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窓の隙間から漏れ出す光を、セレネーはぼんやりと眺めた。あまり良く眠れなかったせいか、身体に重石が乗っているかのようだ。のろのろと上半身を起こして軽く頭を振ると、浮遊感でふらりとバランスを崩した。思わず寝台の横にある木の壁に手を着き、その奥を見透かすようにじっと見つめる。
アリアドネが神殿に来たばかりの頃、セレネーは少しだけほっとした。幼い頃から神殿にいたセレネーにとって、周りの大人たちは遠い存在だった。落ち着かずに眠れぬ夜を何度も過ごし、それが当たり前になっていた。
そんな寂しさを抱えたある日の夜に、アリアドネの部屋と接するこの壁から、こつこつと音が響いてきた。恐る恐る同じように叩き返すと、違うリズムでまた返事が来た。胸の奥がじんわりと暖かくなり、合図を何度も繰り返した。
眠れぬ夜はそうしてアリアドネと慰めあった。なのに、今は小さく叩いてみても何も返ってこない。昨夜も何度か試したが、やはり何の気配も感じられなかった。セレネーは隣に繋がる壁をそっと撫で、胸元をきつく握りしめた。
しばらくして昨夜と同じ侍女、ソフィアが持ってきた洗面用のたらいで顔を洗い、身支度を整える。朝餉を終えたら棺の見送りだ。
陽の巫女の葬儀は、一度見たことがあった。先代の陽の巫女が亡くなったときだ。一晩祭壇に祀られて返納を終えた遺体は、神殿のある岩山から降ろされる。少し離れた場所にある墓地へ埋葬するためだ。
祈祷や儀式の指示をする祭官と祈女、記録係の典官と典女、棺を護衛する護衛官が幾人か付き添うことになっている。神殿長と巫女は滅多に神殿から出ることはないので、見送るだけになっていた。その他に残るのは、巫女や神殿長の身の周りの世話をする侍女と神官、それらと神殿を守る護衛官。そして、雑用をこなす神殿女などの神殿衆だ。
セレネーは、神殿内が手薄な内にアリアドネの偽物についての手がかりを探るつもりだ。居なくなってしまったことは事実だが、あれはアリアドネではなかった。ならば、本物はどこかに居るはずだ。
薄く陽の光が差し込む窓をそっと押し開けると、眼下にはアリアドネのために集まる人々の姿が広がっていた。これほどの人を騙し、神をも謀るような所業にセレネーはすっと背筋が寒くなる。誰が仕組んだことなのかはわからないが、発覚すれば恐ろしいことになるだろう。脳裏にアリアドネの大輪の花のような笑顔が思い浮かび、セレネーの胸が重く沈んだ。
「セレネー様、お時間です」
ソフィアに声を掛けられ、耽っていた物思いから現実に引き戻された。先程から儀式用の装飾品と薄紫の肩掛け布を着けられ、棺を見送る準備をしていたところだ。
ソフィアに差し出された手に自分のそれを重ね、ゆっくりと回廊から祭壇の前室へと移動する。今朝は巫女の装飾をして髪も結っているので、いつもはうるさく絡んでくる神殿女も大人しい。民の目もある中で、一応は巫女であるセレネーを軽く扱えば、自分たちが不利なのだと理解しているからだ。
祭壇のある部屋から運び出された棺を見下ろし、なんとも複雑な気分になる。この中で身代わりとなった遺体は、アリアドネとして葬られるのだ。どこの誰とも知らないが、気の毒なことだと思った。
しばらくするとざわめいていた民たちが静まり返り、現れた人物に注目した。セレネーは自分を追い越し、斜め前に静かに佇む神殿長アレクシスに視線を向けた。
上質な絹のチュニックに、アリアドネと同じ深い紫の肩掛け布。布の縁には精緻な文様が、胸のあたりには紋章が銀糸で刺繍されている。
人々は誰もが畏敬の念を込めて、その姿を見つめた。セレネーと棺だけの時には見られなかった光景だ。
神の声を聞く陽の巫女や、神殿長に敬意を示すのは当然のことだ。しかし、返納を終えた陽の巫女の遺体や、月の巫女にはそうした扱いをする必要がない。
傅かれたいわけではないが、神殿長と陽の巫女がどれほど特別であるのか。静まり返る人々を前に、自分との違いを目の当たりにして小さく拳を震わせる。返納を終えた陽の巫女が自分と同等の扱いになるということにも、ほんの少し胸の奥が疼いた。
アレクシスは一歩前に出て、高齢であることも忘れるほどに通りのいい声で祈りの言葉を紡ぐ。集まった者たちは軽く俯き、その声に耳を傾けた。神殿長の祈りの言葉が終わると、皆が俯いた顔を少し上向けた。
「我々の偉大なる陽の巫女アリアドネは、神のみもとへ旅立った。静かなる眠りが永遠に続き、我々を導いてくれることを願おう」
あちこちからすすり泣く声が聞こえ、セレネーは居心地が悪くなり身を竦ませた。祭官の指示で、台に固定された棺を神殿衆が慎重に担ぎ上げた。硬く閉ざされた棺は二度と開くこともなく、このまま墓地へと運ばれるのだ。
もう人違いなのだと言っても、肝心の遺体を見ることは二度と叶わない。セレネーはゆっくり進み始めた葬列を見送りながら、硬く唇を引き結んだ。
「涙の一つもこぼさないなんて、陽の巫女様も報われないわね」
「そうよね。あんなによくしてもらった癖に、恩知らずだわ」
すれ違いざまにセレネーにしか聞こえない声で囁くのは、昨日と同じ神殿女のエリスとリュディアだ。こんなことはいつものことだ。それに、あれはアリアドネではないのだから、セレネーが泣くはずもない。
「セレネー、話があるから身支度が済んだら儂の部屋へ来なさい」
アレクシスの声に、セレネーは小さく首を傾げるがすぐに頷いた。
一旦部屋に戻り、肩掛け布と巫女の装飾品を外す。それをソフィアに渡し、アレクシスの部屋へと向かった。
神殿長の部屋は、アリアドネの部屋とちょうど反対の向かいにある。セレネーは日の差し込む回廊を、アリアドネの部屋とは逆の方へ向かって、コの字の回廊へ歩き出した。
アレクシスの部屋の広さはアリアドネのものより少し狭いが、セレネーよりは大分広い。アレクシスの部屋に隣接する世話係の神官の部屋のほうが、セレネーの部屋より幾分広いくらいだ。
神官の部屋を通り過ぎ、アレクシスの部屋の扉の前に着くと、セレネーは小さく息を吐いた。部屋の扉を控えめに叩くと、中からアレクシスの声が響く。
「失礼します」
ゆっくり扉を開くと、正面に座る神殿長の両隣に二人の人影が見えた。開け放たれた窓からの眩い日差しに目を細め、その人影をじっと見つめる。明るさに慣れてきたセレネーは、見覚えのある顔に目を見開いた。
「こちらに来なさい」
アレクシスに促され、セレネーは怪訝な表情を浮かべて足を進めた。
「エヴァは、今日からセレネーの侍女になる」
「え?」
「……セレネー様、本日よりお仕えさせていただきます」
セレネーは眉を顰めてアレクシスとエヴァを交互に見つめた。
「でも、アリアドネはっ」
「それから、こちらはアンドリオンだ」
アレクシスはセレネーの言い掛けた言葉を遮り、もう一人の男を指し示した。
「アンドリオンと申します。本日より月の巫女様専属の護衛官となりました。力の限りお守り致します」
セレネーは益々険しい顔をして、その男を見つめた。アンドリオンと名乗る目の前の男は、昨日セレネーの口を塞いだ護衛官だ。
「アレクシス様、侍女はもうソフィアがいます。それに、なぜ私に護衛が必要なんですか? 月の巫女にはそのようなものは」
「セレネー。アリアドネがあのようなことになったのだ。お前もいつその身に危険が迫るかわからない」
「いいえ、私のような者にそんな扱いは不要ですっ」
セレネーはいつになく必死にアレクシスに食い下がる。これからアリアドネのことを調べようと思っているのに、新たな侍女や護衛が付いては思うように動けない。
「セレネー、よく聞きなさい。周りの者がどう言おうと、お前が特別な血筋ではなく民から選ばれた巫女であろうと、儂にとってはたった一人の孫のようなものだ」
その言葉にセレネーはぐっと息を詰まらせる。
「アリアドネのこともある。お前に何も無いとは言い切れん。爺の我儘だと思って、どうか聞き入れておくれ」
柔らかな眼差しを向けてくるアレクシスに、セレネーは何も言えなくなる。本心からセレネーを孫のように思っているかはわからない。それでもこの神殿の中で一番の味方は、もはやアレクシスしかいない。今までもセレネーの不利になるようなことをしたことは一度もないのだから。
「……わかりました、アレクシス様」
セレネーの返事を聞いたアンドリオンが、一歩前に出て手を差し出した。戸惑いつつもそっと手を重ねると、硬い感触とは真逆に柔らかく握り返される。
そのまま片膝をついたアンドリオンは、セレネーの指先をそっと額に押し当てた。巫女に忠誠を誓う護衛官の挨拶をされ、セレネーは慌てて手を引いた。
「えっ、あの、そこまでする必要は」
「なぜですか? あなたは月の巫女でしょう?」
「月の巫女だからです。陽の巫女でもないのにこんなこと」
アンドリオンは立ち上がり、小さく肩を竦めた。
「昨日も言いましたが、陽の巫女はもちろんのこと、月の巫女も大切な巫女ですよ」
昨日と打って変わって丁重な態度に、セレネーはもしかしたら夢だったのかもしれないと思っていた。しかし今の言葉で、やはり口を塞いできた男と同じなのだと改めて実感する。
「あの、アレクシス様。一つ伺ってもよろしいですか?」
「何を聞きたいのだ」
「アレクシス様はなぜ、あれがアリアドネだとお認めになったのですか?」
アレクシスは表情を崩さず、セレネーの目をじっと見つめる。
「あれがアリアドネだったからだという以外に理由はない」
「顔の布の下は改めたのですか?」
「……酷い傷で、顔ははっきりとは判らなかった」
セレネーは棺の中の人を思い出し、小さく息を呑んだ。
「でも、あれはアリアドネではありません」
「神殿長である私がアリアドネだと認めたのだ。他に幾人もの者たちが確認している。それ以外の答えはない」
「そんなっ」
「話はそれだけだ。いいか、セレネー。アリアドネのことは忘れなさい。お前がこれ以上騒ぐとあまりよくない結果を招くかもしれん」
セレネーは何か言いたげな視線を投げかけるが、アレクシスはそれ以上口を開くつもりはなさそうだ。握った拳に力がこもり、小さく震える。
「……わかりました。失礼します、アレクシス様」
アレクシスが小さく頷くのを認めてから、セレネーは踵を返した。アンドリオンとエヴァは、アレクシスに小さく頷いてから後に続いた。
回廊に出たセレネーは、これからどうしたものかと頭を悩ませる。一人でアリアドネの部屋を調べようと思っていたのだが、エヴァとアンドリオンが付いてくるのでそれも難しい。まさかエヴァが自分の侍女になるとは、と考えたところではっとしてエヴァを振り返った。
「エヴァ、あなたに聞きたいことがあったの。部屋に来てくれる?」
「……はい」
「おいおい、君専属の侍女なんだから嫌でも付いてくるだろ?」
からかうような口調のアンドリオンに、セレネーは目を瞠る。さっきまでの礼儀正しさは一体なんだったのか。
「あなたは、別に付いてこなくていいわ」
「そうはいかないだろ。神殿長直々の命令なんだから」
意地悪そうな笑みを浮かべたアンドリオンは、やはり光に当たると淡い茶色がアリアドネの髪と重なって見える。思わす目を細めて眺めてから、はっとして下を向いた。
「私に護衛は要らないわ。今までもいなかったし」
「これからは必要だから俺がいるんだろ?」
本当にそうなのだろうか。セレネーは、自分が何から守られる必要があるのか全くわからない。なんと答えていいのかわからず俯いていると、後ろからばかにしたような声が響いてきた。
「月の巫女のお守りなんて、ついてないわね」
振り向いた先にいたのは、先ほどセレネーに嫌味を言った神殿女のエリスだ。隣のリュディアは、いつもよりしおらしい顔をして並んでいる。どちらも地味なセレネーとは違い、濃茶の髪色をした華やかな美人だ。
アンドリオンとエヴァが素早くセレネーの前に出て、庇うように視線を遮った。セレネーは初めての扱いに戸惑い、視線をうろうろと彷徨わせた。
「ねえ、あなた新しい護衛官よね?」
いつもより高いリュディアの声に、セレネーは背筋がぞくりと寒くなる。思わず身震いして軽く両腕で身体を抱きしめた。
「何か御用ですか?」
突然丁寧に応じ始めたアンドリオンに、セレネーは怪訝な表情を浮かべて視線を上げた。
「ふふっ、私はリュディアでこっちは」
「私はエリスよっ!」
遮るようなエリスの声も、いつもより随分上ずっている。セレネーは小さく溜息を零し、どうにかここを通り抜けられないかとエヴァの肩越しに前を窺う。
「自己紹介はまた今度聞きますよ。仕事がありますので我々はこれで」
「仕事って、月の巫女の護衛でしょう?」
「そんなの別に必要ないんじゃないかしら」
くすくすと意地悪く笑う二人に、セレネーは構うことなく先に進もうと心に決めた。一歩足を踏み出すと、エヴァがちらりと振り向き、視線で頷く。
いつの間にか腕を取られて絡まれているアンドリオンを横目に、エヴァはセレネーを先導して三人の横を通り抜けた。追い抜きざまに「おい」とアンドリオンが声をあげたが、エヴァは涼しい顔だ。
セレネーは少しだけ後ろめたさを感じてそっと後ろを振り向いた。二人に囲まれたアンドリオンもさほど嫌そうには見えない。セレネーはモヤモヤとしたものを感じたが、一先ずアンドリオンを引き剥がすことができてちょうどよかったと思うことにした。
自室に戻ったセレネーは、徐ろにエヴァを振り返る。
「エヴァ、聞きたいことがあるの」
相変わらず無表情な彼女は、感情のこもらない視線をセレネーに向けている。セレネーはエヴァをじっと見つめながら、どうやって彼女の口を開かせようかと考えを巡らせた。この高い壁を崩せばきっと、アリアドネの真実がわかるはずだ。セレネーは無意識にごくりと喉を鳴らした。




