6-5
薄暗い部屋の窓をそっと押し開き、流れてくる空気を胸いっぱいに吸い込む。穏やかな風が黒髪を揺らし、セレネーは朝日の眩しさに目を細めた。
今日はアリアドネの就任式と、アンドリオンの戴冠式が行われる。セレネーが目覚めて以降、二人とは会って話してない。儀式の準備に追われているのだろう。
力を失った月の巫女に役目があるはずもなく、セレネーはのんびりとした日々を送っていた。毎日届くアリアドネの薬草のお陰か、身体の重さも足の痛みもすっかり回復した。
アレクシスは時間を見つけてはセレネーの部屋を訪れ、様子を気にかけていた。世話役の侍女も断り、セレネーは身の回りのことは自分一人で済ませていた。困ることもほとんどなく、ソフィアがいたときとそれほど変わらぬ生活に戻っただけだ。
窓から見下ろす町はあちこちに花輪が飾られ、色とりどりのリボンが揺らめいている。その様子に幼い日の思い出が頭を過った。
アリアドネがこの神殿にきた日も、今日のように賑わっていた。あのときは、アリアドネも売られてくるのだろうと思っていた。だから、華やかな町の様子を複雑な気分で見つめた。しかし今日は喜ぶべき日のはずだ。けれどセレネーの気分は、腹の底に重い塊が居座っているかのように重苦しい。あの日だってアリアドネは売られてきたわけではなかった。共に過ごすうちに分からなくなっていただけで、最初から住む世界が違っていたのだ。
セレネーは窓に頬杖をつき、町から人々が岩山を登り始めるのをただ眺めた。この神殿で行われる就任式と戴冠式は、民が見ることはできない。神殿の限られた者たちだけが立ち会い、祭壇の間で行われるからだ。
それでも民は岩山を登り、新たな神殿長となる陽の巫女とその隣に並び立つ王を迎える。儀式が終われば、二人は民と共に町の中央にあるあの祭壇へ向かうのだ。そこで民にそれぞれが宣言をすれば、晴れて二人は正式な神殿長と王になる。その後、アリアドネがどちらの神殿で暮らすのかは聞いていない。きっとこの神殿で、アンドリオンと共に暮らしていくのだろう。
徐々に岩山を登る黒い影が増え始め、セレネーは窓から離れて書き物机の前に座った。引き出しからリアの手紙と細工された本を取り出し、麻布を解いて机の上に並べた。それぞれ順にそっと撫でると、視界がぼやけて目が熱を帯びる。慌てて片手で雫を払い、声を立てぬように唇を噛み締めた。
麻布を丁寧に折り畳み、手紙と本の横に並べる。首にかけたペンダントに手を伸ばし、外そうと思うが指先が震えた。小さく鼻を啜りながら、ペンダントの石を指に乗せて見下ろした。
アンドリオンは、返せと言うまで持っていろと言っていた。アリアドネもそれでいいと言っていた。ならば、まだこのまま着けていてもいいのだろうか。暫くの間逡巡するが、石をチュニックの中に落として、濡れた頬を手で拭った。
書き物机の椅子から立ち上がり、部屋の中央に置かれたテーブルの水差しへ手を伸ばした。器に水を注ぎ、ゆっくり飲み下す。アリアドネが祈りの儀式を終えてから、水の味も以前のように――いや、それ以上の澄んだ味になった。地の底から響いてくるよう地鳴りもなくなり、揺れも訪れなくなった。本当に厄災は鎮まったのだ。
あれからパトス派の者たちは、一部を除いて解放された。アリアドネの力を認め、神殿に従う者は神殿衆として働くことになったようだ。執政官や評議員などの重要な役割を担っていた者たちは、いまだ捕らえられたままだ。セレネーは彼等がどこにいるのか知らないし、これからどうなるのかも分からない。神殿長となるアリアドネと、王となるアンドリオンが決めることだろう。
セレネーは器をテーブルに置き、小さく息を吐いた。そのとき、扉を叩く音が響く。返事を返すとエヴァの声が耳に届き、ゆっくり開かれた隙間からいつもと変わらぬ姿を覗かせた。
セレネーは一瞬何と呼べばいいのか分からず口籠る。今までは侍女だと思っていたから呼び捨てていたが、彼女も王家に連なる血筋だ。ただの民であるセレネーとは立場が違う。そわそわと口を開いては閉じてを繰り返すセレネーに、エヴァは以前と変わらぬ佇まいで口を開いた。
「セレネー様。お支度の手伝いに参りました」
「支度……何か必要だったかしら」
首を傾げたセレネーに、エヴァは手にした衣装を掲げた。
「就任式と戴冠式です」
「私も出るの?」
エヴァは一瞬目を見開き、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻った。
「もちろんです、月の巫女様」
エヴァから初めて月の巫女と呼ばれ、セレネーは目を瞬いた。今更そんな風に呼ばれるとも思っておらず、一瞬後に頬が赤く染まる。
「私、もうそんな風に呼ばれるような立場ではないわ」
「いいえ。セレネー様が月の巫女様でいらっしゃるのは変わりません」
セレネーは眉を下げて俯いた。
「お支度を整えます」
エヴァがセレネーに一歩近付く。その有無を言わさぬ雰囲気に圧倒されたセレネーは、思わず小さく頷いた。
すっかり衣装を着替えたセレネーは、月の巫女の肩掛け布を纏っていた。セレネーの座る後ろでは、エヴァが丁寧に髪を編み込んでいる。普段の儀式では自分で編み込んでいたが、髪に込める力も既に失った。セレネーが自分で編む必要もなく、大人しくエヴァに任せていた。その手つきは滑らかで、何だか少しくすぐったい。
「昔……」
エヴァがぽつりと呟いた。
「昔?」
「セレネー様に髪を編んでいただきました」
セレネーは目を瞠り、思わず振り向きそうになった。
「あれは、練習に使わせてもらってただけよ」
何となくエヴァから滲む空気が穏やかに感じられた。
「そうですね」
なぜだか胸の奥がふわふわとして、まるであの日に戻ったかのような気分になる。淀みない手つきでセレネーの髪を編むエヴァは、それきり口を開かなかった。
月の巫女の衣装を纏ったセレネーは、エヴァに手を引かれて祭壇の間へ移動した。いつもなら祭壇の前に行って祈りを捧げていたのだが、今日は見守る側だ。祭壇の間の入り口で、後ろからきたアレクシスと神官に行きあった。
「セレネー、ここからは二人で入るとしよう」
手を差し出したアレクシスに、エヴァがセレネーの手を引き継いた。
「ありがとう、エヴァ。アレクシス様、よろしくお願いいたします」
エヴァは一歩後退り、アレクシスは淡く微笑んで頷いた。
アレクシスに手を引かれて祭壇の間に入ると、既に多くの人が待機していた。儀式に参加を許された高位の者と、王家の者たちだ。揺れる松明の炎に照らされた通路を、二人並んでゆっくり進む。祭壇から一番近い場所まで辿り着くと、後ろの方から誰かの囁く声が聞こえてきた。
「あれが月の巫女か」
「民から選ばれた者だ。陽の巫女と並べるはずもない」
「力を失ったのに、なぜまだ神殿に?」
自分でも同じ疑問を抱えているのに、それに答えることができるはずもない。セレネーは小さく唇を引き結んで下を向いた。するとアレクシスに手の甲を軽く叩かれ、はっとして視線を上げる。目が合ったアレクシスは穏やかに微笑み、ゆっくり手を離した。セレネーは片手を胸元に当て、服の上からペンダントをそっと撫でた。
少しすると、祭壇の方から神官がアレクシスの側へ歩いてくる。アレクシスは一度セレネーに視線を送り、ゆっくり祭壇へ向かって歩き出した。祭壇の周囲に聖油を撒き、儀式の準備を整える。いよいよ就任式と戴冠式の始まりだ。
薄暗い祭壇の間の入口がゆっくりと開かれ、外から差し込む陽の光が一筋の道を作り出す。それと同時に、神官の鳴らすベルの音が鳴り響いた。しんと静まり返った祭壇の間に、二つの人影が足を踏み入れた。逆光になるその姿に目を細め、セレネーはどこか遠くを見ているような錯覚に陥る。
扉が閉まると、松明に照らされたのはアリアドネとアンドリオンだ。二人は祭官に先導され、後ろに祈女と護衛官を引き連れてゆっくり祭壇へ足を進めた。供物を捧げられた祭壇の前に立つアレクシスの元に辿り着くと、まずはアリアドネが一歩前に出た。
アレクシスは軽く顎を引いてから、祭壇の間に静かに響き渡る声で神への言葉を述べた。
「我らがヘリオニアを見守りたもう至高の神よ。今ここに陽の巫女アリアドネの神権の継続と、永遠に国の安寧を祈り奉る血の契約を改めん」
アレクシスが手に持った聖油に指を浸し、アリアドネの額にそっと触れた。アリアドネが一歩下がり、次にアンドリオンが前に出る。
「我らがヘリオニアを見守りたもう至高の神よ。今ここに我らが預かりし王の役目を正統なる者へ返納す。神の祝福の下にアンドリオンがその役割を継承せん」
手にした聖油を神官に預け、アレクシスが纏っていた深い紫の肩掛け布を外した。そのままアンドリオンの肩に掛け、再び聖油を手にする。先程と同じように指を浸し、そっとアンドリオンの額を撫でた。
聖油を神官に渡したアレクシスは両手を挙げ、斜め上に視線を移した。
「ここに、我が一族の預かりし権限を破棄す。神殿の全ては陽の巫女と王へ返納せん。神の祝福を賜らんことを」
アレクシスが挙げた両手をゆっくりと下ろした。儀式を見守っていた者たちが、微かに息を漏らす。
祭官がアリアドネとアンドリオンを先導し、来たときと同じように静かに歩き出した。出入り口に向かうその列を、開け放たれた扉からの光が照らし出す。明るい光の帯の中を進むアリアドネとアンドリオンは、まるで神の元へ進んでいくようだ。その荘厳な光景を、誰もが息を詰めて見守った。
二人に続く護衛官が扉を潜ると、静かに扉が閉じられた。外から大きな歓声が響き、祭壇の間の空気を揺らす。それまで見守っていた者たちの張り詰めた空気が緩み、各々何かを話しながら出口へ向かっていく。二人の出ていった扉を呆然と見つめていたセレネーは、目の前に差し出された手にはっと我に返った。
「セレネー、町へ下りるのを助けてくれんか」
セレネーは首を傾げてアレクシスを見上げた。
「この年で町まで下りるのは一苦労だ。お前が儂の手を引いて下りるのを手伝っておくれ」
セレネーは目を瞬いたあと、淡い笑みを浮かべてアレクシスに手を重ねながら頷いた。
慎重な足取りで岩山を下りるセレネーとアレクシスは、神殿にまつわる者たちの最後尾を歩いていた。その後ろには護衛官がおり、更に後ろからは民たちが付いてくる。
権力を失ったアレクシスと、内なる力を捧げたセレネーには一番気楽な位置だ。アレクシスは肩掛け布をアンドリオンに渡しているし、セレネーも神殿に置いてきた。紫の布を纏わぬ二人は、民からどう見えるのだろうか。後ろに紛れれば、本物の祖父と孫に見えるかも知れない。
町の祭壇に辿り着くと、既に儀式の準備は整っていた。岩山に登らなかった民が周囲に集まり、新たな神殿長と王を見守っている。アレクシスに導かれて祭壇の方へ歩きかけたセレネーは、手前の段差で足を止めた。
「セレネー、どうかしたのか」
問いかけるアレクシスに、セレネーは俯き小さく首を振った。
「私は、こちらで見守ります」
セレネーは、段差のある地面をじっと見つめた。祭壇へいくには、石床の敷き詰められた段差を登らなければならない。しかし、今のセレネーにはその資格がないように思えた。それこそ祭壇の供物のように、その身を捧げるのでない限り。アレクシスは祭壇とセレネーを交互に見つめ、小さく頷いた。
「分かった。では、宴のときは儂もこちらで過ごそう」
セレネーは笑みを浮かべて頷いた。
ざわめく民の中に紛れて、祭壇に目を向ける。神殿の高位職の者たちと王家の人々は、祭壇の奥でアリアドネとアンドリオンを見守っている。その端の方に、肩掛け布を外したアレクシスが並んでいた。
祭壇の前に立ったアリアドネが、天に両手を翳した。人々のざわめきは瞬く間に静まり、皆がアリアドネに注目する。
「我らが国を守りたる神との誓いを果たすため、陽の巫女アリアドネは神殿の長となった。これより先もヘリオニアのために祈り、神の声を届けんことを誓う」
アリアドネの言葉が終わると共に、民たちが歓声を上げた。陽の巫女を称えるその声は、町中に響き渡る。アリアドネが手を下ろすと次にアンドリオンが両手を上げた。深い紫の肩掛け布を纏うその姿は、つい数日前まで護衛官の装束であったことが嘘のようだ。民はその姿に一瞬にして口を閉じ、張り詰めた空気で満たされた。
「陽の巫女の血を受け継ぐ者として、王の座を賜った。ヘリオニアが民のためによき国となるよう、神の御心に背くこと無く務めることをここに誓う」
どっと地響きのような声が響き、うねるような民たちの声が町中を震わせる。セレネーは人々の中に紛れ、自分だけがぽつんと取り残されたような気分になった。空気を震わせるような沢山の声が、どこか遠くで渦巻いているかのようだ。あちらにも馴染めず、こちらでも完全に紛れることはできない。セレネーは身の置き場を失い、視線を彷徨わせた。
空はいつの間にか赤く染まり、一瞬血を流しているかのような錯覚に陥る。セレネーは自分の両掌を見つめ、震える指先でぎゅっと拳を握りしめた。もう一度空を見上げると、茜色が空と大地を染めている。喜びに沸く全ての者たちを包むその光は、きっとヘリオニアに希望を齎すのだろう。




