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日もすっかり落ち、人々は立ったり敷物の上に座り込んだりしながら宴を楽しんでいる。アリアドネとアンドリオンは、高位の者たちに囲まれていた。そこには復活した王家の面々や、数日で辿り着ける周辺の町や村の統治者、隣国からの客人も含まれていた。
隣国の客人は、王家の者たちと厄災に合わせてヘリオニアに向かっていた。もしパトス派の企みが成功していた場合は、隣国の力を借りて復権するつもりだったようだ。そうなる前にパトス派は捕らえられ、見事にアリアドネが厄災を鎮めた。隣国に大きな借りを作ることなく収まったのは、不幸中の幸いと言えるだろう。
一度セレネーの方へきていたアレクシスも、今はその輪の中に溶け込んでいる。しばらくは戻りそうもなく、セレネーは隅の方にある朽ちかけた柱に寄りかかって皆の様子を眺めていた。
そこに一組の男女が近付いてくる。よく見れば、アリアドネの両親だ。セレネーは顔を強張らせ、寄りかかっていた柱から身体を離した。
「初めまして、月の巫女。私は陽の巫女アリアドネの父で、こちらは妻だ」
「お初にお目にかかります。セレネーと申します」
アリアドネの父が気まずそうな表情を浮かべ、小さく呻き声を上げた。アリアドネの母がちらりと夫に視線を向けてから、一歩前に出てセレネーを見つめた。
「あなたはもう分かっていると思うけれど。アリドネやアンドリオンとあなたは歩む道を違えました。あの二人の邪魔になるようなことがあってはなりません」
セレネーは小さく唇を噛み締めた後、すぐに淡い笑みを浮かべた。
「心得ております。私は民より選ばれし月の巫女の役目を終えた、只人です。ただの人はそれらしく、相応しい場所へ参ります」
アリアドネの父は眉を下げ、何かを言いかけるが妻に遮られる。
「物分かりのいい娘で助かります。今宵は思う存分楽しまれるがよろしい」
セレネーの返事を待つまでもなく、アリアドネの母は踵を返した。父親は何かを言いたげな様子ではあったが、結局何も言わずに妻の後に続いた。二人はそのまま王家の輪に辿り着き、一度セレネーの方を振り向いた。その後は何事もなかったかのように輪の中へ紛れていった。
セレネーがほっと息を吐いたとき、目の前に盃が差し出された。口が広く浅い盃は、飲み物で満たされている。セレネーが顔を上げると、アレクシスが同じ物を片手に笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます」
受け取った盃を見つめると、小さな泡が立っている。初めて見る飲み物に、セレネーは首を傾げてアレクシスを見上げた。
「これは、隣国の者たちが持ってきたりんごの酒だ。ワインと違って甘くてきっと飲みやすかろう」
「いただきます」
セレネーは恐る恐る盃に口を付けた。ぱちぱちと口の中で弾ける泡に、思わず口元に手を当てる。ごくりと飲み下すと、りんごの甘味と爽やかな風味に目を瞬いた。最後に残った苦味に、ふっと小さく息を漏らす。
「美味しいです」
アレクシスは満足気に頷き、自分の盃を煽った。しばらく無言で宴の様子を眺めていたが、ふと見上げるとアレクシスもセレネーを見下ろしていた。
「アレクシス様?」
「……セレネー。神殿を去るつもりか?」
セレネーは一瞬視線を落とすが、すぐに戻して頷いた。
「はい」
「気持ちは変わらないのだな」
「私はここにいるべき者ではありません」
「誰が止めても、その心は揺るがんのだな」
「はい」
セレネーはしっかり頷き、決意を込めた視線を向けた。アレクシスは小さく溜息を溢し、肩を落とした。
「セレネー……レネ。一つ言っておかねばならんことがある」
「なんでしょうか」
アレクシスはセレネーの方に身体を向け、真剣な眼差しを向けた。
「お前は両親に売られたと思っておるのだろうな」
顔を歪めたセレネーは、思わず俯き唇を引き結んだ。身体がこわばり小さく震える肩に、アレクシスの温かな手が触れる。ゆっくり顔を上げると、アレクシスは苦しそうな表情を浮かべた。
「お前は売られたのでも、捨てられたのでもない」
「でもっ……あの日、両親はお金をっ」
「金を渡したのは事実だ。しかしそれは、せめてもの償いだった」
「どういうことですか」
セレネーはアレクシスの顔をじっと覗き込んだ。
「お前の家は貧しかった。それでもお前を手放すことを最初は拒んだのだ。だが、神託は絶対だ。月の巫女を神殿に預けることは、どうあっても避けられるものではない」
「それは……そうですが」
「故に、連れてくるより他無かった。せめてもの償いにと儂が金を渡した。ただそれだけのことだ」
幼かったあの日、金を受け取った両親がどんな顔をして帰っていったのか。セレネーは今でもあの時の顔が思い出せない。否、思い出さないようにしている内に、本当に忘れてしまっていた。
「それなら、どうして……」
「お前が売られたと思っていることは分かっていたが。そのままにしておいたのはお前の両親の願いだ」
「どういうことですか?」
少しの間を置いたアレクシスは、静かに口を開いた。
「まだ幼かったお前が、両親の悲しみを知れば余計に辛かろう。結局捨てることには違いないのだから、情を残さず恨まれた方がいいのだと。お前の両親がそう望んだのだ」
「そんな……」
セレネーは言葉を失い、視線を彷徨わせた。恨むという感情が生まれるより先に、ただ捨てられたことが辛かった。誰からも必要とされていないことが、悲しかった。自分の居場所はどこにもなくて、まるで地面のない場所を歩いているような気分だった。神殿にきたあの日からずっと。
それが全て誤解だったなんて。こんな酷い話があるだろうか。けれど、誰を責めればいいのだろう。セレネーは胸にふつふつと湧き上がるもやもやとした塊を、どこに、誰にぶつければいいのかわからなかった。
「レネ……」
目の下をそっと拭われ、セレネーは自分が泣いていたことに気が付いた。見上げるアレクシスが歪んで見えて、その表情がわからない。手から盃が滑り落ち、割れる音が遠く響く。
「うっ」
盃を台座に置いたアレクシスは、微かに嗚咽を漏らしたセレネーをそっと包み込んだ。小さくなったと思っていたその腕の中は、セレネーにとってはやはり広くて温かい。肩掛け布を失ってもなお淡く香る乳香は、セレネーの気持ちを和らげた。
「ア……アレクシス様っ。私っ、い、要らない子じゃ、なかった?」
「レネ……。お前の両親は、お前を手放すことをとても悲しんでいた」
アレクシスの服をぎゅっと握りしめ、セレネーは尚も泣き続けた。アレクシスはゆっくりとセレネーの頭を撫でる。宝物を壊さぬようにそっと、幾度も。
「レネは儂にとっても、本当の孫のように大切な娘であったよ」
必死に声を抑えてアレクシスにしがみついた。宴に夢中の民たちのお陰で、セレネーの小さな嗚咽はかき消されるだろう。
アリアドネの行方を追う中で、アレクシスを疑わなかったと言ったら嘘になる。全てを話してくれていた訳ではなかったし、話せることでもなかったからだ。その少しの秘密事の積み重ねが、セレネーの心を揺らした。けれど、それは全てセレネーのためだったのだ。今になってようやくその想いに気付き、セレネーの胸の内が震える。
「アンドリオンを側に付けたのも、アリアドネの死の真相を伝えなかったのも、お前を守りたかったからだ」
セレネーは抱きついたまま何度も頷いた。言われなくても、今はもう分かっていると伝えたかった。
「我々は皆口伝に縛られ、レネを傷つけた。国を救うためとは言え、本来なら全てを話してお前の意思を問うべきだった。何も知らせずにただ守ることが正しいと、そう思い込んでしまった」
「アレクシス様っ」
セレネーは首を左右に振り、唇を噛み締めた。
「神殿にきたばかりの幼かったレネは、もうこんなに大きくなっていたというのに。いつまでも幼子を守るような気持ちでいたのが間違いだったのだ。すまなかった、レネ」
声を殺してアレクシスに縋り付くセレネーは、神殿にきたばかりの頃を思い出す。泣いてばかりのセレネーを、アレクシスは今と同じように温かく包み込んでくれた。ずっと変わらぬこの場所を、永遠に忘れることはないだろう。アレクシスの乳香に包まれて、セレネーは気の済むまで泣き続けた。
すっかり目を腫らしたセレネーを見下ろし、アレクシスは困ったような笑みを浮かべた。セレネーは幼子のように泣き続けたことで少しの照れくささとともに、心の澱が流れ落ちたかのような清々しさも感じる。
「アレクシス様。私はこのまま旅立とうと思います」
「レネ……。何の準備もなく旅立つのは不可能だろう」
「ええ。まずは町で朝を待ち、準備を整えます。それから馬車で、どこか遠くを目指そうと思います」
アレクシスは視線を揺らし、深く頷いた。
「これを持っていきなさい」
腰のポーチから掌に乗る程度の麻袋を取り出したアレクシスは、セレネーの手をとりその上に乗せた。
「あの、これは?」
「路銀がなくては宿に泊まることは愚か、食事をすることもままならん」
セレネーははっとして麻袋を見つめた。ただ立ち去ることばかり考えて、それなりの金が要ることすら思い浮かばなかった。相変わらずの要領の悪さに、思わず苦い笑みを浮かべた。
「旅の足も手配してやろう。後で知った者を寄越すから、一人でどうにかしようと考えぬことだ」
麻袋を両手で包み込んだセレネーは、少しの間逡巡した。そこまで頼ってしまっていいのだろうか。けれど、いきなり全てを一人で出来るはずもない。これから少しずつ慣れていけばいい。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、お願い致します」
安堵の色の浮かべたアレクシスが、昔と変わらぬ柔らかな笑みを浮かべた。セレネーの頭を二度撫で、名残惜しそうに頬を包み込む。
「儂はずっとここにおる。いつでも会いにきなさい」
セレネーは一瞬目を見開いた後、子供のような笑みを浮かべた。
「はいっ、いつかきっと」
小さく息を吐いたアレクシスは、ゆっくり踵を返して祭壇の方へ向かった。その後姿を見つめながら、再び流れ落ちそうになる涙を瞬きで散らした。
セレネーは周囲を見回し、思い思いに楽しむ民の姿をじっと眺めた。ふと祭壇の方へ視線を向けると、輪の中心には相変わらずアリアドネとアンドリオンが並んでいる。白金の髪は松明の橙色に染まり、美しく煌めいている。よく見れば周囲の者たちも同じ色合いで、まるでそこだけ切り取られた絵画のようだ。
「セレネー様」
突然掛けられた声に肩を揺らし、視線を向けるとエヴァが立っていた。
「エヴァ……どうしたの?」
「お足元の片付けに」
セレネーは自分の足元を見つめ、先程落とした盃の欠片があることを思い出した。
「ごめんなさい、自分でするわ」
「いいえ、危ないですからそのままで」
エヴァはセレネーが動き出す暇を与えず、素早く破片を片付けていく。その時祭壇の方で誰かの咎めるような声が響いてきた。思わずそちらに目を向けると、王家の者の一人がアンドリオンとアリアドネに向かって何かを話している。アンドリオンは眉を寄せ、不服そうな様子だ。笑みを浮かべたアリアドネの表情は、どこか冷たさが滲む。何があったのかはわからないが、セレネーにはもう立ち入ることはできない。
「ねえ、エヴァ」
破片を拾い終えたエヴァが、立ち上がりセレネーを見つめた。
「二人のリアは、お似合いね」
一瞬空気が張り詰め、エヴァが目を見開いた。セレネーがエヴァに視線を戻したその刹那。エヴァが遠くの二人を見つめて、満面の笑みを浮かべた。蓮の花ように神秘的で、一度見たら忘れることの出来ない。静謐さを孕み、見るものを惹きつけて止まないあの笑顔だ。
セレネーは思わず後退り、そのままその場を立ち去った。心臓がどくどくと音を立て、内臓がぎゅっと縮こまる。息が詰まり呼吸が苦しくなる。セレネーはそのまま暗がりの中へ速歩で進んだ。
その耳に届くはずもない呟きを聞き逃したまま。
「あの男がアリアドネ様と? ふっ、まさか」
エヴァはアンドリオンとアリアドネを見つめながら、冷めたようにすっと目を細めた。その横をヴァンが通り過ぎる。
「お前、リオンを見て腹が立ったときに笑う癖をいい加減直せよ」
ヴァンに肩を叩かれたエヴァは、一瞬にしていつもの無表情に戻った。ヴァンはそのまま暗がりの方へ小走りで立ち去った。
暗がりの中を歩くセレネーの頭の中に、エヴァの表情が幾度も浮かんでは消えていく。それは、アリアドネとアンドリオンの未来を映し出すかのような、美しい笑みだった。思わず呟いた一言だったが、セレネーを打ちのめすには十分だった。
張り付きそうな喉をごくりと慣らすが、口の中はカラカラに渇いて潤すことはできない。周りも見ずに足を進める内に、突然肩を掴まれて思わずびくりと身体を震わせた。
「月の巫女様っ」
恐る恐る振り返ると、そこには額にほんのり汗を滲ませたヴァンが立っていた。
***
「これで陽の巫女と王が血を繋げば、王家も盤石となるな」
呑気に酒を飲みながら話す血族たちを、アンドリオンは冷めた視線で見つめた。横に並ぶアリアドネは笑みを浮かべているが、その目が笑っていない。幼馴染のアンドリオンだけでなく、エヴァはもちろんヴァンにも分かっている。この白けた空気をそろそろ終わりにしたいと思うのだが、そのタイミングが掴めない。
「しかし、あのペンダントを娘に渡してしまったのはどういう訳だ」
アンドリオンがセレネーに渡したペンダントの行方に、周囲の者たちが否やを唱える。アンドリオンは苛立ちを抑えて、すぐ隣のアリアドネを見下ろした。
「お母様、先程レネと何を話していたのです?」
少し前にアリアドネの両親がセレネーの元へ行っていたのは、アンドリオンも気付いていた。中々輪の中心へこなかった二人に、アリアドネもやきもきしていたようだ。
「身の程を弁えるようにと話してきたのです」
「……どういうことですか」
「これからあなたたちのすることに、あの娘を巻き込むつもりですか」
母の咎めるような声音に、アリアドネがぐっと息を飲んだ。そこにアリアドネの父が口を挟む。
「しかし、アンドリオンの気持ちくらいは教えてやってもよかったのでは……」
「なりません。知ればあの娘はここから去ることに迷いが生まれます。自ら決めた道を自らの足で進んでこそ、やっと一人前になるのです」
「それはそうだが……」
「これまで定めに縛り付けられてきた哀れな娘を、まだ縛るのですか」
その言葉にアリアドネの父だけでなく、アリアドネ本人も目を見開いた。直後にちらりとセレネーの方へ視線を向け、アレクシスと抱き合う姿に目を留める。苦い笑みを浮かべたアリアドネは、握りしめた拳を解き小さく息を吐いた。
「お母様、おっしゃるとおりです。ここに残って欲しいなどと、私は身勝手なことを言いました」
「わかれば宜しいのです」
俯くアリアドネに、厳しい顔つきだった母の目元がほんのり緩む。そのままアリアドネの両親は輪を抜け、隣国の者たちと話し始めた。
「力を失った巫女など、もう用もなかろう。あとは陽の巫女と王で、この国を導けばそれでいい」
「そのとおりです。あのような下賤の者など、お二人の側に置くなどもっての他」
「月は太陽の光があってこその月だ。それも力を失ったと合っては、月食で光を失った役立たずの月だろう」
アンドリオンは眉を寄せて口を開きかけた。その時、拳を震わせたアリアドネの低い声が響く。
「……違う、違うわっ! セレネーは光を失った月なんかじゃないっ」
「な、何を」
「あの子は太陽に照らされなきゃ輝けない月なんかじゃない。私にとっては夜道を照らすたった一つの明かりだったのよっ」
アリアドネの叫びに一瞬水を打ったような静けさが訪れる。アンドリオンが名を呼ぶと、アリアドネははっとしたように視線を上げた。小さく息を吐いた後、すぐに笑みを浮かべて周囲を見回した。
「取り乱して悪かったわ。けれど、一つだけ覚えておいてちょうだい。あの子を……セレネーを軽んじる者は誰であっても許さない」
氷を纏ったかのような冴え渡る笑みに、アンドリオンは肩を竦めた。アンドリオンも同じ気持ちだ。セレネーを軽んじる者を許すつもりはない。
ぐるりと辺りを見回すと、ヴァンと話すアレクシスと視線が合った。目配せをするアレクシスに、アンドリオンは小さく頷いた。
ヴァンはこの場を離れ、セレネーの元へ向かうはずだ。セレネーの様子が気になるが、見れば決心が鈍りそうでそれもできない。渋面を浮かべたまま王家の面々に視線を巡らせ、これからアリアドネと共に歩む道の険しさに胃が重くなる。
そもそも守りのペンダントをセレネーが着けている時点で、軽んじる発言をする者が出るとは思っていなかった。その為に渡したのだから。とは言え、直接セレネーを非難しなかっただけ少しは効果があったのかも知れない。セレネーがあのペンダントを返しに来なかったことは、アンドリオンの心をほんの少しだけ落ち着かせた。
「さて、リア。ここからが踏ん張りどころだな」
「そうね、リア。絶対にやり遂げるわよ」
アンドリオンとアリアドネは視線を合わせ、不敵な笑みを浮かべた。
「当然だろう」
「そうよね」
二人は祭壇の前に並び、大きく二つ手を打った。注目を集めた二人を少し離れたところから、アリアドネとアンドリオンの両親が見守っている。何事が始まるのかと期待を膨らませる王家の面々の顔を見回したアンドリオンは、大きく息を吸い込んだ。
アリアドネと共に高らかな声で宣言をし、復活した王家の者と隣国の者たちを大いに揺るがした。民たちは酒に酔い、その宣言を殆どの者が聞いていなかった。故に、遠く旅立ったセレネーの耳にはついぞその話は届かなかった。それは、王家の者たちが必死にその話を広めぬように務めたこともあったのだが、そんなことは民たちの知るところではなかった。
次回が最終回です。




