1-3
エヴァは黙ってセレネーを見つめている。揺るぎない視線にセレネーのほうが怯みそうになるが、腹にぐっと力を入れた。
「棺の中のアリアドネは、偽物よね?」
エヴァはセレネーを真っ直ぐ見つめるが、何も答えない。
「どうして黙ってるの? まさか、エヴァはあれがアリアドネだと思ってるわけじゃないわよね」
「……神殿長様もお認めになったとおりです」
「エヴァはどう思うか聞きたいのよ」
「神殿長様の仰せのとおりです」
セレネーは眉を寄せ、小さく唇を噛んだ。
「もし、本当にあれをアリアドネだと思っているなら、どうしてエヴァはそんなに普通にしていられるの?」
「……」
エヴァは無表情のまま、微動だにしない。
「アリアドネは……リアは、私を信用してなかったのかしら」
ぽつりと零れ落ちたセレネーの弱気な言葉に、エヴァの肩が微かに揺れた。
「ねえ、リアにとって私は、やっぱりどうでもいい存在だったの?」
「アリアドネ様は、セレネー様を大切に思っています」
「今も?」
「……何があろうと永遠に」
核心に触れることができそうでいて、上手くはぐらかされてしまう。アリアドネより歳下ではあるが、エヴァはセレネーより二つ年上のよくできた侍女だ。言葉の端から何かを探ろうとしても無駄なのかも知れない。
セレネーは、無力で未熟な自分に小さくため息を吐いた。
「エヴァが何も答える気がないのはわかったわ。でも、リアのことをいつでも最優先で考えるあなたが、ここを去らずに私の侍女になった。きっとそれにも意味がある。そう思ってもいいのよね?」
「……」
エヴァは相変わらず何も答えないが、否定もしない。静かな目でセレネーを見つめるばかりだ。アリアドネに問われれば、どんなことでもすぐに答える彼女だ。セレネーを軽んじることは決してないが、アリアドネにするほどの献身があるわけでもない。
セレネーはどうせ聞いても無駄ならば、一人になってアリアドネのことを調べたいと考え始めた。
「エヴァ、疲れたから顔を洗いたいの。水を持ってきてくれる?」
「承知しました」
部屋を出ていくエヴァを見送り、そわそわと落ち着かなく部屋を歩き回る。少し時間を置いたら部屋を出よう、そう考えているとすぐに扉を叩く音が響いた。思わずびくりと身体を揺らし、少し上ずった声で返事をした。
「失礼します」
たらいを手に戻ってきたエヴァにセレネーは目を見開いた。あまりにも速すぎて、時間を置く暇もなかった。
「随分早かったのね」
「ソフィアがこれを」
たらいを掲げるエヴァにセレネーは小さく頷いた。ソフィアは今朝の支度を手伝ってくれた月の巫女の侍女だ。特に親切というわけでもないが、エリスやリュディアのようにセレネーを蔑むわけでもない。ごく事務的ではあるが、巫女付きの侍女としての役割は果たしている。
「ありがとう」
セレネーは零したくなる溜息をこらえ、たらいの水で顔を洗った。布で濡れた顔と手を拭きながら考えを巡らせた。アンドリオンが来るまでに、どうにかエヴァを遠ざけなければと焦る気持ちが募っていく。
エヴァはセレネーの使い終えた布とたらいを手に再び扉を出ていく。扉が閉まりかけたところでソフィアがエヴァを呼ぶ声が耳に届いた。セレネーは何か合ったのだろうかと、エヴァが閉じたばかりの扉を再び開いた。
「ねえエヴァ、お願いよ」
「……」
無表情のエヴァにソフィアが何かを頼んでいる。顔を出したセレネーに気づいて、ソフィアは少し気まずそうに俯いた。
「どうしたの?」
「なんでもありません」
平坦に答えるエヴァに、ソフィアは眉を下げて口を開いたり閉じたりしている。
「ソフィア、何か困りごと?」
「いえ、なにもございません」
目を伏せたソフィアにセレネーは再び問いかけた。
「私のことなら気にしなくていいわ。エヴァに用があるなら一緒に行ってきて」
セレネーの前では口数の少ないソフィアは、侍女同士では違うようだ。先程からエヴァに気安く接する態度は、セレネーの胸をほんの少しざわつかせた。
「エヴァ、ソフィアの頼みを聞いてあげて。私は部屋で大人しく待ってるから」
「……」
「セレネー様、ありがとうございます」
無言のエヴァに構わず、ソフィアはこれ幸いとエヴァの腕を取り立ち去った。
この機を逃せば、次がいつくるかわからない。セレネーは逸る気持ちを抑え、ゆっくり自室の扉を開いた。回廊を左右に見回すが、誰かが来る気配もない。物音を立てぬように部屋を抜け出し、慎重に扉を閉じた。そのまま奥へ足を進め、アリアドネの部屋の前に立つ。
ごくりと喉を鳴らし、震える手でそっと扉の取手を握る。心臓がどくどくと鳴り響き、思わずぎゅっと目を閉じたまま思い切って扉を引き開けた。
開いた扉からふわりと部屋の主の香りが漂う。数日会っていないだけなのに酷く懐かしいそれは、セレネーの身体を優しく包み込んだ。じわりと涙が滲みそうになり慌てて目を擦る。
一歩足を踏み入れると、窓の締め切られた部屋は薄暗い。いつでも美しく華やかな笑顔を浮かべてセレネーを迎えてくれたアリアドネの姿はなく、思わず小さく身震いした。
入り口の扉を閉めると、窓から漏れる光だけでは心許なく、蝋燭を持ってこなかった準備の悪さに肩を落とした。主不在の部屋の窓を開けるわけにもいかず、そのまま視界の悪い部屋の中をぐるりと見回した。
ふと目に留まったのは書き物机だ。引き出しに手を添え、しばらくの間逡巡した。勝手に開けることに罪悪感が湧くが、真相を知りたいという欲がほんの少し上回る。早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように大きく呼吸をしてから、そっと引き出しを開けた。
中にあったのは、セレネーも見覚えるのある手紙の束だ。筒状に紐で括られた幾つものパピルスが保管されていた。この手紙の送り主は、もう一人のリアだろうか。それが一体誰なのか、詳しいことはセレネーも知らない。ただ、アリアドネが大切そうにしていたこと以外は。
セレネーは唇を引き結び、手紙の束に手を伸ばした。手にした束を眺めながら、ふとアリアドネのことを思い出す。
『リア、何かいいことでもあったの?』
『ええ、レネ。今日はもう一人のリアから手紙が来たのよ』
いつもより幾分明るい笑顔のアリアドネに、セレネーの胸がほんの少し重くなった。セレネーをレネと呼ぶのは、アリアドネだけだ。けれど、その特別な響きをもたらす声は、セレネーだけのものではない。
『随分嬉しそうね』
『どうかしら。……ただ、とても大切な人だから』
レネは私の親友、そんな風に言ってくれたアリアドネの口から紡がれる言葉に、ぎゅっと胃の辺りが掴まれたような心持ちになった。
『今も隣国にいるの?』
『そうよ。私の家族と共にある人よ』
『そう。じゃあ、長い間会えなくて寂しいわね』
アリアドネはぱちぱちと目を瞬かせた後に、蕾の花が綻んだかのような笑みを浮かべた。
『いいえ。私はレネに会えたから、寂しくないわ』
セレネーは目を皿のようにしてアリアドネを見つめた。先程までの胸の重さも、胃の不快感も、そのたった一言で気の所為であったかのように消え失せた。
『リア、ありがとう。私もリアに会えたから、寂しくないわ』
『ふふ。ずっと姉妹のように、ここで共に暮らしていきましょう』
セレネーは深く頷き、頬を染めた。
それ以来、アリアドネが嬉しそうに手紙を見ていても、それほど気にならなくなった。全く気にしていないと言えば嘘になるが、もう一人のリアが居るのは遠い隣国だ。手紙だけのやりとりより、きっと自分のほうがアリアドネに近いはず。そんな風に思っていた。
セレネーは手紙の束をぎゅっと抱きしめ、引き出しを静かに押し戻した。他に何かないか残りの引き出しも確かめてみたが、特段何も出て来ない。セレネーの部屋より倍の広さがあるので、今日だけで全てを調べるのは無理だろう。
別の場所を探そうと、隣室の寝台に近付いたところで、セレネーの部屋の扉を叩く音が響いた。思わずびくりと肩を揺らす。その拍子に手紙の束が、セレネーの腕の中から寝台に滑り落ちた。
「セレネー様、失礼します」
耳に届いたのはエヴァの声だ。扉を開く音と共に、もう一人の男の声が響いてきた。
「失礼しますよ」
エリスやリュディアに対するより随分砕けた口調に、セレネーは微かに眉を寄せた。
「……」
「あれ、居ないじゃないか。どうなってるんだ、エヴァ」
セレネーは今の状況をふと思い出し、はっと息を呑んだ。心臓が思い出したかのように早鐘を打ち、隣室の音がやけに大きく耳に響く。エヴァとアンドリオンが部屋の中を歩いているような音が聞こえ、息を殺して様子を伺った。
「探しにいったほうがいいか?」
「……行きましょう」
二人の足音が部屋の外へ向かい、扉を閉じる音がする。そのまま回廊を遠ざっていくが、セレネーは煩い心臓の音に耐えながら息を詰めていた。ようやく何も聞こえなくなってしばらくしてから、肩の力を抜いて大きく息を吐いた。
「危なかった」
勝手に陽の巫女の部屋を漁っていたと知られれば、何を言われるかわからない。エヴァはもしかしたら見逃してくれるかもしれないが、アンドリオンはどうだろう。
月の巫女も重要なのだと言っていたが、本心なのかも分からない。月の巫女という役割を認めていても、セレネーを認めているとは限らない。何にしても、用心するに越したことはないのだ。
寝台に散らばってしまった手紙の束を慌ててかき集め、セレネーは息を潜めて部屋の出口へ向かう。これ以上ここにいては見つかってしまうかも知れない。また改めて探しに来ようと心に決めて、アリアドネの部屋を後にした。
自室に戻ったセレネーは、まだ落ち着かずにうろうろと視線を彷徨わせていた。リアの手紙を持ち出したものの、どこに隠せばいいのか分からない。いつもながら要領の悪い自分に消沈する。
物の少ないセレネーの部屋では、エヴァに見つからないように何かを隠すことはとても難しい。どうしよかと思っている内に、扉を叩く音が響いた。思わず飛び上がり、音のした方をじっと見つめる。
「セレネー様、エヴァです」
掌に冷や汗が滲み、セレネーは思わず「えっと、あのっ」と裏返った声で返した。慌てて手に持った手紙を枕の下に押し込み、「ど、どうぞ」と不自然な声で返事をした。
「……失礼します」
セレネーは意味もなく薄い笑みを浮かべるが、エヴァは特に気にした様子もなくセレネーの部屋に足を踏み入れた。その後ろから、ちらりと部屋の様子を覗き込むアンドリオンが見える。なんとなく居心地悪くなり、思わず眉を顰めた。
「流石に俺は巫女様の部屋に立ち入ったりしないから、そんな怖い顔で睨むなって」
両手を挙げておどけるように肩を竦めたアンドリオンに、セレネーは目を瞬いた。
「それともお招きに預かれるのかな?」
茶化すように軽口を叩くアンドリオンに、セレネーは何も言えずにぽかんと口を開いた。その時何かがさっと横を通り過ぎたかと思うと、音もなく扉が閉じられた。扉の前にいるのはエヴァだ。アンドリオンが外で「おいっ」と不満の声を上げるが、エヴァは涼しい顔で振り返る。そのまま何事もなかったかのように歩き出し、寝台のある部屋の奥へと足を進めた。
一瞬呆気に取られていたセレネーは、はっとしてエヴァと寝台の間に割り込んだ。
「エ、エヴァ。きょ、今日は寝台はこのままでいいわ」
「……」
無言で見つめられ、セレネーはごくりと喉を鳴らした。
「では、お召し物の確認を」
「あ、ありがとう、お願いします」
セレネーは自然を装いながらゆっくり寝台に腰を下ろした。枕の下を見ないようにと意識すればするほど、視線が不自然に泳ぐ。
アリアドネの部屋と違い、寝室と応接室が別れているわけではない。同じ部屋にエヴァがいる限り、手紙をどこかへ隠すこともままならず、夜の訪れが待ち遠しい。そんな日に限ってなかなか時間が過ぎてくれない。
「あ、あの」
衣装の整理を終えたエヴァが振り向いたところに、少し上ずった声で呼びかけた。エヴァは相変わらず感情の読めない目で、セレネーをじっと見つめる。
「ソフィアの用事は何だったの?」
「大したことではありません」
「……私には言いづらいこと?」
エヴァは黙ったまま微動だにしない。
「もしかして……月の巫女の世話はしたくないって言ってた?」
「……」
セレネーは、いつも最低限は礼儀正しく自分の世話をするソフィアを思い浮かべ、苦い笑みを浮かべた。陽の巫女ですら侍女は一人だったのだ。エヴァが付けば、自分は不要だとソフィアが主張するのも納得できる。
「エヴァ、私は慣れてるから大丈夫よ。ソフィアはいつもちゃんとしてくれてた。でも、陽の巫女付きじゃないことに不満があったのも分かってたから」
「不敬なことです」
セレネーはエヴァの言葉に目を瞬かせた。
そもそも陽の巫女は、その時の陽の巫女が次代を神託により指名する。神託を受けることが出来るのは、陽の巫女ただひとりだ。だから神殿長と同等――否、それ以上に尊い存在として扱われる。
一方月の巫女は、数百年に一度民の中から選ばれるのだ。それも陽の巫女の神託によるもので、どんな役割があるのかよくは分からない。先代の記録は失われており、誰も知らない。
「リアに、月の巫女もちゃんと扱うようにって言われたから?」
「いいえ」
間髪入れずに答えるエヴァに、セレネーは首を傾げた。
「じゃあ、どうして?」
「……生まれたときから、月の巫女様も尊いお方と教えられました」
エヴァは、アリアドネと共に隣国から来た侍女だ。なぜ陽の巫女が隣国から選ばれるのかはわからない。先代の陽の巫女も、隣国からきたらしい。白金の美しい髪を持つアリアドネと、同じくこの国ではほとんどいない薄茶髪のエヴァ。神託で選ばれた特別な者だと、誰も疑うことはない。
アリアドネには忠実でも、セレネーに全てを教えてくれるわけではない侍女をじっと見つめる。拙い自分が頑張ってみたところで、エヴァから欲しい情報を引き出すことはきっと無理だろう。
セレネーはこぼれそうになる溜息を押し殺し、目の前の侍女から視線を逸らした。




