髪を思い起こす。さらさらと指の間を流れる艷やかな髪は、日に当たると淡い茶色だった。白金色ではなかったが、アリアドネの力があれば誤魔化すことができたかも知れない。アリアドネの祈りが持つ力は特別だ。それくらいのことは容易いのでは。
「なんにせよ、我らの進むべき道は変わらない」
「一体何をするつもり?」
セレネーは訝しげな顔で男を見上げた。
「我らの目的は、巫女からの――王家からの脱却だ。そもそも厄災が起こると言われるのは、陽の巫女や王家の企みだと考えている」
「厄災が、企み?」
「そうだ」
男はどこか遠くを見るような表情で続きを語り始めた。
「数百年前の混乱は、我らパトス派の起源となる思想によってもたらされた。厄災とはなにか、陽の巫女の役割とは。大体、なぜ陽の巫女は直系からしか産まれないのか」
「直系からしか、産まれない? 神託で選ばれてるはずじゃ……」
「そうだ。これも一部の者しか知らないことだが。陽の巫女は神託により選ばれているが、必ず直系の者が指名される。信託を受けるのが陽の巫女だけで、次代も必ず直系のみ。これをおかしいとは思わないか?」
セレネーは視線を下げて少しの間考える。アリアドネがたまたま直系なのかも知れないと思ったが、全ての陽の巫女がそうだったとは。けれど、神の使いたる建国の祖の力を受け継いでいるのなら、直系だけが特別な力を授かっていたとしても不思議はないように思える。その考えは間違っているのだろうか。
「全ての神託が嘘であるとは考えていない。だが、陽の巫女が老い、次代が必要になればそう神託を受けたと言えば済む話だ。しかし長く続けば我々のように疑問を持つ者が現れる。だからこそ、厄災を起こすのだ」
「厄災を起こす? 陽の巫女がわざわざそんなことをしてるって言うの?」
「我々パトス派の起源はその考えからきている。とは言え、陽の巫女に特別な力があるのも本当のことだ。祈りの力は確かにあるのだろう」
「だったらっ」
「だが、本当の厄災であったなら、それを鎮めるほどの力があるとは思えない。だからこそ、月の巫女を選ぶのだろう」
セレネーはそこに月の巫女がどう関わるのか分からず、怪訝な顔で男を見上げる。
「前回の厄災で、月の巫女がどうなったか知っているか?」
「いいえ」
「その行方はどこにも記されていない。それはつまり、厄災が去るとともに月の巫女も去ったということだ」
セレネーは眉を寄せて男を見上げた。
「我らパトス派の考えでは、恐らく厄災を鎮めたのは月の巫女だ」
男の言葉に思わず目を見開いたセレネーは、一瞬後に眉を寄せた。
「……私にそんな力はないわ」
この男も書庫で言っていた。月の巫女に大した力はないのだと。
「そう……確かにそのとおりなのだが。我らの中でも意見は割れていたのだ。陽の巫女が月の巫女を殺して力を奪ったのだと考える者と、そうではない者で」
男は少しの間を置いてから再び口を開いた。
「その中にも二つの意見があった。一つは、陽の巫女が月の巫女の力を使って厄災を装い、更に鎮めたように見せていた。もう一方はまた違ったものだ」
「違うものって?」
男は頷き笑みを深めた。
「どうせだから試してみようと思っているのだ。何が本当なのか、やってみればわかる。既に陽の巫女はいないのだから」
「……試すって、何を?」
男は小さく笑い声を立て、セレネーを見下ろした。その目は冷たく鋭さを増す。
「月の巫女を生贄にして、厄災を鎮められるかどうかをだ」
セレネーは一瞬何を言われのか分からず、身体を固くした。背中を伝う冷たい汗に、思わず小さく身震いする。
「い、生贄?」
「そうだ。我らは、陽の巫女が月の巫女の力を利用しているのだと考えた。だから、陽の巫女に力を奪われる前にお前を始末するつもりだった。だが、陽の巫女が死に、その必要がなくなったかに思われた。しかし、それをきっかけにもう一度神託や歴史を振り返ったのだ。一部の者は元より主張していた。厄災を鎮めるために必要なのは陽の巫女ではない、月の巫女の命だと。それを試すのは理にかなっている」
部屋に入ってきた男を見たとき、助かるかもしれないと思ったのは甘かった。セレネーは、微かに見えたほんの小さな光が消えたような気がして、目の前が真っ暗になる。やはりもうアリアドネやアレクシス、エヴァには会えないのかもしれない。そして、アンドリオンにも。
「我らの目的は、王家からの脱却だ。それには陽の巫女も、陽の巫女に選ばれた月の巫女も不要なのだ」
締め付けられる手足の枷が更にきつくなったように感じる。少しの間遠のいていた足首の痛みも、ズキンズキンと脈打ち始めた。じっとりと汗の滲む手のひらを握りしめ、セレネーは絶望しそうな気持ちを奮い立たせる。ここで諦めれば本当に終わってしまう。先程から頭にちらつく会いたい人の顔を思い浮かべ、硬く唇を噛み締めた。




