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5-3

 今から数百年前、それは厄災の訪れる年のことだった。陽の巫女は地下神殿で生まれ育ち、月の巫女は民から選ばれ地上の神殿で暮らしていた。厄災の訪れと共にその使命を全うするために。

 

「陽の巫女様、上の者たちが騒ぎ始めています」

「そう……やはり巫女の力は信用できないと?」

「……はい。どれほど言葉を尽くしても、あの者らには伝わりません」

 

 静謐な空気に満たされた地下神殿の祈りの間で、陽の巫女の前で俯いているのは彼女の侍女だ。

 

 地上では、民を先導した分家の一派が一斉蜂起したようだ。地下神殿で暮らすのは、陽の巫女とその家族。それらを世話する侍女や侍従、更には神殿衆や神殿女たちがいる。その全てが血族ではないが、皆陽の巫女を敬い付き従っている者たちだ。

 

「困ったことね。地上の兄様たちはどうされるのかしら?」

「恐らく月の巫女様と共にこちらに向かわれるかと」

「月の巫女はきてくれるかしら?」

「ええ。巫女様はよくわかってくださっています。ご自分の役割も、陽の巫女様の力も」

 

 陽の巫女は小さく頷き、憂いを帯びた笑みを浮かべた。

 

「神託によれば、もうすぐ厄災が訪れる。争いをしている場合ではないというのに」

「おっしゃるとおりです。神の御心に違うようなことをすれば、国は滅びてしまいます」

「それも、何度説いてもわかってもらえなかったのね」

 

 陽の巫女は優雅に袖を揺らし、チュニックの裾を翻して神の像に向かう。両手を挙げて祈りを捧げ、後ろの侍女もそれに続いて俯いた。

 

「かあさまっ」

 

 祈りの間の入口から、高く弾むような声が響いてきた。ころころと鞠のように跳ねながら走ってくるのは、陽の巫女の娘だ。陽の巫女はゆっくりと振り返り、自分の口に人差し指をそっと立てた。

 

「ここは祈りの間よ? 母様の言ったことを忘れてしまったかしら」

 

 幼子は「あっ」と小さく声を漏らし、すぐに両手で口を閉じた。上目遣いに母を見上げ、きまり悪そうにもじもじと足を動かす。

 

「ふふっ。仕方のない子ね」

 

 陽の巫女は言葉と裏腹に柔らかな笑みを浮かべ、娘をそっと抱き上げた。地上の騒ぎが収まらなければ、幼い我が子と共に暮らすことは叶わなくなるだろう。両腕にぎゅっと力を込め、幼子の甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 静かに振り返り見上げた神の像は、周囲に埋め込まれた石の光に淡く照らし出されている。薄いローブを身に纏い、竪琴を弾くその姿は慈愛に満ちていた。腕の中の娘を見下ろすと、自分の身につけた深い紫の肩掛け布が目に留まる。どうかこの子が健やかに育ちますようにと願いを込めて、神の像を見つめてから踵を返した。

 

 扉を出ると、巫女の夫が出迎えた。両腕で二人をしっかり抱きとめ、小さく息を吐いた。男は、陽の巫女と同日同時刻の生まれだ。巫女一人で厄災を鎮めることが困難になったころ、月の巫女と同じく現れるようになった守護者だ。厄災を迎える時代にだけ生まれる、特別な役目を与えれた存在だ。それは神託によるもので、陽の巫女を守り支える者だった。同じ建国の祖である巫女の血を引くこの二人は、固い絆で結ばれていた。

 

「もしものときは、隣国へ行くことになる」

「ええ」

 

 男は更に腕に力を込める。

 

「とおさま、くるしいよっ」

 

 幼子が身体を捩り、二人の腕から抜け出そうともがく。

 

「ごめんよ、もう少し我慢しておくれ。三人でいられるのも、きっともうあと僅かなのだ。お前も、母様の温もりをしっかり覚えておきなさい」

 

 幼い子供には理解することができなかった。けれど、ただならぬ様子に不安げに瞳を揺らして母である巫女にしがみついた。

 

 一方、地上の神殿は混乱を極めていた。国を治める陽の巫女の兄王は、月の巫女を伴い神殿を出ようとしていた。蜂起したのは王家の分家であるが、全ての者ではない。中には陽の巫女や、王のあり方を支持する者たちもいた。反乱を起こしたのは現在のパトス派の元であり、王家を支持していたのがノモス派の祖だ。

 

「お前にこの肩掛け布を託す」

「畏れ多いことにございます」

「奴等に渡すわけにはいかん。資格のない者が纏えば、国が滅びるのだ」

 

 王は分家の中でもとりわけ巫女の血に近い、自分の従弟に肩掛け布を差し出した。

 

「このまま纏えばお前とて無事には済まぬだろう。まずは奴等の中で求める者に渡してみればいい」

「そんなことをすれば纏った者は……」

「無事には済むまい。だからこそ、お前が身につけることを咎める者も出てこまい」

 

 肩掛け布を差し出された男は、受け取ることができずに視線を彷徨わせた。

 

「ははっ、そう恐れるな。持つだけなら何の心配もない」

「ですが、それでは私に纏うことはできません」

 

 王は一度頷き、肩掛け布を天にかざした。

 

「陽の巫女は既に神の許しを得ている。お前が纏うのは、巫女がこれに分家の紋章を縫い付けてからだ。後はお前の子孫がそのまま王家を継げばいい」

「それでは元来の神のご意思に背くこととなります」

「案ずることはない。いつか必ず我らの子孫が戻って来る。それまでお前に預けるだけだ」

 

 もう一度差し出された深い紫の布を、男は両手で受け取った。

 

「この私をずっと支えてきたお前だ。王としての役目を立派に果たすだろう」

「いつか戻られる日まで、お預かり致します」

 

 王は頷き、そのまま部屋を後にした。従弟以外の側近の者たちと祭壇の間に向かい、月の巫女と合流する。

 

「巫女、そろそろ参るぞ」

「はい」

 

 祭壇で祈りを捧げていた月の巫女は、王を振り向き小さく頷いた。王と月の巫女は、神殿内部にある秘密の通路へ潜っていった。そのまま進めば地下迷宮の入口近くまで繋がっている。この通路は建国の祖である巫女の直系のみしか知らぬ通路だが、王は迷わず皆を従えその道を通った。この中に生きてこの場所を再び通ることができる者はいないからだ。厄災を鎮めた後は、皆隣国へ向かうことになっている。

 

「お前は、二度と国に戻れなくなってもいいのか?」

 

 王は斜め後ろを歩く月の巫女を振り返った。

 

「私には国に身寄りもありません。役目を終えても帰る場所がないのです」

「そうか」

 

 王は頷き、そのまま松明の明かりの届かぬ先の通路をじっと見つめた。この後迷宮を抜け地下神殿に辿り着いたあとは、陽の巫女と月の巫女が厄災を鎮める。その後は、隣国への旅路が待っている。


 今代の月の巫女が現れた頃から、分家の一部が騒がしかった。陽の巫女が直系からしか生まれないのはなぜか。権力を独占しているだけではないか。陽の巫女の力は本物なのか。神託が仕組まれたものではないとどう証明するのか。月の巫女は厄災に対してどのような役割があるのか。


 これらは、全てその役割を全うする者だけに口伝で伝えられてきたことだ。月の巫女には陽の巫女からその使命を知らされる。血によって選ばれることのない唯一の存在故に、陽の巫女から伝えられる以外に知る術はない。なぜ神が民の中から月の巫女を選ぶのか、それは誰にもわからない。

 

「一つ、伺ってもよろしいですか?」 

「なんだ?」

「なぜ、口伝の内容を他の者たちに知らせないのですか?」

 

 月の巫女の問いに、王は少しの間考えてから、重々しく口を開いた。

 

「始めは単に記録を残すための道具がなかった」

「確かに、今のような墨も紙もなかったことでしょう」

 

 神殿には数多の本が置かれていた。物語や国の歴史、天文学など生活と密接に関わる知識を伝えるものが揃っていた。

 

「だが、それだけではない。千年と少し前までは、口伝の内容は分家の者も知っていたのだ」

「それが今は伝わっていないのでしょうか?」

「そうだ」

「……書物に残す者もいなかったのですか?」

 

 王は歩調を緩め、月の巫女の隣に並んだ。

 

「書物が残せる時代には、既に分家の中からその知識は薄れていた」

「何があったのですか?」

「口伝の内容を教えたところで、理解しない者は出てくる。結局火種が増えただけで、何の益もなかった。陽の巫女の夫の座を巡る争いが起きたり、王となる巫女の息子を取り込もうとしたり。それ故、口伝で残すのみとなった」

 

 月の巫女は少しの間逡巡してから、おずおずと口を開いた。

 

「あの……隣国へ行くのは、本当に危険はないのでしょうか」

「危険とは?」

「一部の分家のように、陽の巫女様の血筋を利用しようとする者たちが現れたりはしませんか?」

 

 王は一瞬目を見開き、すぐに自信たっぷりな笑みを浮かべた。

 

「なに、そのようなことにはならん」

「なぜでしょう?」

「あちらの国も、厄災が起きては困るからだ。あちらは我が国より後からできた国だが、巫女による建国の歴史は浸透している。もし陽の巫女の意に沿わぬことをしでかせば、あちらの国も無事では済まん。それ故、我らを無碍に扱うこともない」

 

 月の巫女は安堵の息を漏らした。松明の届かぬ先の道は、まだしばらく続く。一行は足を緩めず迷宮へ、更には地下神殿への道をひたすら進んだ。


  

 その頃、神殿では民を従えた分家の一派が雪崩込み、王の行方を追っていた。しかし、神殿の地下通路の存在を知る者はない。王とその側近たち、さらには月の巫女がどこへ消えたのかも分からない。周囲を取り囲んでいたにも関わらず、王家の者たちが忽然と消えたことで民は混乱を来した。やはり王家や巫女の力は本物だったのではないか、神の怒りに触れるのではないか。


 王の従弟である紫の肩掛け布を授けられた男は、毅然とした態度で分家の一派に対峙した。できるだけ時間を稼ぎ、王や陽の巫女が厄災を鎮めるための時間を稼げるように。儀式を終えたあとに、王や月の巫女たちが隣国へ無事渡れるように。

 

 地上で肩掛け布を託された王の従弟が時間を稼ぐ間、王が率いる一行は無事地下神殿に辿り着く。陽の巫女は先に儀式の準備を終え、到着を待ち侘びていた。既に日は沈み、空には丸い月が浮かんでいた。

 

 

「月の巫女、よく来てくれました。礼を言います」

「陽の巫女様、勿体なき御言葉です」

「そのように畏まらずともよろしいのです。貴女がいなければ、厄災を鎮めることもできぬのですから」

「いいえ、お役に立てて光栄にございます」

 

 陽の巫女は月の巫女の前に立ち、その手をそっと握った。

 

「貴女の役目は既に伝えたとおりです。心の準備は整っていますか?」

「はい。陽の巫女様の御心のままに」

「では、参りましょう」

 

 陽の巫女と月の巫女は祈りの間へ消えた。祈りの間の前では陽の巫女の夫と幼子、兄王とその側近、地下神殿で仕える者たちが静かにその終わりを待った。祈りの間から二人が出てくると、再び地下迷宮を通って地上にある迷宮入り口近くの祭壇へ向かった。

 

 祭壇で祈りを捧げた陽の巫女は、その年の厄災を見事に鎮めた。見守ったのは兄王と月の巫女、彼らの側近や世話をしていた神殿の者たちのみだ。どのような儀式が行われ、どのように厄災を鎮めたのか。それは、役割を持ったそれぞれが口伝で伝えられている内容を知るのみで、何の記録にも残っていない。


 その後、陽の巫女は自ら国に残り、それ以外の者たちは隣国へ去った。月の巫女がどうなったのか、詳しいことはわかっていない。国中の書物は一部を除き、分家の一派によって焚書に処せられた。それまで残っていた歴史の記録も失われ、分家の書いた歴史書と、陽の巫女の残した書だけが残された。


 それ以降の陽の巫女は、神託があれば隣国へ使いを送り知らせるようになった。次代の陽の巫女は、ある程度の年齢になると国の神殿へ迎えられる。伴侶を得て子を成し、次代の血を繋いでからというのが通例だ。そうしてまた国の安寧を祈り、神託を受けて次代を指名する。ヘリオニアはそうして数百年の時を過ごした。

 


「待って、陽の巫女は子を成してからこの国へくるの?」

 

 セレネーはアリアドネが神殿に来た日のことを振り返る。あれはまだセレネーが六つ、つまりアリアドネは十の頃だったはずだ。

 

「そうだ。これまでの巫女は皆そうだった」

「じゃあ、先代の陽の巫女様にも夫と子供が隣国に……」

 

 言い掛けたところで、それもそうかと思い直した。神殿で先代の陽の巫女は一人だった。セレネーが神殿に来たときは既に親より上の年齢で、伴侶や子どものことなど考えたこともなかった。けれど、陽の巫女が必ず直系であるならば、その子供がどこかにいなければおかしい。アリアドネも直系なのだから、先代とは祖母と孫の関係だったのかも知れない。それにしては距離があるように感じたが、アリアドネが生まれた頃には既に先代はこの神殿にいたのだろう。一度も会ったことのない祖母と孫娘では、近しく見えなくても当然だ。


「どうしてリアは違うの?」

「さあな。神託が降りたからという以外に俺にも説明はでない。まさに神のみぞ知るってやつだろう」


 アンドリオンは肩をすくめながら首を傾げた。この様子では、本当に何も知らないのだろう。

 

「リアが地下神殿へ行ったのは、厄災を鎮めるためよね?」

「ああ」

「月の巫女が必要なのに、なぜ私を連れて行かなかったの?」

 

 アンドリオンは腕を組み、一寸の間を置いて答えた。

 

「それが俺にもわからん。俺は、月の巫女は儀式に必要だと聞いていた。だからレネを連れていくべきだと思ったし、今もそう思ってる。なぜアリアドネとエヴァがそれを避けようとするのか、俺は本当に知らない」

 

 セレネーはしばらくの間考え込み、再び口を開いた。

 

「あなたの知ってる歴史でも、結局月の巫女がどうなったのかは分からないの?」

「……そうだな」

「隣国へ一緒に行ったのではないの?」

「それが、あちらの国にもその記録も口伝も残ってはいない。だから、俺も月の巫女がどうなったのかは知らないんだ」

 

 セレネーはアンドリオンをじっと見つめた。少し眉を寄せたその顔は、セレネーを心配しているようにも見える。一方で、セレネーが先に進まないと決めたときのことを不安に思っているとも取れる。

 

 アンドリオンから聞いたこの歴史が本来のものであるなら、パトス派の執政官が言っていたことは間違いだということだ。どちらにも共通しているのは、王家の者たちが隣国へ行ったこと、厄災がこなかったこと、陽の巫女だけが国に残ったこと。そして、月の巫女がどうなったのかわからないということだけだ。

 

 セレネーは俯き、アンドリオンから聞いた話を頭の中で繰り返す。何が真実か、何を選ぶべきか。自分が信じるべきことは何か。アンドリオンと二人きりの迷宮で、座る石の冷たさにセレネーの身体の芯が小さく震える。どの道を選ぶのか、ここで決めなければならない。不思議な石の淡い光に照らされて、ぼんやりと目に映る石床を見るともなしに見つめる。


 セレネーの前に広がる分かれ道は、どちらの道が正解なのだろうか。小さな光の灯る道を探そうと、セレネーは必死に圧し潰されそうな心を奮い立たせた。

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