6-1
「答えて――アンドリオン」
アリアドネの姿を見つめながら問いかけたセレネーに、アンドリオンが息を呑んだ。セレネーはその答えを待たずに、そのまま一歩祈りの間へ足を進めた。アンドリオンからは戸惑うような気配を感じるが、そのままもう一歩前に出る。
光る石に照らされたアリアドネの淡い白金の髪がきらきらと輝く。透けるような白い肌と相まって一層美しい。目を細めてその様子を眺めていると、突然視界がぐらりと揺れた。一瞬の出来事で、すぐに何事もなかったように元に戻る。セレネーは軽く首を左右に振り、もう一度アリアドネに視線を戻した。
アンドリオンが口を開きかけたところで、祈りを終えたアリアドネがゆっくり振り返る。急に時間の流れが緩やかになったかのように、アリアドネのチュニックの襞が優雅に揺れた。視線を上げたアリアドネが二人に気づき、目を見開きその場で動きを止めた。
「リア」
セレネーが小さく呟くと、それを合図にアリアドネが走り出した。
「レネっ」
アリアドネに呼ばれると同時に強く抱きしめられたセレネーは、一瞬息を止めて両手を彷徨わせる。震える指先でアリアドネの背に腕を回し、そのまま同じ強さで抱きしめ返した。
「レネ……無事でよかった」
「リアこそ……信じてたけど、会えてよかった」
大きく息を吐いたアリアドネは、セレネーの肩に手を置きそっと身体を離した。優しく頭を撫で、目を細めてセレネーに微笑みかけた。次の瞬間、アンドリオンを見上げて眉を寄せた。
「アンドリオン」
普段より数段低い音で響くその声は、今まで聞いたことのないほどの怒気を含んでいる。セレネーは思わず二人を見比べた。アンドリオンは気まずそうな表情を浮かべ、一歩後退る。
「ま、待て、アリアドネ。話を聞いてくれ」
「私は、レネを守ってほしいって言ったわよね」
「いや、だからちゃんと無事だろう?」
後退るアンドリオンにアリアドネが一歩近付く。
「そうじゃないわっ。ここに連れてきてはいけないって、エヴァにも伝えてあったはずよ」
「だが、俺の聞いてる話では、月の巫女が必要だと」
「……何も知らない癖にっ。私がどんな思いでレネを地上に残したのか、考えてはくれなかったの?」
「それでも、厄災を鎮めるのに必要なことだと俺は判断した」
片手を額に当てたアリアドネは、大きなため息を吐いた。
「あの、リア。ごめんなさい」
アリアドネはセレネーを振り返り、眉を下げた。
「いいえ、レネのせいじゃないわ。何も伝えていなかった私も悪かったのよ」
「ううん。私、どうしてもリアに会いたかった」
「レネ……」
「どうして私を置いていったのか、リアに直接聞きたかったの。だから、責めるなら私を責めて」
アリアドネは眉を下げて、セレネーに手を伸ばした。小さく息を吐きながら、切なさの滲む笑みを浮かべ、セレネーの頬を軽く撫でる。
「レネ、私はあなたを守りたかった。だからここにきて欲しくなかったの」
「それは、陽の巫女だけが知る口伝のせい?」
「……そうよ。詳しいことは言えないの。けれど、ただレネの無事を願っていた。信じてくれる?」
セレネーは大きく頷き、柔らかな笑みを浮かべた。
「会ってすぐ分かった。リアは私を心配してくれてたんだって。始めはリアにとって足手まといだから、連れてきてもらえなかったのかも知れないと思ってた」
「レネっ」
「大丈夫よ、リア。顔を見たらわかるわ。私に言えない何かがある。だけど、私のことを守ろうとしてたんだって分かったから」
ここに辿り着くまでにアンドリオンから聞いた話で、それぞれの者が口伝を授かっていることはもう知っている。アリアドネが月の巫女に伝えるはずの何かを言わずにいることもわかった。けれど、それはきっとセレネーにとっていい話ではないのだろう。再会した瞬間のアリアドネの顔で、セレネーにはそれが分かった。
突然姿を消したアリアドネに湧いた不信感は、あの一瞬で吹き飛んでしまった。それは、今までのようにただ盲目的に信じているのとも違う。ほんの少しだけ視野の広がった今、改めてアリアドネを信じることができたのだ。だから、セレネーにとってこれまでの時間は、無駄ではなかったのだと思えた。
「よかったな」
頭上から降ってきた声に、セレネーは目を瞬いた。見守るようなアンドリオンの視線は柔らかで、セレネーは何も言えずに視線を逸らした。
「何がよかったのよ」
アリアドネの声に、アンドリオンは小さく肩を揺らした。
「結果的によかっただろ?」
「あなたを許すとは言ってないわよ、リア」
ドクリと大きく心臓が跳ね、セレネーの顔から血の気が引いていく。「おいっ」と声を上げたアンドリオンは、焦ったようにセレネーを見下ろした。
祈りの間にくるまでの話で、セレネーには薄々分かっていた。だからここに入る前、アンドリオンに尋ねたのだ。アリアドネと一体どんな繋がりがあるのかと。
アンドリオンは始めからアリアドネを呼び捨てていた。隣国と手紙のやり取りをしていることも知っていた。レネというアリアドネしか呼ばない名を呼んだ。アリアドネはもう一人のリアとの手紙で、互いの宿命や絆の確認を何度もしていた。アンドリオンの語る歴史の中で、陽の巫女と固い絆で結ばれた者の話を聞いた。同じ日時に生まれた、陽の巫女を守り支える、特別な役割の男。リアとその男が重なるのは当然で、それがアンドリオンなのだと思うのは必然だった。そう、驚くことはなにもない――そのはずなのに。
「おい、アリアドネっ」
アリアドネははっとしたようにセレネーに視線を向けた。
「レネ、前に話したでしょう? リアもあなたに会いたがってるって。彼がリアよ」
アリアドネはアンドリオンの腕を取り、軽く手前に引いた。腕を引かれたアンドリオンは、少しバランスを崩しながら気まずそうにセレネーの前に立ち尽くす。セレネーは顔を俯けて、アンドリオンの足元を見つめた。
「レネ? 前に話したのを覚えてるわよね」
「ええ、覚えてるわ」
セレネーは一瞬顔を上げ、アリアドネと目を合わせた。すぐに曖昧な笑みを浮かべ、再び視線を落とした。
「リアは、あなたに会うのを楽しみにしてたのよ」
明るい声で続けるアリアドネは、セレネーが慣れない者に戸惑っていると思っているようだ。セレネーは淡い笑みを浮かべたまま、アンドリオンを見上げた。その先には居心地悪そうに首の後ろを掻くアンドリオンが、視線を左右に揺らしている。
「……初めまして、もう一人のリア。私も一度お会いしたいと思ってました」
薄く笑みを浮かべたセレネーに、アリアドネは満足げな笑みを浮かべる。一方アンドリオンは、首の後ろに回した手を止め、訝しげな顔でセレネーを見下ろした。
「おい、何でそんな他人行儀なんだ」
セレネーは笑みを浮かべたままアンドリオンを見上げた。
「あなたは、アリアドネと同日同時刻に生まれた、同じ宿命を持つ特別な存在なのでしょう?」
アリアドネは目を瞬きアンドリオンを見上げた。アンドリオンは眉を顰め、一瞬アリアドネに視線を向けてからセレネーを見つめる。
「まあ……さっきの話に沿って言うならそうなるな」
アンドリオンの答えに、セレネーは頷いて返した。やはり、二人は固い絆で結ばれていた。手紙で何度も互いの宿命を忘れないこと、固い絆で結ばれていることを確認し合っていた。アンドリオンがアリアドネの意思に背いてまでセレネーを連れてきたのは、きっとアリアドネのためだ。アリアドネはセレネーの身を案じてくれたのだろう。けれど、アンドリオンが唯一大切にするべき存在はアリアドネだったのだ。
「リア……陽の巫女様。ここで話している暇はないのでは?」
「レネっ! そんな呼び方はやめて」
「……でも、リアと呼んだらどちらのことかわからないから」
本当はそれだけではないのだが、今はそう言っておいたほうがいいだろう。セレネーの心の内は芯から冷えて、まるで冷たい水を浴びせられたかのようだ。今もちゃんと引きつらずに笑みを浮かべられているだろうか。
戸惑いの色を滲ませる二人を他所に、セレネーは笑みを深めて二人を交互に見比べた。
「お二人も随分久しぶりの再会で、懐かしいかもしれないけれど。そろそろお役目を果たしに参りましょう。上の祭壇にゆかねばならないのでしょう?」
「……そう、ね」
「ああ」
アリアドネは眉を下げてセレネーを見つめ、小さく頷いた。
「全てが終わったら、またゆっくり話しましょう」
セレネーの言葉に、二人は納得のいかない様子で、それでも渋々頷いた。厄災の訪れはきっともうすぐだ。アンドリオンが先導して歩き出し、アリアドネが斜め後ろを付いていく。セレネーは二人から数歩遅れて歩き出し、話し出した二人の後ろ姿を何とはなしに眺めた。
アンドリオンの淡い茶色の髪が、セレネーの目には白金に見える。埋め込まれた光る石に照らされ、アリアドネと並ぶ姿はずっと遠い人のようだ。いや、そうではない。元々二人ともずっと遠く、セレネーの手の届かない場所にいる人達なのだ。二人の背中がどんどん小さくなるような気がして、思わず手を伸ばしそうになる。両手に力を籠めて、それを押し留めた。
そもそも、アリアドネが王家の直系であり、アンドリオンがその従兄弟だと分かったときから頭では理解していた。民から選ばれただけのセレネーが、二人と並べるはずもないのだ。月の巫女という立場があるから、どうにかその輪の近くに居られるだけで。決して輪に加わることはできない。アレクシスは直系ではないが、祖先は王の従弟だ。やはりセレネーとは違い、アリアドネやアンドリオンと並べる地位の人だ。
神殿の中で、やはりセレネーだけが異質なのだ。黒髪を美しいと言ってくれた目の前を歩く二人。今のアリアドネがセレネーを妹のように思っているのは本当だろう。けれどアンドリオンが親切だったのは、セレネー個人に対してではなかったのかもしれない。深い絆で繋がれたアリアドネのために、月の巫女を利用しただけなのではないか。
「レネ?」
アリアドネが数歩遅れたセレネーを振り返った。セレネーはいつもアリアドネに向けていた笑みを浮かべ、前を向くように促した。目を細めたアリアドネは何の疑いも持たず、再びアンドリオンに話し掛けた。たまに隣国の言葉が混じり、セレネーの耳を音だけが滑っていく。収まっていたはずの足首がずきずきと脈打ち始め、セレネーの胸を締め付ける。アリアドネの薬の効果もここまでだ。二人の後を付いて歩きながら、額に滲む汗をそっと拭った。せめて祈りの場までは置いていかれないように、しっかりとした足取りで前に進む。
途中、くるときとは違う分かれ道を進んでいるような違和感がある。光る石は相変わらず道を照らすが、分かれ道ではどちらの先も同じだけ明るくなっている。迷わず進んでいく二人は、この迷宮の道を熟知しているようだ。はぐれてしまえばきっとセレネーはここから抜け出せなくなるだろう。セレネーの背筋にぞくりと寒気が走り、思わず身体を震わせた。
「レネ、もう少しで着くわ」
振り向いたアリアドネに、セレネーは頷き答えた。
「来たときと違う道みたいだけれど、どこに向かっているの?」
「入った場所からそう遠くはない。だが、元の道を使うと出口でパトスに会うかも知れないからな」
「エヴァとヴァンが居れば大丈夫じゃないかしら?」
「まあ、念の為だ」
肩を竦めたアンドリオンが前を向いた。当然のことだが、アリアドネはヴァンのこともよく知っている様子だ。幼馴染だと言っていたのだから、当たり前なのだが。
そう言えばセレネーの見た手紙は、リアとの手紙だけだった。それが今頃気になった。なぜアリアドネの部屋に残されていたのは、それだけだったのだろう。両親や、いるなら他の家族とも手紙をやりとりしていたのではないだろうか。ヴァンとどれほど親しいのかわからないが、手紙に一度も登場しなかったのはなんだか不自然だ。アンドリオンの文字は見たことがなく、筆跡を比べることはできない。しかし、徐々に成長する過程がわかるかのような変化は、本当にアンドリオンが書いたものなのだろうと思われた。
セレネーは視線を上げてアンドリオンの背中を見つめる。アリアドネがいなくなって不安な中、セレネーを助けてくれたのはアンドリオンだ。例えアリアドネに頼まれたからであっても、守ってくれたことに違いはない。全てが嘘ではなかったと思うし、そうであって欲しい。けれど、そうだったとして何の意味があるのだろう。アンドリオンの話に沿って考えれば、二人は結ばれて血を繋いでいくのだろう。月の巫女としての役割を終えたセレネーは、それをただ見守るしかない。むしろ厄災のためだけに必要な存在ならば、神殿に残ることすらできないのかもしれない。
「ああ、そう言えば」
アンドリオンが突然くるりと向きを変え、セレネーを振り返った。ドクリと心臓が音を立て、その場で足を止めて唇を引き結んだ。
「レネ、あのペンダントを持ってるか?」
セレネーは一瞬身体を固くして、震える指で巾着にそっと触れた。これは、アリアドネの部屋で見つけた紋章入りのペンダントだ。ずっと持ち歩いていたが、アリアドネに返すべきものだろう。上手く動かすことができず覚束ない手付きで、巾着から取り出したペンダントを両手でアンドリオンに差し出した。
「そのペンダントは……」
アリアドネが口を開くが、アンドリオンは遮るようにセレネーの前に歩み出た。セレネーの掌からペンダントをそっと持ち上げ、紋章をじっと見つめる。
「これはレネが預かっておいてくれ」
「えっ?」
アンドリオンはセレネーの首にペンダントを掛けた。その慎重な手つきに思わず息を呑み、胸元で揺れる石に視線を落とした。突然首元が重くなったように感じて、息苦しさを覚える。
「どうして私が?」
訝しげな視線を送るセレネーに、アンドリオンは頬を掻きながら気まずそうな笑みを浮かべた。
「まあ、お守りみたいなもんだ。まだこれから一仕事あるからな」
「でも」
「いいから、俺が返せと言うまではそのまま身に着けておいてくれ」
セレネーは戸惑いながらアリアドネに視線を送る。アリアドネは小さく肩を竦めて、困ったような笑みを浮かべた。
「レネ、リアがこう言ってるんだから預かっておいたらいいわ」
セレネーは二人を見比べてから、小さく頷いた。持ち主がいいと言うのを断るのも気が引けた。これから厄災を鎮めるための儀式がある。もしかしたら、月の巫女にとっては何か危険が伴うのかも知れない。そのためのお守りなのだと思えば、しばらく借りることにも納得がいく。
ペンダントを着けたセレネーに満足そうな笑みを送ったアンドリオンは、再び迷宮の出口に向かって歩き出した。
しばらく進むと、アンドリオンとアリアドネが上を見上げ、何かを話し始めた。きっとそこが目的地なのだろう。仕掛けを探し当てたアンドリオンが壁に手を当てると、地面が微かに揺れ始めた。徐々に階段が現れ、地上へ向けて伸びていく。アンドリオンに続いてアリアドネが階段を登っていく。セレネーは胸元の石に無意識に触れ、二人の後に続いて階段に足を踏み出した。




