6-2
地上に出ると、空には丸く大きな月が浮かんでいた。ジンジンと痛む足首に気付かれぬよう、セレネーはしっかりとした足取りで階段を上り切る。周囲はセレネーの胸の辺りまである草に囲まれ、ここがどこだか分からない。
「あっちだな」
アンドリオンの指し示す方へ視線を向けると、朽ちかけた円柱が見えた。そこは、セレネーが運ばれた王家の祭壇がある場所だ。実際は民の作った祭壇だったのだが。前回の厄災でも、あの場所で陽の巫女が祈りを捧げたはずだ。今回も同じようにあそこへいくのだろう。セレネーの脳裏に自分が運ばれたときの光景が過ぎり、小さく身震いした。
アンドリオンが先頭に立ち、剣で草を払いながら進んでいく。最後尾を歩くセレネーは、二人に気付かれぬよう微かに足をかばいながら歩いた。徐々に円柱が大きくなり、もう少しで辿り着くというところで、アンドリオンが二人を制止した。一人先を歩き、祭壇の様子を見にいくようだ。セレネーはアリアドネと共に姿勢を低くしてその様子を窺った。
息を殺して待っていると、男の話し声が近付いてきた。アリアドネが視線を前に固定したまま、セレネーの手を強く握った。じっとりと汗ばむその手に、セレネーは思わずアリアドネを見上げた。いつも堂々と振る舞うアリアドネも、こんなときには緊張するのか。そう思うと、ずっと前を歩いていたアリアドネを少しだけ近くに感じた。けれど、それも儀式が終わるまでのことだろう。厄災を鎮めたあとは、きっともう気軽に話せるような人ではなくなってしまうはずだ。月の巫女の役割は、厄災を鎮めるまでのものだから。
「アリアドネ、レネっ」
アンドリオンの呼ぶ声に、アリアドネの手からすっと力が抜けた。顔を見合わせた二人は、そっと立ち上がり声の方へ歩き出した。アリアドネはセレネーの手を握ったまま、慎重に足を進めた。セレネーは繋がれた手とアリアドネを見比べて、幼い日の冒険を思い出し胸の奥が切なくなる。温かく優しいアリアドネの手。セレネーを導く力強い後ろ姿。神殿暮らしの寂しさが紛れたのは、間違いなくアリアドネがきてからだ。
草むらを抜けた先に、アンドリオンの姿が見える。その横にはヴァンがいて、無事な姿にセレネーはほっと息を吐いた。アリアドネとセレネーの繋がれた手を見たヴァンは、セレネーの胸元に視線を移した。一瞬目を瞠り、すぐに面白そうな笑みを浮かべて踵を返した。アンドリオンがそれに続き、アリアドネに促されたセレネーも共に歩き出す。しばらく歩くと円柱の前に多くの人影が見えた。数十人ほどいるだろうか。セレネーは思わず足を止め、アリアドネと繋がれた手が離れた。
「レネ?」
振り向くアリアドネのずっと先を見つめたセレネーは、人影の持つ松明の火を見つめてごくりと喉を鳴らした。
「レネ、あれは隣国からきた者たちだから大丈夫だ」
アンドリオンの言葉に、セレネーは小さく頷いた。しかし、セレネーにとっては大丈夫ではない。隣国からきた仲間ということは、皆王家の血を引く高貴な人々だ。月の巫女という肩書があるにせよ、一緒に進んでいいのだろうか。足が竦んで前に出せず、セレネーは視線を彷徨わせた。
「レネ、いきましょう」
アリアドネに促され、セレネーは躊躇いがちに足を一歩前に出す。ズキンと響く痛みに、微かに顔を歪めた。アリアドネから離れた指先が熱を失い、先程までの温もりを求めて手を伸ばしたくなる。まるで一人だけ別の道を歩いているかのようで、息苦しさに喉が詰まるようだ。
人影の中に他より少しだけ前に立つ一組の男女が見えた。白金の髪を美しく結った女はアリアドネによく似ている。同じく白金の髪を持つ男は、アリアドネの父親なのだろう。女が両手を広げてアリアドネを迎え、そっと身体を包み込んだ。アリアドネの父はそれを穏やかな眼差しで見守っている。両親から大切そうに扱われるアリアドネの姿が、まるで夢の中の光景のように見えた。そこはセレネーの知らない、家族の温もりがある世界だ。
「レネっ」
アリアドネがセレネーを振り返り、いつもより少しだけ無邪気な笑顔で呼びかけた。セレネーは複雑な表情でそれを見つめる。
「レネ、いこう」
いつの間にか斜め前に立っていたアンドリオンがセレネーに手を差し出した。セレネーはアンドリオンの顔と手を見比べて、中途半端に挙げた手を体の前で組んだ。
「どうしたんだ?」
訝しげな顔のアンドリオンに、セレネはーおずおずと自分の手を重ねた。何が正解なのかわからないが、きっと断る方が無作法だろう。アンドリオンの大きな手の温もりが、今はなぜだか胸を締め付ける。
ゆっくり歩き出したアンドリオンに合わせて、集まった者たちの前に立つ。セレネーに視線を向けた人々は、ざわざわと何かを囁き合っている。顔を強張らせたセレネーは、アンドリオンに重ねていた手を慌てて引き抜いた。アンドリオンが一瞬目を瞠るが、すぐに集まった人々へ視線を戻した。
「彼女が月の巫女、セレネーよ。私にとって妹のように大切な娘です。そのように心得てちょうだい」
アリアドネの言葉にざわめきは収まるが、セレネーに視線を向ける人々は、一様に戸惑いの表情を浮かべている。アリアドネの両親が何か言おうと口を開くが、アリアドネがそれを遮った。
「私たちは今から厄災を鎮める儀式を行います。話さねばならないことは沢山あるけれど、まずは儀式が先よ」
アリアドネの凛とした声が響き、人々は口を閉ざしてアリアドネを見つめた。アリアドネが足を進めるとさっと左右に人が割れる。その真中を歩く様は、王族の直系と言われて誰もが納得するような堂々たる姿だ。アンドリオンに軽く背を押され、セレネーもアリアドネの後に続いた。
人の間を過ぎる度、皆が眉を顰めて何かを囁いている。セレネーは居心地悪く間を歩くが、人々の視線はペンダントにあるような気がした。セレネーの後ろを歩くアンドリオンは、鋭い視線で左右を見回した。最後尾のヴァンは相変わらず口元に笑みを湛えたままだ。
祭壇が見えてくると、少し離れたところに黒い影が浮かび上がる。揺らめく松明の明かりに照らされたのは、沢山の民だ。人々の先頭には神殿長のアレクシスがこちらを向いて立っている。その左右には、赤い肩掛け布の政務官と金の肩掛け布の祭官と祈女、更には灰色の肩掛け布を纏う典官も控えていた。
アリアドネは迷わずそこに向けて足を進めた。セレネーは戸惑いながらその後に続き、そわそわと周囲を見回した。
四人の後ろからは王家の者たちが続き、祭壇の手前で立ち止まった。祭壇を挟んで、王家の者たちと今の統治者たちが対峙するかのような形だ。
「アレクシス様、ご助力感謝します」
「無事に戻って何よりだ」
その言葉に民たちがざわめき、戸惑いの声をあげた。それもそのはずだ。神殿長がその死を認めた陽の巫女アリアドネが、目の前にいるのだから。しかも、それを当然のことのように神殿長が迎えているのだから。
アリアドネはアレクシスの隣に並び、集まった民をぐるりと見渡した。息を整え大きく吸い込んでから口を開いた。
「今宵は厄災の訪れる特別なときです。このときを無事に迎えられるよう、神殿長には私の死を偽ってもらいました。理由は、皆の知るところでしょう」
ざわめいていた人々が口を閉じ、しんと静まり返る。夜の冷たい空気が一層冴え渡り、ぴんと糸が張り詰めたかのようだ。
「陽の巫女の力を疑い、排除しようとする者たちがいた。厄災を鎮める儀式を滞りなく行うためには、こうするより他なかったのです」
居心地の悪そうな表情をする者、咎めるような顔の者、戸惑いを浮かべる者。陽の巫女の力を疑う者は、思っていたよりも多くはない。パトス派の喧伝は然程浸透してはいなかったようだ。
「厄災はもうすぐ訪れる。私は今から神に祈りを捧げます。皆、静かに見守るよう願います」
静まり返る民を見回したアリアドネは、セレネーを振り返る。
「レネ、この儀式は私一人で行うわ。あなたは見守っていて」
「でも」
「大丈夫。始めからそのように決まっていることなのよ」
セレネーは渋々頷いた。最後の祈りですら役に立てないことに、苦い笑みが浮かぶ。
既に祭壇には供物が並べられ、儀式の準備は整っていた。典官は記録のための準備を終え、祭壇から少し離れた場所で待機している。アレクシスは民の方へと足を進め、その先頭に立つとアリアドネのいる祭壇の方へ向き直った。王家の人々は、祭壇の反対側から様子を見守っている。セレネーは落ち着かずに辺りを見回し、自分の居場所を探しあぐねた。
「レネ」
アンドリオンの声に振り向くと、祭壇の横で手をこちらに伸ばす姿が目に映る。少し離れた場所に立つ王家の人々の視線が突き刺さり、セレネーは思わず一歩後退った。
「どうした?」
首を傾げたアンドリオンに、セレネーは小さく首を振った。
「私は、アレクシス様と共に見守ります」
アンドリオンの返事を待たずに、セレネーは踵を返してアレクシスの方へ歩き出した。アレクシスの斜め後ろに立ち、祭壇の向こうへ視線を向けた。アンドリオンはヴァンと共に、王家の者たちの方へ向かっていく。エヴァはアリアドネの横に立ち、儀式の支度を整えていた。
祭壇の前に立つアリアドネを挟んで、見えない壁に阻まれているかのようだ。むしろ、後ろの民に紛れた場所こそ自分の立ち位置なのだろう。見上げたアレクシスの後ろ姿は、年齢のせいで色の抜けた銀色の髪が輝いていた。昔はどうだっただろうか。朧気な記憶の中では、淡い茶色だったような気がする。
「セレネー」
アレクシスに呼ばれて、視線を髪から顔に移した。アレクシスは幼い頃と同じ穏やかな目でセレネーを見つめる。
「気が気でなかった」
「アレクシス様……ご心配をおかけしました」
「いいや。パトスから守ってやれずに済まなかった」
セレネーは大きく首を振った。
「いいえ。私がエヴァから離れたのがいけないのです」
そこでセレネーは周囲を見回した。そう言えば、パトス派の者たちはどうなったのだろう。
「案ずることはない。パトス派の連中は……捕らえて数人だけあちらに残してある」
アレクシスが指し示したのは、祭壇の右手側からかなり離れた場所だ。護衛官の前に数人が座らされている。中には肩掛け布をしている者がおり、恐らく一人はセレネーと話した執政官だ。
「なぜあそこにいるのですか?」
「奴等には陽の巫女の儀式を見せねばならん。この国の先行きを考えた末のこと。儀式を見守る者が、民と巫女を信じるものだけでは不足であろう」
セレネーはもう一度民を見回した。厳かな顔つきで儀式の始まりを待つものもいれば、アリアドネに不信な眼差しを向ける者もいる。戸惑うように周囲の人々の話を聞くものもいれば、どちらともつかずに落ち着かない様子の者もいる。なるべく多くの者にアリアドネの祈りを見せ、陽の巫女の力を認めさせる。人は信じたいことを信じるものだが、目の前で起こる奇跡に勝るものはないだろう。
シャンと鳴り響く鈴の音に、辺りが一斉に静まり返る。祭壇の前では腕に鈴を着けたアリアドネが、両手を天に伸ばして祈り始めていた。一瞬にして空気が澄み渡り、松明のパチパチと燃える音だけが聞こえてくる。アリアドネの舞が始まると、突然強い風が吹き、皆が地面に膝をついた。松明の明かりが全て消え、辺りを照らすのは月明かりだけになる。
誰もが息を呑み、祭壇の前で舞うアリアドネから目を離せない。白金の髪に降り注ぐ月明かりは、真っ直ぐにアリアドネだけを照らしているかのようだ。揺れるチュニックの袖は一振り毎に、周囲から音を消していく。幻想的なアリアドネの舞に、誰もが息をするのも忘れた。
セレネーは、自分の未熟な舞との違いに心の底が凪いでいく。同じように舞っても、風が吹くことなどない。ましてや松明の明かりを消すほどの風など、起こせるはずもない。陽の巫女が特別でなければ、一体何だというのだろうか。アリアドネの舞う様は、まるで別世界への扉を開かれたかのような錯覚を呼び起こす。神殿でセレネー一人で舞った祈りの儀式を見た者は、さぞ物足りなく感じたことだろう。
多くの者がアリアドネの姿に夢見心地だ。セレネーは、自分だけが元の世界に取り残されているような気がして、唇を引き結んだ。その刹那、膝を付いた地面から低く唸るような音が響いてくる。夢現だった民たちもそれに気づき、徐々に騒ぎ始めた。
「おい、これはなんだ?」
「地面が鳴ってるぞ」
「いつもの揺れの前触れじゃないのか?」
地面についた両手に、下から振動が響いてくる。これは、いつもの前触れよりも大きい気がする。祭壇のアリアドネは動じること無く舞い続ける。一際大きな音が響いたかと思うと、突然地面が大きく揺れる。ぐらぐらと揺れ始めた大地に、民たちが頭を垂れる。
「神がお怒りだっ」
「陽の巫女の力を疑った者たちのせいに違いないっ」
「ああ、陽の巫女様っ。神よ、どうかお許しください」
口々に神とアリアドネへの許しを請う民に、セレネーはもどかしさを覚える。祭壇に目を向けると、アリアドネが足を取られてふらりと揺れた。
「リアっ」
思わず叫んで手を伸ばすが、遠く離れたセレネーからでは届かない。そのとき、祭壇の向こうからアンドリオンがアリアドネに駆け寄る姿が目に入る。安堵すると共に胸の奥がずしりと重くなり、顔を俯けて地面についた手を握りしめた。
しゃんと一際大きな鈴の音が響き、地面の揺れが少しずつ収まっていく。誰もが小さく息を吐いたところで、民の一人が声をあげた。
「は、始まったぞ」
その声に導かれて、皆が空の月を見上げた。アリアドネを照らす大きな月は、その形を変え始めていた。遂に月食が始まった。セレネーは欠け始めた大きな月を見上げた。なぜだかその光を見ていると、胸の奥がざわつきはじめる。祭壇の前ではアリアドネが舞い続けている。鳴り響く鈴の音が耳を通り抜ける中、セレネーは群青の空に浮かぶ月から目を離すことができなかった。




