1-4
眠りの浅い夜を過ごしたセレネーは、寝台の上でぐるりと身体の向きを変えた。そのとき違和感を覚えて、思わず顔を顰める。
どうにも頭の辺りが硬くて寝心地が悪い。よく眠れなかったのはこれのせいかと枕の下に手を伸ばし、指先で触れた慣れない感触に動きを止めた。そまま辿った先に現れたざらつく手触りに、はっとして飛び起きる。
結局他に隠せる場所もなく、もう一人のリアの手紙は枕の下に置いたままだ。今日こそどこかに隠さなければと考えるが、やはりいい場所は思いつかない。
ソフィアのような侍女なら誤魔化せそうだが、エヴァは一筋縄ではいきそにもない。さて、どうしようかと考えているうちに扉を叩く音がする。「どうぞ」と声をかければ、挨拶と共に入ってきたのはやはりエヴァだ。
「お早うございます。洗面の準備が整っております」
「お早う。ありがとう、エヴァ」
手際よく支度を整えるエヴァを見つめながら、ふと昨日のやり取りを思い返す。
「ねえ、エヴァ」
「はい」
「今日から私付きの侍女は、エヴァ一人なの?」
「……」
答えないということは、まだはっきり決まったわけではないのだろうか。もしエヴァ一人であれば、むしろ今のセレネーには好都合だ。いくら優秀なエヴァであっても、一人で全てをこなすには時間がかかる。仕事の合間にセレネーから離れることも多いだろう。
「アレクシス様はなんて?」
「しばらくは保留とのことです」
「決まるまではエヴァだけなのよね?」
「仰せの通りです」
セレネーは一瞬綻びそうになった口元をきゅっと引き締め、神妙に頷いた。
「それじゃあ大変だと思うから、ずっとここにいる必要はないわ」
エヴァは無言でセレネーを見つめた。心の奥底まで見透かされそうな視線に、セレネーの背筋がひやりとする。
「今までソフィアもそうだったし、エヴァも無理しないでね」
その言葉にエヴァは軽く眉を動かした。何か気に触ったのだろうかと、セレネーは小さく身体を揺らす。
「おかしなことを言ったかしら?」
「……いいえ」
なんとなく不穏な空気を感じるが、その理由を聞くのも躊躇われた。常にアリアドネの側に居たエヴァからすると、その役目を否定されて不愉快だったのかも知れない。それともそこまで忙しいとは考えていなかったから、不満に思ったのだろうか。
セレネーが居心地悪く視線を彷徨わせていると、エヴァが着替えを手にセレネーの前に立つ。
「お召し物をお持ちしました」
「ありがとう。そこに置いておいて」
セレネーが書き物机の椅子を指し示すと、エヴァの眉が再びぴくりと動いた。
「あの、何かいけなかった?」
「……ソフィアはいつもそのように?」
「そうよ」
今度はエヴァが薄く笑みを浮かべたように見えたが、一瞬のことで見間違えたのかも知れない。何となく居心地悪くなったセレネーは、そわそわと身体を動かした。
「お召し替えを致しましょう」
「祈りの日でもないのにエヴァがするの?」
「巫女様のお召し替えの手伝いは、侍女の仕事です」
セレネーはその言葉に目を瞠った。特別な装束や装飾品を身につけ、髪を結う必要のある祈りの日などは手伝いがあった。しかし、普段の質素な装束でそれが必要だと思ったことはない。
「あの、いつも自分でしてたから落ち着かないわ」
「……」
「リアはいつもエヴァがお手伝いしてたの?」
「はい」
「それは、陽の巫女の装束が私とは違うからじゃなくて?」
「侍女の仕事だからです」
セレネーは少し俯き考え込んだ。近くにいて、お互い何でも知っていると思っていた。しかし、案外こんな小さなことすら知らなかったのだ。何でも話しているようでいて、実際は少しずつずれていたのだろうか。だからアリアドネが消えたことも、自分には何も知らされなかったのかも知れない。
アリアドネがいなくなっても変わらず冷静なエヴァの態度に、セレネーは胸の奥が重くなる。エヴァはきっとアリアドネがいなくなった理由を聞いている。でもセレネーは、何も知らない。胸の奥に靄のようなものが少しずつ溜まっていく気がして、小さく顔を歪めた。
「今日はお一人でなさいますか?」
セレネーの様子を不機嫌と受け取ったのか、エヴァが淡々と聞いてくる。セレネーは気まずさに視線を泳がせるが、思い直して返事をした。
「そうね。慣れるまでは一人でしてもいい?」
「はい、かしこまりました」
着替えをセレネーの横にそっと置いたエヴァは、そのまま踵を返して部屋を出ていった。
エヴァの居ない間にどこかへ手紙を隠さなければと思い、手早く着替えを済ませる。パピルスの束を抱えてうろうろと落ち着き無く部屋を歩き回るが、やはりどこに隠してもエヴァには見つかってしまいそうだ。ならば、一度アリアドネの部屋に戻したほうがいいのかも知れない。思いつくなり、手紙を抱えたままそっと部屋の扉を押し開けた。
「何をしてるんだ?」
突然上から降ってきた声に、セレネーは思わず飛び跳ねた。その拍子に緩んだ腕から、持っていたパピルスの束が音を立てて足元に散らばった。さっと顔から血の気が引き、回廊を転がる手紙の行方をただじっと見つめる。これが何かと聞かれたら、どう答えればいいのか分からない。
「どうした、拾わないのか?」
首を傾げて見下ろしていたアンドリオンは、セレネーが動き出す前に手紙を手早く拾い集めた。青褪めた顔のセレネーは、飛び出しそうになる心臓の音を聞きながら、呆然とその様子を眺めていた。
「おい、大丈夫か?」
顔を覗き込まれたセレネーは、思わず一歩後退った。何と答えるべきかわからず、口を開けたり閉めたりを繰り返すばかりだ。アンドリオンはセレネーを見下ろし、ふっと頬を緩ませた。
「祭壇での勢いが嘘みたいだな」
思わずといった様子で呟いたアンドリオンに、セレネーの顔がかっと熱くなる。
「か、返してっ」
拾って貰っておいてこの言い草はないと思うが、羞恥を誤魔化したくてついそんな言葉が飛び出した。アンドリオンは一瞬目を見開くが、笑いを噛み殺しながら集めた手紙を差し出した。
「ほら」
「あ、ありがとう」
消え入りそうな声で礼を返すが、じわりと涙が滲んでくる。アリアドネやエヴァのように大人になれず、幼い自分に嫌気が差した。
「それで……それを持ってどこへ行くつもりだったんだ?」
「……」
ぎくりと身体を揺らし、何も言えずに下を向いた。エヴァに見つからなければ大丈夫だと思っていたが、アンドリオンの存在をすっかり忘れていた。陽の巫女の私物を持ち出したと知れたら、どうなるだろう。こんなことなら、エヴァに見つかった方がまだマシだったかも知れない。
「誰にも見られたくないものなのか?」
手紙の束を抱きかかえたまま黙り込んだセレネーに、アンドリオンは顎に手を当てて唸り声をあげた。すぐに一つ頷き、剣を吊するのと反対側のベルトに手を伸ばす。セレネーはその様子をそっと窺い、首を傾げた。
「ほら、これで包んでおけばいい」
アンドリオンが腰
のポーチから取り出したのは、程よい大きさの麻布だ。セレネーは目を瞬き、布とアンドリオンを見比べた。
「こういうもので包んでおけば、エヴァだっていきなり中を暴いたりはしないだろ。見られたくないものはそんな風にしておけば、普通は勝手に開けられたりしないもんだ」
セレネーは目を皿のようにしてアンドリオンを見上げた。幼い頃から神殿に居たので、そういった常識をセレネーは知らない。神殿内でのしきたりや、巫女としての振る舞いは教えられた。
アリアドネにとってのエヴァのように、しっかりした侍女が仕えていた訳でもない。ましてや親に何かを教わったこともない。機会があればアリアドネは教えてくれたかも知れないが、今まで見られて困る物を持ったことすらなかったのだ。
「ありがとう」
おずおずと手を伸ばし、麻布を受け取った。ちらりと見上げると、アンドリオンはなんでもないことのような顔をしている。神殿内でもあまり親切を受けたことのないセレネーは、何となく居心地悪くなった。
麻布を手にくるりと踵を返し、再び部屋の中へ舞い戻った。静かに扉の閉まる音が耳に届き、小さく息を吐く。
清潔な麻布のざらりとした手触りとは逆に、胸の奥に柔らかなものが掠めた。無意識にかすかな笑みを浮かべ、手紙の束をそっと布で包み込む。しっかり結んでから少し考えて、書き物机の引き出しに仕舞った。
本来ならそこに仕舞えばエヴァが勝手に開けることもないのだが、セレネーはそんなことすら思いついていない。ソフィアと違うエヴァの様子に、部屋中の隅から隅までを暴かれそうで、初めての隠し事に落ち着かなかったのだ。
手紙を仕舞ったことで平静を取り戻したセレネーは、蝋燭を一本手にして部屋の扉へ向かった。今日はもう一度アリアドネの部屋を探るつもりだ。前回の反省を踏まえて、今度はしっかり蝋燭を用意した。前に見ることの出来なかった場所も、きっと調べることができる。
取っ手に手を伸ばそうとして、ふとアンドリオンの姿が頭に浮かんだ。扉の向こうにはあの護衛官が立っている。いくら親切にして貰ったとは言え、流石にアリアドネの部屋を探ると言ったら止められそうだ。どうしたものかと逡巡するが、迷っている間にエヴァが戻ってきてしまうかも知れない。セレネーは思い切って扉を押し開けた。
すぐに声を掛けられるかと思ったが、そこにアンドリオンの姿は無かった。安堵するとともに少しだけ落ち込みもする。やはり月の巫女の護衛など、あまり重要視されていないのかも知れない。そう思ったところで、回廊の向こうからアンドリオンの声が聞こえた。曲がり角の向こう側で、互いに姿は見えない。
話の内容までは分からないが、この部屋に来るにはあちらの回廊かアリアドネの部屋からしか道はない。アンドリオンはセレネーの部屋の護衛をやめたのではなく、誰かと話すのに扉の前から離れたのだろう。ならばこの隙に行ってしまおうと、足音を立てないように気をつけながらアリアドネの部屋へ向かった。
ようやく扉の前に辿り着き、ひやりとする取っ手に手を掛けた。とくとくと速くなる鼓動に、小さく息を整える。意を決して扉を引こうとした刹那。
「陽の巫女の部屋になにか用か?」
跳ね上がった心臓が飛び出すのではないかと思い、セレネーは思わずぎゅっと胸元を掴んだ。同時に声の方へ顔を向けると、案の定アンドリオンが少し離れた場所に立っていた。
「……あ、あの、これは……」
アンドリオンはゆっくりと近付きながら、腕を組んで嘆息した。その呆れたような様子に、セレネーは俯き唇を引き結んだ。
「月の巫女様は、大胆なのか臆病なのか……全く、仕方のない人だな」
その口調は予想していたのとは違い、なんだか少し面白がっているような響きを含んでいた。セレネーは目をぱちぱちと瞬き、ゆっくり顔を上げた。
「祭壇で陽の巫女が偽物だと言っていたからな。何か探してるのか?」
「……わからない」
「わからないって?」
セレネーは居心地悪くなり、視線を彷徨わせながら口を開く。
「何かあるかも知れないと思って。だから、探してみたいと思ったの」
先程までは親切だったアンドリオンも、さすがに自分を見放すかも知れない。そう思うが、見つかってしまったからにはもう隠し通せないだろう。胸の奥にずしりと重石がのしかかり、胃の辺りをぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
「なるほどな。じゃあ、入ってみるか」
「え?」
ぱっと顔を上げると、アンドリオンの顔に軽蔑の色は見えない。ぱちぱちと目を瞬いていると、アンドリオンが呆れたように口を開いた。
「探してみたいんだろ?」
「え、ええ。でも、いいの?」
アンドリオンは口をへの字に曲げて肩を竦めた。
「止めたところで見つからないようにまた来るんだろ? それなら一緒に居たほうが護衛の役目を果たせるからな」
「……そう」
ほっとするとともに、役目という言葉に少しだけ残念な気分になる。自分を心配してくれるのは、今までアリアドネとアレクシスだけだった。アンドリオンももしかしたらと、無意識に期待してしまったことが恥ずかしくなる。得体の知れない護衛を簡単に信用しそうになるなんて、なんて単純なのだろう。
気を引き締めて扉の取っ手を握り、今度はゆっくり引き開けた。前回と変わらぬアリアドネの香りに包まれ、そっと息を吸い込む。しかし、今日は余韻に浸る暇はない。アンドリオンも居るからだ。一人ではない心強さと同時に、落ち着かない心持ちになった。数歩中に進むと、アンドリオンが後ろで扉をそっと閉める音が響いた。
部屋の中が薄暗くなり、セレネーは持ってきた蝋燭に火を灯そうとしてはたと気付く。蝋燭は持ったが、火打ち石も火口箱もない。今日も諦めるしかないのかと思ったところで、何かを打ち合わせる音が響いた。
振り返ると、火口箱に火打ち石で火を灯すアンドリオンの姿が小さな炎に照らされていた。視線が合い、慌てて蝋燭を火種に翳した。
「準備が良いな」
火口箱も持っていないセレネーに、アンドリオンは感心したように言った。
「……あなたが居なければ、灯せなかったわ」
アンドリオンは小さく首を傾げた。
「火口箱を持ってこなかったから」
アンドリオンが小さく笑うが、蝋燭の炎ではその表情をしっかり確認することは出来ない。
「昼間に蝋燭を使おうなんてそう思わないからな。夜なら他の火を貰えばいいから、そう思い付かないだろう」
セレネーにはそれが慰めの言葉なのか、事実なのかはわからない。それでも、目に映る蝋燭の炎がほんのり暖かさを増したような気がした。




