6-3
欠け始めた月を見上げるセレネーの耳に、しゃらんしゃらんとアリアドネの鳴らす優しい鈴の音が響いてくる。徐々に姿を隠し始めた月を見つめるうちに、なぜだか一筋の涙が溢れた。
数年に一度の月食と変わらず、月は徐々に隠れてゆく。月食自体はそこまで珍しいものでもないが、セレネーの目にはいつもと違って映る。月の光が徐々に失われ、群青の空に深い影が忍び寄る。
幾度も訪れた月食と違うのは、厄災の前触れである揺れが伴うかどうかであるはずだ。けれど、セレネーの中からそれだけではないと何かが訴えかけてくる。それが何だか分からないまま、ただ空の月を見上げた。
アリアドネの祈りが続く中、人々にざわめきが広がり始めた。
「おい、見ろ」
「なんだあれは?」
「まるで血じゃないか」
人々の指差す先に浮かぶのは、赤銅色に染まった月だ。光を失い、血を流すかのように染まる月。すると、頭の中に人の声とは違う音が響き始めた。
地が闇夜に浮かぶ月を喰らい
白き身体を紅に染めしとき
暗黒を照らす陽が現れ
地上に救済の光を齎さん
それは、アリアドネの授かった神託だ。人々が騒ぎ始め、神に許しを請う者たちの声が広がっていく。
月を見つめて立ち上がったセレネーは、空に向かい手を伸ばした。
「セレネーっ」
アレクシスの焦りの滲む声が響くが、セレネーの耳には届かない。
伸ばしたセレネーの指先から、徐々に色が変わり始める。神託の言葉が人々の脳裏に木霊する。指先から腕へ、更には首から顔へ。セレネーの身体がじわじわと赤くなっていく。
気付いた人々が引きつった顔でセレネーから後退った。アレクシスはその力に押されてセレネーから遠ざかる。漆黒の髪と純白のチュニックを残し、セレネーの全身が赤く染まった。セレネーは両手を自分の前に翳し、小さく息を吐いた。
その刹那、身体の中から一気に何かを抜き取られたかのような脱力感に襲われる。膝から力が抜け、フラフラと身体が揺れた。周囲から人が去り、できた輪の中にはセレネーと、少し離れた場所に押し流されたアレスシスだけが取り残されていた。
しばらくするとセレネーの身体から月の光のような輝く粉が溢れ、祭壇に向かって伸びていく。光の帯が伸びるに連れ、身体が本来の色を取り戻していった。光の先端がアリアドネに届き、その全身を包み込む。周囲の者たちはただ固唾を飲んでそれを見守った。
身体からこぼれ落ちる光が途切れ、虚ろな目をしたセレネーは呆然と立ち尽くした。人々の声がやけに遠くて、自分がどこにいるのかもわからない。一方のアリアドネは光の粉に包まれ、人成らざる者であるかのようだ。その神秘的な姿に、人々が立ち上がり近づこうと足を進める。セレネーを取り囲んでいた輪が崩れ、少しずつ中心に迫ってきた。
「セレネーっ」
アレクシスが手を伸ばすが、力を失ったセレネーには答えることができない。その瞳には何も映さず、ただその場に立っているだけだ。更に群衆がアリアドネに近づこうと、セレネーの周りに押し寄せる。
「レネっ」
祭壇の方からアンドリオンの声が響くがセレネーの耳には届かない。光の粉を散らしながら舞うアリアドネに迫る人々の波に、あっという間に飲み込まれた。
民に紛れて見分けのつかなくなる自分の姿に、セレネーは自嘲の笑みを漏らした。黒髪で肩掛け布すら纏わぬ自分は、アリアドネに縋る民と何の違いもない。元々大した力などないと思っていたが、実際に失ってみるとまるで抜け殻になったかのようだ。アリアドネのように奇跡は起こせない。見える形での力は使えなかった。けれど、内に秘めた力は確かに合ったのだと、今になってようやく分かった。それが分かったところで、何も変わりはしない。
セレネーは人波に逆らわず、押されるがままに足を進める。力の抜けた膝が崩折れそうになるが、隙間のない群衆に支えられて倒れることすらできない。足首からズキンズキンと響く痛みで、飛びそうになる意識がどうにか繋ぎ止められる。足を引きずりながらどこへいくとも分からないまま、ただ流されていく。
そのとき、力強く腕を引かれて誰かにぎゅっと抱きしめられた。柔らかな温もりと、セレネーの鼻を掠める懐かしい香り。爽やかでいてほんのり甘い、アレクシスの乳香だ。
「アレクシス様……」
セレネーはあまり力の入らない腕で、アレクシスの背中に腕を回して力の限り布を握りしめた。
「セレネー……レネ」
微かに聞こえたアレクシスの呼ぶ声に、涙がほろほろとこぼれ落ちる。――レネ。アレクシスがそう呼んだ。初めてセレネーをレネと呼んだのは、アリアドネではなかったのだろうか。ああ、そうか。薄れゆく意識の中で、セレネーの脳裏に幼い日の記憶が蘇る。
『レネ』
顔の見えない母が、セレネーを呼ぶ。そうだった。セレネーは幼い頃、両親からそう呼ばれていた。金を受け取り帰っていった二人の姿を忘れたくて、そんなことも記憶から消していた。両親がセレネーをどう思っていたのか、それは今でも分からない。神殿を訪れる前のことは、未だに思い出すことはできないから。
両親が帰ってからの毎日は、目が腫れるまで泣いて寝ての繰り返しだった。アレクシスは日に何度も顔を出し、セレネーの様子を窺った。侍女はほとんどつきっきりで、背や頭を撫でて慰めてくれた。
やっと泣かずに過ごせるようになると、セレネーの方からアレクシスの部屋を訪れた。両手を広げて目尻を下げたアレクシスに、セレネーは遠慮がちに手を伸ばした。背の高いアレクシスが最初は少し怖かった。けれど、抱き寄せる腕の優しさに、いつしかセレネーは心地よさを感じるようになっていった。広くて温かくて、乳香の香りに安らぎを覚えるようになった。
『レネ』
アレクシスが幼いセレネーを抱きしめ、耳元で呼びかけた。
アリアドネがセレネーをそう呼ぶようになったのは、アレクシスが呼ぶのを聞いていたからだ。それからしばらくして、アレクシスはセレネーをレネと呼ばなくなった。年の近いアリアドネについて回っていたセレネーは、そのことをすっかり忘れてしまった。
乳香を感じる機会も減り、いつの間にか少し遠い存在になっていた。大人に近付くに連れ、アレクシスの立場を理解するようになった。月の巫女があまり歓迎されていないことも、神殿では黒髪が異質なことも。そうしてできた心の溝は、セレネーが作っていたものだった。今でもきっとその眼差しは変わっていないのに。
『レネ』
無邪気な笑みを浮かべたアリアドネが振り返る。どこへいくにも先に立っていたアリアドネ。柔らかな手がセレネーの指先を包み込み、暗い道を照らすかのような笑みを浮かべる。幼いアリアドネの姿が徐々に今の姿へと変わっていく。
光を帯びたアリアドネが、セレネーの手を離れて祭壇に向かって走り出す。光の粉を纏い祭壇の前で舞う姿は、陽の巫女の名に相応しい。布を翻す度に響く鈴の音も、舞い散る光の粒も、セレネーが手を伸ばしても届かない。月の巫女という肩書があってさえ遠かった背中が、もう二度と届くことのない場所へいってしまった。否、セレネーが届きそうだった場所から滑り落ちてしまっただけだ。
『レネ』
悪戯を仕掛けるように唇の端を上げ、アンドリオンがセレネーを見下ろした。アリアドネに頼まれて守ってくれただけならば、そう言ってくれればよかったのに。髪色が美しいと言ってくれたのも、王家の人たちとは真逆の色だからだろう。アリアドネもセレネーの黒い髪を綺麗だと言ってくれたのだから。もしかしたら自分は特別なのかも知れないと、ほんの少しの勘違いをしてしまった。
始めからアリアドネのために地下に行こうと言ってくれたなら、セレネーは喜んでそうしたのに。アリアドネの従兄弟と聞いても、月の巫女ならもしかしたらと思わなくもなかった。けれど、並ぶ二人の後ろ姿はあるべくしてそこにある者同士と思えた。固い絆で結ばれた二人を引き裂くことは、きっと神様だってできやしない。
アレクシスの背中に回されたセレネーの腕から力が抜け落ち、そのままずるりと滑り落ちた。アレクシスはセレネーを抱えたまま蹲った。セレネーを傷つけるもの全てからその姿を守るかのように。
アリアドネに押し寄せる人波は、その少し手前で護衛官たちに制止された。その中にはアンドリオンやヴァンの姿も見える。祈りを続けるアリアドネのすぐ側にはエヴァが控え、遮る者の侵入を許さない。アンドリオンは人波の奥のセレネーの姿を探すが、蹲るアレクシスが見えるはずもなかった。
アリアドネの鈴の音が響く度、暗い夜空に浮かぶ赤い月がその色を取り戻していく。ゆっくりと、着実に。
アリアドネの身体から舞う光の粒が徐々にその数を減らし、夜空の月が再び大地を照らし始めた。空に広がっていた深い影は去り、群青の空が広がった。月食の前より月の輝きが強くなり、人々は神と陽の巫女への感謝の言葉を口にする。
祈りを終えたアリアドネが民の方へ振り向くと、大きな歓声が上がり口々にアリアドネを称える声が広がっていく。アリアドネは人々をぐるりと見回し、セレネーの姿を探すが、やはり見つけることはできなかった。額の汗を拭うと、エヴァに手を引かれて祭壇奥の両親の元へと足を進めた。集まった者たちの歓声はまだ続いている。
月明かりに照らされる朽ちかけた祈りの場は、夜が明けるまで多くの人々の歓喜の声で埋め尽くされた。
その夜の奇跡を目にした人々は、王家の復活を心の底から願った。パトス派の流布した偽りの言葉は忘れ去られ、代わりに陽の巫女の幻想的な姿が民の話題の全てを占めた。
強い光を受けた大地にできたほんの小さな影のことなど、多くの人々の頭には欠片も残らなかった。その暗がりの中で蹲るアレクシスは、人々が去りゆくまで小さな宝物を守るかのように動かなかった。




