5-4
「レネは……まだ迷ってるのか?」
どことなく気遣うような物言いに、セレネーはゆっくり顔を上げた。アンドリオンの視線は責めるでもなく、急かすでもないように見える。
そう言えば出会ったころ、アリアドネに少し似ていると思った。セレネーが地下書庫でアンドリオンに助けられたときのことだ。書庫を出ようとして転んでしまい、役立たずな自分が嫌でたまらなかった。情けない気分をどうしていいか分からなかったセレネーに、アンドリオンは呆れるでもなく落ち着いた声で励ましてくれた。淡い茶色の髪も、アリアドネの白金の髪と重なって見えた。もしかしたら、アンドリオンの髪色も白金なのかも知れない。彼等はいとこ同士で、共に王家の血を引いているのだから。二人がどことなく似て見えたのは、きっとそういうことだったのだ。
「正直言って、まだどうしたらいいかわからない」
「そうか。慌てて決めなくてもいい……と言ってやりたいところだが、あまり時間はない」
「わかってるわ」
アンドリオンは苦い笑みを浮かべて視線を逸らした。
アリアドネとアンドリオン、二人が似ていると思ったのはいとこ同士という理由だけなのだろうか。セレネーは、気まずそうに視線を落としたアンドリオンをじっと見つめた。
アリアドネが隣国で過ごした十年。セレネーの知らないその年月を、二人は互いに知っている。胸の奥にもやもやとした気持ちが湧き上がり、セレネーは小さく息を吐いた。二人が似ているのは、セレネーを守るという同じ目的を持っているからかも知れない。その根底にあるものが何なのか、今のセレネーにはわからないが。
考えれば考えるほど、どうするべきかわからない。では、自分はどうしたいのだろうか。アンドリオンの話では、厄災を鎮めるにはやはり月の巫女が必要なのだ。それをわかっていながら、セレネーを置いていったアリアドネの真意はわからない。ならば、セレネーはそれをアリアドネから直接聞きたいと思う。
セレネーのこれまでの生活は、アリアドネが中心だった。ずっと一緒にいられると思っていたアリアドネが目の前から突然消えて、言い知れぬ焦燥感に駆られた。前のセレネーなら、アリアドネが望むならただ待っていただけだろう。けれど、今は違う。
アレクシスやアンドリオン、エヴァやヴァン、そしてパトス派。今まで思いつきもしなかった他者の考えを見聞きした。普通の人に比べたら少ないが、セレネーにとっては多くの収穫だ。当たり前のことだが、人はそれぞれの考えがあり、それに基づいて行動している。そんなことすら見ようとしていなかった。ただアリアドネに導かれるまま、ただアリアドネの側にいたいだけ。
アリアドネという道標を失いそうで、必死にもがいた結果がこれだ。結局人は誰しも自分の足で歩くしかない。決められた道を歩くだけではだめだったのだ。それに気付いた今は、自分の意思で進む道を決めなければならない。
「リアに、会いに行くわ」
セレネーはアンドリオンを真っ直ぐに見つめた。その揺るがぬ口調にアンドリオンが息を呑んで顔を上げた。
「……いいんだな?」
「ええ。リアのとろに連れていって……いいえ、一緒にいきましょう」
アンドリオンはセレネーの視線を正面から受け止め、しっかり頷いた。
二人は淡い光の満ちた広場から足を踏み出し、迷宮の先へ向かった。光る石は二人の進む先を柔らかに照らし、迷うこと無く導いていく。
「ねえ、アリアドネが生きてるってことはわかったわ。じゃあ、棺の中の人は誰なの?」
セレネーは、アリアドネだと言われていた棺の中の女を思い起こした。松明や蝋燭の灯だけでははっきりしないが、髪色は白金のように見えた。この国ではまず見ない色だが、隣国なら珍しくないのだろうか。
「あれは、エヴァだ」
「えっ?」
セレネーは思わず足を止め、アンドリオンを見上げた。
「でも……エヴァは生きてるわっ」
棺の中の女は、息をしていなかった。顔は見えなかったが、指先にも血の気は感じられなかった。髪色も違うし、紫の肩掛け布も纏っていた。あれがエヴァであったとは、にわかには信じられない。
「アリアドネの作った仮死の薬を飲み、髪も染めてた」
「……リアは、そんな薬も作れるの?」
「そうだ。ここ数十年の中では、一番力の強い陽の巫女だと言われてるくらいだからな」
「……そう」
アリアドネとエヴァ、アンドリオンとヴァン。四人はその事実を共有していたのだろう。セレネーの胸に、黒い靄のようなものが渦巻いた。
「でもっ、肩掛け布は? 資格のない者が纏えば無事には済まないはずじゃ」
「あれは、血の契約を結んだ肩掛け布じゃない。本物はアリアドネが纏ったままだ。明るい陽の下で見れば、色が薄いこともわかってしまう」
セレネーはごくりと喉を鳴らした。色が薄いとは言え、紫の布は大変貴重なものだ。それの代わりを簡単に用意できたというのは、元とは言っても王家だからだろうか。
「月の巫女の肩掛け布はどういうものなの?」
「……あれに血の契約はない。月の巫女は血の繋がりで選ばれるものではないからな」
「そうね。じゃあ、あれは月の巫女以外の人が身につけても何も起こらないのね?」
「まあ……そうだな」
歯切れの悪いアンドリオンの返事に、セレネーは、もしやと思いあたる。もしかして、あの肩掛け布は。
「エヴァが着ていたのは……月の巫女の肩掛け布なの?」
アンドリオンが頭を掻きながら、眉を下げて視線を逸らした。
「そうなのね? でも、どうして誰も気付かなかったの?」
そこまで口に出してから、ふと祭壇に置かれた棺の様子が脳裏に浮かんだ。セレネーがあれをアリアドネではないと思ったのは、髪の編み方が違ったからだ。髪の色は恐らく白金だという程度だったし、服装や装飾品におかしなところは何もなかった。儀式のときだけとは言え、元々あの肩掛け布を身に着けていたのはセレネーだ。にも関わらず、当のセレネーですら月の巫女のものだとは気付かなかった。他の人間があれをアリアドネだと言われれば、疑うこともないのかも知れない。
「祭壇の間は常に陽の光は差し込まない。松明と蝋燭の灯だけでは色の違いは判別できないだろう」
「……そうね」
セレネーは俯き加減で唇を噛み締めた。つまり、月の巫女の肩掛け布はさして特別なものではないということだ。薄いとはいえ色は紫なのだから、簡単に手に入るものではない。けれど、アリアドネやアレクシスの纏うもののように、選ばれたものが纏うという性質のもではないということだ。
「レネ、月の巫女の肩掛け布に血の契約がないのは、単にそれができないだけだ」
セレネーはアンドリオンを見上げた。
「でも、色も違うし意味があるようにも思えないわ。常に身につけることを許されたわけでもなかったし」
「いや、あれも特別なものだ。月の巫女が現れるようになってから、そのためだけに誂えられたものだからな」
セレネーは再び石の光に照らされた道へ足を踏み出し、アンドリオンがそれに続いた。考え込みながら歩くセレネーを見下ろしたアンドリオンは、何かを言おうとして口を閉じる。
「月の巫女が肩掛け布を儀式の時しか身に着けないことに、何か意味があるのかしら」
「いや、それは……何か覚えてないのか?」
「何かって?」
アンドリのは少しの間視線を彷徨わせてから、迷うように口を開いた。
「例えば、子供のころに何かあったとか」
セレネーは俯きしばらく考える。子供の頃――何かあっただろうか。自分が神殿にきてからのことを思い起こすと、名前も忘れてしまった侍女が頭に浮かんだ。
身支度や人との接し方、食事の作法や挨拶の仕方。神殿での暮らしを優しく教えてくれたのは、母のような年頃の侍女だった。一人で着替えができるようになったのも、彼女のおかげだ。まだアリアドネがくる前で、心細くてたまらなかった。あの頃はアレクシスもよく抱きしめてくれた。それでも寂しさは埋まらなかったが、二人のお陰でどうにか過ごせたのは事実だ。
セレネーは侍女のことをぼんやりと思い浮かべるが、やはり顔も名前もわからない。しかし考え込んでいるうちに、ふと儀式の支度をしていたときのことを思い出した。
『この肩掛け布は、月の巫女が身に着けるものなのですよ』
『つけなきゃだめ?』
『そうですね……どうしてもお嫌ですか?』
『だって、おもくてじゃまなんだもの』
侍女は困ったような顔をして、アレクシスと相談すると言ったような気がする。そうだ、まだ幼いセレネーにとって、大人が身に纏う大きさの布は煩わしかったのだ。身に着けることを嫌がったのは、セレネー自身だ。
そのうち侍女がソフィアに代わり、本来なら常に纏ってもよかったはずのものがそのままになったのかもしれない。アリアドネにはこのことを話したような気がするが、笑って聞いていたことを薄っすら思い出す。『レネが嫌なら着なくていいのよ』と、頭を撫でながら笑っていたような。まだ子供の頃のことで、セレネーはそのまま忘れていた。自分が嫌だと拒絶したのに、身に着けることを許されていないと思い込んだのはセレネーだ。
「そう……ね。子供のころに。そうだったのね」
呟くセレネーの様子に、アンドリオンは小さく笑みを浮かべた。
「何か思い出したみたいだな」
「ええ、そうね」
セレネーは曖昧に微笑み、そのまま先の道を見つめた。
「あとどれくらいで神殿に着くのかしら」
「もう少しで着くはずだ」
セレネーは歩調を少しだけ緩め、アンドリオンより半歩遅れて後ろを歩く。
「あなたも髪を染めてるの?」
アンドリオンは一瞬肩を揺らし、セレネーを見下ろした。
「ああ」
「本当はリアと同じ白金なのね?」
「そうだ」
更に少し速度を落とし、アンドリオンをゆっくり見上げた。柔らかな石の光に照らされた髪は淡い茶色だが、この国ではここまで光に透ける色の者はいない。初めて会ったとき、アリアドネの髪色と重なったのは気の所為ではなかったのだ。
「どうした、疲れたのか?」
「いいえ、大丈夫。もうすぐリアに会えると思うと、少しだけ緊張してきただけよ」
「そうか」
疑いもせずに前を歩くアンドリオンの背中をぼんやりと見つめる。アンドリオンから聞いた話の中で、セレネーにはまだ気になるところがある。けれど、それを聞くべきかどうか迷っていた。アンドリオンの答えが自分の思っていることと同じであったら。そう思うと中々口に出すことができない。だからと言って聞かずにいても、後になればきっとわかることなのだ。
「ねえ、あなたが私を地下神殿に連れていきたいのも、口伝があるから?」
「……まあ、そうだな」
「リアはどうして私に月の巫女の役割を教えてくれなかったのかしら。前の厄災では、伝えられていたのよね?」
アンドリオンは唸り声を上げて少しの間考え込む。
「俺にもアリアドネの考えはわからない。王家の歴史では、前回の厄災で月の巫女も役割を伝えられていたとされている。記録があるわけじゃないし、伝聞だからな。必ずそうだったかはわからんが……月の巫女が反乱分子に取り込まれず、地下神殿に向かったのは恐らく役割を知っていたからだろうな」
「どうしてそう思うの? 私だって役割を知らないのに神殿に向かってるわ」
「レネの場合は役割だけじゃなく、アリアドネに会いたいからってのもあるだろ? 前回の巫女二人は、生活してる場所が地下と地上で離れてた。レネとアリアドネのように深い絆があったとは思えない」
確かに陽の巫女と交流がないまま、セレネーのように何も知らず孤独に過ごしていたとしたら。例えばパトスの者たちに大切に扱われていたら。陽の巫女を疑い、甘言に乗せられたかも知れない。とは言え、先代の月の巫女がどのように過ごしていたかはわからないが。もしセレネーと違い、始めから役割を知っていたなら、国のために尽くそうと思ったかも知れない。
「もうすぐだ。あの門を潜れば地下神殿の中に入れる」
目の前に現れたのは、大きな石の門だ。その入口は硬く閉ざされ、訪れるものを拒絶しているかのようだ。アンドリオンは迷うこと無く石の門に向かい、王家の紋章に手を当てる。門に埋め込まれた丸い石が白い光を放ち、セレネーは思わず目を閉じた。すぐに小さく地鳴りが響き、重い石が動く音が響いてきた。恐る恐る目を開くと、大きな門が内側へ開いていた。
「いこう」
アンドリオンに促され、セレネーは数歩後ろを付いていく。横に並んで歩くことはできず、黙ってその背中を追いかける。
アンドリオンが一歩足を踏み入れると、迷宮よりも明るい光に満たされた。光の粉が舞うようで、セレネーは思わず目を瞬いた。
白い石造りの神殿は、地上の神殿に勝るとも劣らない。両脇には等間隔に円柱が並び、地下とは思えぬ光景だ。陽の巫女が地下で暮らしていたと聞いて、思い浮かべたときには息苦しさを感じた。ところが実際きてみれば、明るく澄んだ空気に満たされ心地いい。
途中でいくつか左右に伸びる道が見えるが、アンドリオンはそのまま真っ直ぐ進んでいく。恐らく別れた先には居住区がるのだろう。アンドリオンが向かっているのは、きっとアリアドネのいる祈りの間だ。
「レネ、あの扉の先が祈りの間だ」
アンドリオンが振り返り、少し先に見える突き当りの扉を指さした。セレネーは扉を見た後、アンドリオンに視線を移した。小さく頷いたアンドリオンが、扉に向かって足を進めた。
「ねえ、ひとつ聞きたいことがあるの」
「なんだ?」
アンドリオンはゆっくり足を進め、あと数歩で扉に届く。
「さっき話してたことなんだけど」
アンドリオンは祈りの間の扉に手を掛け、セレネーを振り返る。
「さっきの話?」
「そう。あなた、どうして私が子供のころに肩掛け布を嫌がったことを知ってたの?」
アンドリオンは目を見開き、扉の取手に掛けた手に力を籠めた。扉がゆっくり開き始める。
「あなたとリアは、一体どんな繋がりがあるの?」
アンドリオンが開いた扉の先を、セレネーはじっと見つめた。目を凝らすと一番奥には、ローブを纏い竪琴を持つ神の像が見えた。その前で両手を掲げ、祈りを捧げているのは――アリアドネだ。ああ、やっと会えた。後ろ姿でもセレネーにはすぐにわかる。
アンドリオンがごくりと喉を鳴らす音がする。セレネーはアリアドネから視線を逸らさず、もう一度尋ねた。
「答えて――アンドリオン」




