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顔の判らない死体が見つかった。誰もがそれをアリアドネだという。でも私は信じない。だってアリアドネは――。
「セレネー、邪魔よっ」
後ろから押されたことで一歩踏み出したセレネーは、意識を祭壇の棺に戻した。普通なら祭壇に棺を置くなどあり得ないが、陽の巫女だけは特別だ。
神託を受け特別な力を持つ陽の巫女は、死を迎えるとその全てを神に返納するからだ。しかしあの中に安置されているのは、皆がアリアドネだという別人のものだ。
「あなた、巫女とはいえ名ばかりの役立たずなんだから、さっさと出ていきなさいよ!」
周りの人間にも聞こえるほどの声でセレネーを詰るのは、神殿で雑務を行う神殿女だ。陽の巫女アリアドネと対を成す月の巫女であるはずのセレネーは、その役割の曖昧さや出自のせいで日頃から軽んじられていた。
セレネーはいつもの扱いに何を感じるでもなく、棺から目を離さずゆっくりと足を進めた。絶対にアリアドネではない、そう思うのに膝が震えそうになり唇を噛みしめる。
ようやくたどり着きそっと中を覗き込むと、綺麗に編み込まれていたであろう透けるような美しい白金の髪は、幾分乱れていた。顔は布で巻かれ、その下を見ることは叶わない。
普段着ている上質なリネンのチュニックに、陽の巫女を表す金の腰紐。紫の肩掛け布にいつもと変わらぬ装飾品。それらがゆらゆらと揺れる蝋燭の光に、淡く照らし出される。
この顔の見えない誰かをなぜ皆がアリアドネだと言うのか。セレネーは身を乗り出すように、じっくりと棺の中を覗き込んだ。嗅いだことのない香りが鼻を掠めたような気がして、微かに眉を寄せる。
「違う」
周囲の人間がその小さな声に訝しげな顔をした。セレネーはそれを気にせず更に遺体を検分する。乾いた口を潤すように、ゴクリと喉を鳴らした。明るい日差しの下ではないから、髪の色も確実に判別することは叶わないのだが。
「違うわ」
今度はその声をはっきりと聞いた者たちが、咎めるような視線を向けてくる。しかし、セレネーはそれを気に留めることもない。
「これは、アリアドネじゃない」
軽んじられているとはいえ、月の巫女という立場だ。そのセレネーの発した言葉に、棺の側に立つ者たちが眉を顰める。棺の向かい側、セレネーの正面にいる神殿長が口を開きかけるが、その前に先程の神殿女が声を上げた。
「ちょっとセレネー、あんた何を言い出すのよっ! いくら陽の巫女アリアドネ様によくしてもらってたからって、そんな不敬は許されないわよっ」
「そうよ、あなたかばってくる人が居なくなって焦ってるの? だからってこんな冒涜見過ごせないわ!」
もう一人の神殿女も加勢し、周囲も徐々にざわめき始める。それでもセレネーは棺の中から目を離さずに、はっきりとした口調で言い放った。
「だって、これはアリアドネじゃないものっ」
先程より大きくなった声音に、少し離れた場所の者たちも異変に気付いて騒ぎ始めた。セレネーを見ながらこそこそと耳打ちする者たちもいるが、それは今に始まったことではない。
「どうしてよっ! 何で誰もおかしいって言わないの? こんなのアリアドネじゃ」
ない、と言い掛けたところでぐいっと口を塞がれ、強い力で後ろに引き寄せられた。言葉を発することができなくなったセレネーは、そのまま引かれた力に抗えずに祭壇の前から後ろ向きに遠ざかる。それでも鋭い視線で棺を真っ直ぐ見つめていた。
セレネーは「離してっ!」と声を上げるが、塞がれた口からは意味をなさない呻き声しか響かない。力の強さや手の大きさからして、相手は男だろう。非力なセレネーがいくら抵抗しても無駄だと思われた。悔しさに唇を引き結ぶが、相手に従って足を進めた。
アリアドネの棺から少し離れた柱の影に移動したところで、耳元に男の声が響いた。
「おい、手を離すが叫んだりするなよ?」
セレネーは一瞬迷うが、すぐに頷いた。セレネーが引きずられる様は、神殿長も見ていたはずだ。制止もせず見過ごしたということは、恐らくこの男はおかしな人間ではないのだろう。
「よし、じゃあ離すぞ」
言葉と共に手の力が緩み、セレネーはすぐに距離を取って振り返った。
柱の松明の光に照らされ目の前に立つのは、見たことのない男だ。セレネーより四つ上で、今年二十一になるアリアドネと同じ年頃のようだ。端正な顔立ちに薄茶の髪がサラリと揺れる。色は違うのに、なぜかアリアドネの美しい白金の髪を彷彿とさせた。陽の光に当たったわけでもないのに、淡く輝いているかのようだ。セレネーはふと自分の黒い髪を思い浮かべ、思わず目を伏せた。
「まったく、とんだ巫女だな」
セレネーはその言葉に拳を握りしめた。そんな風に言われるのは慣れていたが、初対面の者にまで言われてしまうとは。普段会うことのない、見目のいい男に言われたことで余計に心がざわついた。
「まあ、言ってしまったことは取り消せないから仕方ないが。今後はあんなことを大勢の前で言うなよ」
セレネーは顔を上げ、上目遣いで背の高い男を睨みつけた。
「どうしてそんなことを知らない人間に言われなきゃいけないの?」
セレネーを見下ろした男は一瞬目を瞠り、小さく溜め息を吐いた。
「あんなところであんなことを言ったら、陽の巫女を侮辱してるとか、色々言われるだろ?」
「そんなのいつものことよ。別に何を言われても構わないわ」
男は一瞬息を呑み、ぶつぶつと「どういうことだ」とか、「話が違う」などと呟いている。首の後ろを掻きながら呻き声を上げた男は、呆れたような目でセレネーを見下ろした。
「月の巫女ともあろう者が、軽んじられることに慣れてるなんて嘆かわしいな。これ以上あることないこと言われて、わざわざ自分の価値を落とすこともないだろ」
セレネーは握った拳を震わせて、小さく唇を噛む。
「ああ、参ったな。言い方が悪かったか。ここの奴らはあまり分かってないみたいだが……月の巫女も陽の巫女も、大切な巫女であることに変わりはない。だから、みすみす自分から弱味を掴ませるようなことをする必要はないってことだ」
そう言って肩を竦めた男に、セレネーは目を丸くする。この神殿でセレネーにこんな言葉を掛けるのは、アリアドネと神殿長くらいなものだ。てっきり嫌味を言われたと思っていたのに、意外すぎる言葉に何も返すことができない。
「とにかく、陽の巫女が偽物だとか、そんなことをあんなところで叫ぶなよ」
「……ええ、そうするわ」
セレネーは小さく頷き、男を見つめた。よく見れば、その服装は神殿の護衛官のものだ。この男は新しい護衛なのだろうか。こんな風にセレネーに接する護衛官など、今までいなかった。
しかし、新たな護衛など必要なのだろうか。アリアドネが死んだと思われているなら尚更だ。不思議に思って不躾に見つめていると、男が気まずそうに声を上げた。
「じゃあ、また後で」
「え?」
どういう意味か聞く暇もなく、男は素早く踵を返して立ち去った。その後ろ姿を見送りながら、セレネーは少しの間考え込む。
あの男はなぜセレネーを助けたのだろう。確かにいつも向けられる冷たい視線に慣れすぎて、不用意なことを言ってしまったかも知れない。神殿長が口を開きかけたのも、セレネーを制止するためだったように思う。あのままセレネーが声を上げ続ければ、きっとあまり良い結果は生まなかっただろう。元々軽んじられているのだから、どんな扱いを受けるかわからない。
それに、エヴァの姿が見えないのも気になっていた。彼女はアリアドネの侍女で、常に行動を共にしていた。彼女ならあれがアリアドネではないと気付くはずだ。
セレネーはすぐに、祭壇の間から前室へ足を向けた。蝋燭や松明の明かりで薄暗かった場所から出たことで、その眩しさに一瞬目を眇める。明るいと思っていた空は、既に夕日色に染まっていた。
茜色の空を見つめて、セレネーはしばらく立ち尽くした。アリアドネの死を悼み神殿を目指してきた民たちは、セレネーの様子を怪訝そうに窺う。
巫女服を着ていても、人々に月の巫女だと気付かれることもない。一見簡素なチュニックで、よく見れば月の巫女を表す銀の腰紐を巻いているだけだ。陽の巫女とは違い、月の巫女は祈りの儀式以外で巫女らしい装飾もないのだから当然だ。それだけでなく、セレネーの黒髪は民の間では珍しくない色合いだ。アリアドネのような珍しい白金の髪は目立つが、セレネーのそれはごく普通の、神殿に席を置くにはありきたりすぎる色合いなのだ。
セレネーは、そのまま人の間を縫って、回廊の二階へ足を進めた。
今まで居た石壁に囲まれた暗い部屋と違い、こちらは明かり取りの窓から差し込む夕日に照らされ、いつもと変わらぬ様相を呈している。
一階には窓がないため薄暗いが、二階の回廊は外側に張り出した部屋より高くそびえる壁に、採光用の窓が設けられていた。手の届かないその窓に視線を向けたセレネーは、赤く染まる白い壁に背中がゾクリと寒くなる。閉ざされることのない窓から入り込む空気が、なぜか重く感じられた。
セレネーは自分の部屋を通り越し、最奥にあるアリアドネの部屋の前で足を止めた。アリアドネは居ないだろうが、エヴァは居るかも知れない。いや、もしかしたらアリアドネも本当は居るのかも知れない。ゴクリと喉を鳴らし、微かに震える拳でそっと扉を叩いた。
静まり返った回廊に、小さく硬い音が鳴り響く。いつもならすぐに顔を見せるアリアドネは、やはり出てくる様子もない。部屋の中から僅かな気配も感じることができず、セレネーは深い溜息を吐いた。勝手に扉を開くのも気が引けて、そのまま隣の自室に戻ることにした。
薄暗い部屋に入り、木製の窓を開けた。陽の傾いた外を見下ろすと、民が神殿から町へ戻っていくのが目に入る。日没が近くなり、岩山の上にある神殿からの道が見えなくなる前に移動しているのだ。登るのも一苦労だが、降りるのも楽ではない。それでも特別な日には、民はこの神殿へ登ってくる。今日はアリアドネの死が伝えられ、昼から沢山の人がやってきたのだ。
もし見つかったのがアリアドネではなくセレネーだったら。――きっとこんな風に人々は集まらなかっただろう。セレネーは小さくなっていく黒い塊を見つめながら、そっと自分の髪を撫でた。
どれくらいの時間外を眺めていたのだろうか。いつの間にかすっかり日は落ち、空には星が瞬いていた。セレネーは少し冷えた身体を小さく震わせた。窓をそっと閉めたところで、控えめに扉を叩く音が耳に届く。
「はい」
セレネーの返事を待って、扉がゆっくり開かれた。燭台を乗せた盆を持ち、入ってきたのは栗色の髪をした侍女だ。月の巫女付きではあるが、普段からアリアドネのように丁重に扱われたことはない。
「夕餉をお持ちしました」
「ありがとう。そこにお願い」
いつもはアリアドネと共に食べることが多く、エヴァが隣の部屋に移動してくれていた。それも今日から無くなったのだと思うと、胸がずきりと痛む。結局エヴァを見つけることもできず、棺の中身が本当にアリアドネだと思うのか問うこともできなかった。
そっと出ていく侍女を見送り一人静かな食事を摂りながら、明日はどうしようかと考えを巡らせた。
***
神殿中が寝静まった夜中。祭壇の部屋に、カタリと僅かな音が響く。護衛は気付かず外からの侵入者を警戒している。
薄暗い祭壇のすぐ近くにある床の一部がそっと外され、人ひとり潜り抜けられる穴が現れた。すぐに棺が音もなく開き、中からアリアドネであるはずの遺体が這い出した。そっと棺を閉じた遺体は、誰にも気付かれることなく先程の穴の中へと姿を消す。穴は再び小さな音を立てて元の床へと姿を変えた。
「おい、エヴァンゲリア。月の巫女様に見破られそうだったな」
「……うるさい」
暗い地下の抜け道を歩きながら、エヴァンゲリア――アリアドネの侍女であるエヴァと、どこか似たような顔立ちの男が、薄く笑みを浮かべて肩を竦めた。
「大丈夫なのか?」
「セレネー様が気付くのは想定内。アリアドネ様も分かってた」
「なんだ……まあ、それもそうか」
「当たり前」
エヴァは忌々しそうに顔の布を取り除き、兄であるエヴァンゲロスを見上げた。
「アリアドネ様がセレネー様のために仕組んだこと。急ごしらえでも抜かりない」
「なるほどなぁ。でもあと二日、いやせめて一日待ってくれれば、こんな手の込んだことしなくても済んだのに」
「いつ来るかちゃんと知らせなかったそっちが悪い」
少しだけ不機嫌そうなエヴァに、エヴァンゲロスはさして反省した風でもなく、軽く肩をすくめた。
「秘薬はしっかり抜けたのか?」
「大丈夫。見ての通りちゃんと歩ける」
エヴァは編み込まれた髪を雑に解き、装飾品を外していく。
「そうか。分かってても気分の良いもんじゃないな、一時的とは言え死ぬってのは」
「死んでない。仮死」
エヴァンゲロスは呆れたような表情でエヴァを見下ろした。
「同じようなもんだろ。何かあったらちゃんと知らせろよ」
「……わかってる」
「あとは髪色だな。すぐに元に戻せるのか?」
エヴァは小さく頷き、服の隠しポケットから小瓶を取り出し親指と人差指で挟み込む。そのまま無言でエヴァンゲロスの顔の前にすっと差し出した。
「アリアドネ様のお墨付きか?」
「そう。秘薬と同じ、アリアドネ様の加護付き」
「なら安心だ」
暗い地下の通路の一角で、二人は同時に足を止めた。
「上手くやれよ」
「わかってる」
エヴァはそのまま上に登る階段へゆっくりと踏み出した。
「気をつけろよ」
返事をすることもなく、先ほどとは違う木の板をゆっくりと押し開けたエヴァは、神殿の居住区へと戻っていった。
朝には中身を改めることなく棺は硬く閉ざされる。その中に陽の巫女が居ないことに気付く者は居ない――一部の人間を除いて。




