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「月の巫女を始末する」
アリアドネはその言葉に心臓を掴まれたかのような息苦しさを覚えた。声を立てぬように口を両手で塞ぎ、震える指先に力を込めた。
「本当にその必要があるのか?」
「もしものときの備えだ。万が一神託が本物ならば、月の巫女の力は陽の巫女にとって必須のものだろう。奪われる前に消してしまえばいい」
「お前は神託を信じるのか?」
「馬鹿馬鹿しい。だが、もしかしたら月の巫女の力を奪う口実なのかも知れん。陽の巫女が未だに不可思議な力を使うのは、そうして定期的に月の巫女の力を奪った末のことではないだろうか」
パトス派の二人の言葉に、アリアドネは奥歯を噛み締めた。今すぐ出ていってそんなことはないと言いたいが、そうしたところで無駄だろう。神託は本物だし、セレネーを利用するつもりなど端からないというのに。
「まずは、執政官殿と相談してみるか」
「ああ、そうだな。皆の意見をまとめねばなるまい」
書庫から出ていく二人の後ろ姿を見つめながら、アリアドネは口元から下ろした両手を握りしめた。それまで気配を殺していたエヴァが、そっとアリアドネの手を包み込む。無口で無表情な見た目とは違う温かな指先に、アリアドネはそっと手の力を抜いた。
「エヴァ」
「はい」
「私、死ぬことにするわ」
エヴァは表情を崩すこと無く、じっとアリアドネを見つめた。
「アンドリオンとヴァンがくるまで待てない。あの二人が揃ってからじゃなければ、あの子一人を置いては行けないわ」
エヴァは何も答えず、一度視線を落としてから再び目を合わせた。
「秘薬を使いますか」
「ええ。頼める?」
「アリアドネ様の御心のままに」
「ありがとう、エヴァ」
幼い頃からずっと共に過ごしたエヴァは、詳しい話をしなくても大凡察してくれる。アリアドネがどれほどセレネーを大切に思っているか、エヴァに何を求めているのかも。
地下書庫の隠し部屋から繋がる通路を通り、アリアドネの部屋近くの回廊へ戻る。すぐに部屋に入り、染髪と仮死の秘薬を調合した。
早く事を進めなければ、セレネーが危ない。今日もパトスの動きが気になり、夜更けに地下書庫へ様子を窺いにいったのだ。いつもはエヴァだけがいっていたが、なぜだか今日は胸騒ぎがした。落ち着かぬ気持ちのまま一人待つことができず、エヴァと共にあの隠し部屋へ向かったのだ。
神殿の中には、王家に連なる者しか知らない秘密の通路がいくつも隠されている。この神殿が作られたときから脈々と受け継がれている、血族のみが知る秘密の内の一つだ。パトス派の者たちはそれを知らない。
隣国に渡った王家の者たちは、ヘリオニアの神殿とよく似た建物で暮らしていた。様々な場所に仕掛けがあり、それを解けば路に繋がる。幼い頃から遊びの一貫として教え込まれる神殿内の構造だ。複雑に絡み合った隠し通路や隠し部屋は、子どもたちのいい遊び場だった。
アンドリオンにヴァンとエヴァ、この三人は特に暗い通路でも歩けるように子供の頃から慣らされている。一方アリアドネはそこまでのことをする必要はなく、祈りの作法や王家の歴史を学ぶことの方に重点を置かれていた。
「できたわ」
満足げに薬を眺めたアリアドネは、まずは粉状の薬二種類をそれぞれ薬包で丁寧に包んだ。次に液状の薬二種類は小瓶二つに流し込み、一方に印を付けた。
「エヴァ、これを。髪を戻すのはこちらよ」
二つの瓶の内、片方の印をエヴァに見せる。小瓶二つと薬包一つをエヴァに渡し、もう一つの薬包は巾着にしまい込んだ。
「アレクシス様と話をするわ」
エヴァは頷き、アリアドネを先導する。普通に回廊を通れば人に見つかるかも知れない。再び回廊奥の暗い通路に潜り込み、書庫とは反対側へと足を進めた。
こつこつと出口に合図を送ると、ほどなくして床板の外れる音が微かに響いた。
「陽の巫女、火急の知らせか」
通路から顔を出したアリアドネに手を貸しながら、アレクシスが焦りを滲ませたような声で尋ねた。アリアドネはチュニックの裾を軽く払い、アレクシスに向かって口を開いた。
「時間がありません。セレネーが狙われています。私は死を装って地下へ参ります」
「やはりパトスか……。しかし、死を装うとはどういうことだ」
「秘薬を使ってエヴァを陽の巫女に見せかけます」
「エヴァを陽の巫女だと言っても、信じる者はあるまい」
「顔に布を巻きます。祭壇の間で大きな怪我を負って死んでいたことにすれば、きっと皆信じるでしょう。アレクシス様がそうだと言えば、疑う者もそうはいません」
アレクシスは眉を寄せて唸り声を上げる。
「その程度でパトスが誤魔化せるとは思えんが」
「策は練ってあります」
アリアドネは巾着から先ほど作った薬包を取り出し、アレクシスに差し出した。
「これを遺体とその周りの蝋燭に少しずつ振りかけてください。それから人を呼んで、これはアリアドネだと宣言してくださればいいのです」
「これは一体?」
アレクシスは訝しげな顔でアリアドネを見つめた。
「ほんの少しだけ判断力を弱らせる効果があるものです。エヴァもその場にいるかのように振る舞ってくだされば、しばらくの間は誰も不審に思いません」
「あの子は……セレネーは、きっとその場で暴いてしまうだろう」
アリアドネは美しい笑みを浮かべて目を細めた。
「私の死体が見つかるのは夜更けです。そのときすぐにレネを起こす必要はありません。皆が遺体を私だと信じ棺に収め、容易に手を触れることができなくなってから見せるのです」
「陽の巫女が死んだと思えば、あの子がどれほど悲しむことか」
「アレクシス様、大丈夫です。レネにはわかるように細工をしておきます」
アレクシスは一瞬アリアドネの差し出した薬包に視線を向けるが、まだ手を伸ばさない。
「きっとレネは棺の中身が私ではないと気付きます。そのとき、騒ぎにならぬよう守ってください」
「あの子に本当のことを打ち明けてはやらんのか?」
アリアドネは一度視線を落とし、口元の笑みを消した。それまで浮かべていた自信を湛えた笑みを、悲しげなものに変える。
「打ち明ければレネはきっと、一緒に行くと言うでしょう。私はそれを望みません」
「しかし、月の巫女の力は厄災のときに必要だと聞いている。陽の巫女ならその仔細も知っているのではないのか」
「ええ、それでも……きっと、やり遂げてみせます」
アリアドネはアレクシスに揺るぎない視線を送り、一歩足を進めて伸ばした手を更に前に出した。アレクシスは薬包とアリアドネを見比べてから、小さく嘆息した。
「……最善を尽くそう」
ゆっくり差し出されたアレクシスの掌に薬包を落としたアリアドネは、口元に美しい笑みを浮かべた。
エヴァと共に部屋に戻り、そのまま翌日いつもどおりに一日を過ごした。次にセレネーに会えるのは、全てを片付けたあとだ。夕餉を共にし、普段と変わらぬ就寝の挨拶をした。部屋でエヴァに、アリアドネに見せかけるための細工を施した。セレネーにだけわかるように、髪の編み方はいつもと逆に。それ以外は本物のアリアドネと一分も変わらぬように。その日の夜も更けた時刻、アリアドネは一人地下迷宮へ向かった。
迷宮の道は、伝え聞いていたとおり迷うこともなかった。入口の石の扉は、開いてからしばらく待てば階段が現れる。多少時間を取られたが、特に慌てる必要もない。資格あるものが通り過ぎれば自然に閉ざされ、再び資格あるものがくるまで開くこともない。水や食料の準備も抜かり無く、女の足でも休みながら数刻もあれば十分辿り着けるだろう。
地下神殿での祈りは、数日がかりになる。月の巫女がいればすぐに終わるのだが。本当はアリアドネ一人で事足りるのか、完全な自信があるとは言えない。それでもやり遂げなければならない。
アリアドネは肩に掛けた革袋の重さに、額の汗を拭いならがゆっくり足を進めた。荷物がなければもっと早く辿り着けるが、今まで持ったことのないほどの大きな荷物だ。普段から慣らしておけばよかったと思うが今更だ。元々エヴァと二人で向かう道だったのだから、想定していたのはもっと軽い荷物だった。迷宮を進みながら額の汗を拭い、セレネーと初めて会った日のことに思いを馳せた。
『初めまして、アリアドネよ。月の巫女……あなたの名前は?』
声を掛けたアリアドネに、セレネーは大きく口を開いたまま目を瞬いた。月の巫女がどんな子供なのか。道すがら期待と不安の入り交じる複雑な思いを抱えていたアリアドネは、一目見てセレネーを好きになった。幼い頃から大人に紛れて過ごしていた、哀れな巫女。孤独の色は滲んでいるが、純粋で真っ直ぐな瞳に卑屈さはない。
『ふふっ。緊張してるのかしら。名前を教えてくれる?』
『セっ、セレネー!』
作法も忘れたそのあどけない名乗りに、アリアドネは心からの笑みを浮かべた。
『そう、セレネー。素敵な名前ね。今日から私もここに住むのよ。よろしくね』
差し出した手を恥ずかしそうに握り返すセレネーの手の、何と小さいことか。アリアドネもまだ子供であったが、セレネーはそれ以上に幼かった。この小さな巫女を守りたい、アリアドネはそう思った。
神殿に着いた翌日、先代の陽の巫女と二人きりで話をした。それは、陽の巫女による口伝を授かるための儀式だ。
『月の巫女と親しくすれども、情を移すことはまかりなりません』
『陽の巫女様……なぜですか?』
初めて会った祖母は、初対面で取ったアリアドネのセレネーに対する態度を戒めることから始めた。
『今からお前に口伝を授けます。それを聞けばわかります』
アリアドネは何も答えず、渋々といった表情で祖母を見上げた。
『お前は厄災の訪れる年に、神託を受けることとなります。どのような神託か、それは厄災の年の陽の巫女にしかわからぬこと』
アリアドネは頷くが、それがどう月の巫女に繋がるのか分からず眉を寄せた。
『よく聞きなさい、アリアドネ。厄災の年、陽の巫女は月の巫女を地下神殿の祈りの間に連れてゆかねばなりません』
『どうしてですか?』
『我ら陽の巫女は、厄災を鎮めるに足る力を持っていないのです』
アリアドネは、昨日会ったばかりのセレネーを思い浮かべる。あの小さな子を連れて、地下迷宮を抜けて神殿へいく。まるで冒険をするようで、少しだけ楽しみになる。
『アリアドネ、地下神殿へいくのは遊びではありませんよ』
咎めるような祖母の声に、アリアドネは自然と緩んでいた口元を引き締めた。
『セレ……月の巫女と神殿へいって、共に祈ればいいのですか?』
『そうです』
そんな簡単なことなら、あの子も一緒に付いてきてくれるだろう。アリアドネはその日がくるのが少しだけ楽しみだと思った。エヴァと三人で迷宮を通り、地下神殿で祈りを捧げる。その年の厄災を鎮めれば、あとは国の安寧を祈りながら暮せばいい。
『それだけでいいなら、月の巫女と仲良くなってもいいでしょう?』
陽の巫女は困ったようにアリアドネを見下ろし、ため息を落とした。
『いいですか、アリアドネ。月の巫女を地下神殿に連れていくのは、あの子の力をお前が受け取るためです』
『力を……受け取る?』
アリアドネには意味が分からず、祖母を見上げて首を傾げた。
『月の巫女と共に、地下の祈りの間で神の像に祈りを捧げるのです。さすれば、月の巫女の持つ全ての力をお前の中に取り込むことができる』
『そんなっ! そんなことしたら、あの子はどうなってしまうのですかっ?』
眉を寄せた陽の巫女は、アリアドネの肩に手を乗せ膝を落とした。
『月の巫女は、全ての力を失い只人になるのです。命を落とすことはないとされているけれど、本当のところは定かでない』
『そんな……そんなのいやですっ! 私はあの子を地下神殿にはつれていきませんっ』
『アリアドネっ』
祖母が一層険しい顔でアリアドネの顔を見下ろした。
『厄災を鎮めなければ、国は滅ぶのです。あの子一人の力でそれが防げるのなら、お前はそれをしなければなりません』
『そんなっ……』
『お前が常より早く神殿に上がるのはその為なのです。聞き分けなさい』
『嫌ですっ、絶対に嫌ですっ!』
その後祖母がどう答えたのか、アリアドネは覚えていない。当然よしとされた筈もなく、納得できなかったアリアドネが記憶を残さなかったのだろう。
セレネーと過ごす日々は心安らぎ、いつしか本当の妹のように思うようになった。エヴァも年下ではあるが、忠実な侍女だ。信頼を寄せているが、アリアドネに甘えてくることはない。だから、彼女を妹のように思ったことはなかった。一方セレネーはまだ幼く、年の近い者が今までいなかったこともあってかすぐに心を開いた。
何の下心もなく笑いかけ、アリアドネのことを見つめる瞳は常に輝いている。生まれたての雛鳥のように自分を追い求める姿に、心満たされていたのはアリアドネの方だった。
リアの手紙にも、度々セレネーの話を書き綴った。森の子リスのように臆病で可愛らしい子。漆黒の髪が美しく、頭を撫でてやれば子猫のように目を細める。民から選ばれたことや、その役割が周知されていないせいであまりいい扱いを受けていはいない。けれど、アリアドネの前で理不尽なことがなければ咎めることもできない。守るべき可愛らしい妹だと手紙に綴るうち、リアもセレネーのことを気にかけるようになった。
遂に厄災にまつわる神託を受けたとき、その言葉に血の気の引く思いだった。祖母の言っていたとおり、アリアドネがセレネーの力を、ともすると命をも奪うかのような神託だ。やはりセレネーを地下神殿に連れていくことはできない。
アリアドネはここ数代のうちで、一番力の強い巫女だと言われていた。それは祖母も認めたことだ。けれど、厄災の前兆が現れたなら、アリアドネの力だけでは足りないのだとも言い含められていた。それでもアリアドネは、セレネーを連れていく気にはなれなかった。自分の持てる全ての力を使い、厄災を鎮めてみせる。ただそれしか考えられなかった。
厄災の前兆が訪れるようになってから、パトス派の動きが活発になり始めた。エヴァのお陰で大分探ることはできていたが、いつどんな風に動くのかがわからなかった。
リアへの手紙に厄災の時期を記し、レネを守ってほしいと何度も懇願した。リアは、自分が一番に守るべきは陽の巫女だと譲らなかった。けれど、きっとセレネーに会えば考えも変わるだろう。一緒にあの子を守ってくれるはずだ。アリアドネはそう信じていた。
本来ならエヴァと二人で地下神殿に向かう間、アンドリオンとヴァンにセレネーを守ってもらうつもりだったのだが。パトス派が予想外にセレネーを狙い始め、予定が狂ってしまった。急遽アリアドネの死を偽装し、一人で地下神殿を目指すことになってしまったのだ。
地下神殿に辿り着いたアリアドネは、祈りの間と居住区を数日間行き来した。日々神の像に祈りを捧げ、厄災を鎮めるための力を蓄える。何日も繰り返せばきっと、アリアドネ一人でも厄災を鎮めることはできるはずだ。幾度もそう言い聞かせて、心細さを誤魔化した。
今頃セレネーはどうしているだろうか。エヴァとヴァン、それにアンドリオンがあの子を守ってくれているはずだ。厄災の訪れを示す月食は今夜だ。祈りを捧げ終えたら迷宮入口にある祭壇へ向かわなければ。
祈りを捧げるアリアドネの後ろで、祈りの間の扉が少しずつ開いていく。祈りを終えたアリアドネがゆっくり手を下ろし、神の像を見上げてから振り返る。真っ直ぐ祈りの間の入口に視線を向けたアリアドネは、全身が凍りついたかのように動けなくなり、神の像の前で立ち尽くした。




