5-2
「大したものは持ってこれなかったが、今のうちに腹に入れておこう」
アンドリオンは腰のポーチから麻布をいくつか取り出した。中には小分けにした食料が包まれている。干した肉やいちじく、さらにはナッツも用意されていた。
「ありがとう。色々準備してくれてたのね」
「いや、本当はもっとちゃんと準備してたんだが……ここに潜る前にパトスの奴等が先に動き出したせいで、持ち出せたのはこれだけだ」
セレネーはいちじくをかじりながら、他にどんなものが必要だったのか考えてみるが思いつかなかった。
「こんなものしか持ってこれなくて悪かった。レネを準備不足だなんて言ったが、これじゃ大して変わらんな」
「そうなの? そもそも私は何を持ってくるべきかも思いつかないから、不足してるのかどうかすらわからないわ」
セレネーは肩を竦めながら、次に食べる干し肉を選び取った。硬い肉を噛み砕こうとするが、中々砕けない。けれどなんだか懐かしいような、胸の奥が軋むような感覚を覚える。
「干し肉は硬いだろ。大丈夫か?」
「ええ」
セレネーは考え込みながら答えた。ゴリゴリと響くこの音は、昔聞いたことがある。ああ――そうだ。セレネーが神殿に売られたとき。その道すがら、両親が干し肉を齧っていた音だ。今頃になってそのときのことを思い出し、苦い笑みが微かにこぼれた。
両親は幼いセレネーが食べやすいように、干し肉を小さく砕いて水に浸して与えてくれた。途中で食事ができるような場所に立ち寄ることもなかったような気がする。セレネーを売るくらいなのだから、きっととても貧しかったのだろう。噛み砕いた干し肉を飲み下し、セレネーはアンドリオンの麻布を覗き込む。
次に手に取ったのはナッツだ。これはアリアドネの好物だった。そう、今考えなければならいのはアリアドネのことだ。先に進むか戻るのか。皮のほんのりとした苦みの後に、噛み砕いた実の甘みと素朴な香りが口に広がる。華やかなアリアドネの好物が、地味でありきたりなこの味なのだ。
セレネーは差し出された革袋を受け取り、口の乾きを潤した。食べ物を胃に入れたことで、先程より考えがまとまりそうな気がする。アンドリオンに革袋を返しながら、尋ねるべきことを思い浮かべ、躊躇いがちに口を開いた。
「リオンは……どうして紋章を知ってたの?」
アンドリオンは一度革袋の水を煽り、手の甲で口元を拭った。一つ息を吐いてから、セレネーを真っ直ぐ見つめる。
「まずは、この国の歴史について話してもいいか?」
「それなら私だって知ってるわ」
「いいや、それは前回の厄災でこの国を治めることになった分家の伝えているものだ。正確なものじゃない」
セレネーは息を呑み、少しの間考え込んだ。
「それなら、パトス派の言っていたことは? 陽の巫女には厄災を鎮められないって」
「それも間違いだ」
「リオンはなぜそう言い切れるの?」
アンドリオンは苦い顔をして視線を逸らした。片手でぐしゃりと髪を掻き上げ、大きくため息を吐く。
「……俺とヴァン、そしてアリアドネとエヴァは隣国出身だ」
「そうみたいね」
アンドリオンは一瞬目を瞠り息を呑んだ。少しの間逡巡してから再び口を開く。
「俺とヴァンが隣国の者だと知ってたのか?」
「……いいえ、偶然隣国の言葉を話してたのを聞いただけ」
「そう……か」
アンドリオンはゆっくり息を吐き出し、口を開いては閉じてを繰り返す。セレネーはアンドリオンを見上げ、静かに口を開いた。
「リアが王家の直系だっていうのも知ってる。アレクシス様と二人で話したのはそのことよ」
「……そう……だったのか」
アンドリオンは小さく頷き、覚悟を決めたようにセレネーに視線を合わせた。
「俺は王家の傍系だ。はっきり言うと、アリアドネは俺の従姉妹だ」
一瞬アンドリオンの言葉がセレネーの耳を通り抜けた。何を言われたのか理解するのに一呼吸遅れる。アリアドネが従姉妹――だとするなら、やはりセレネーとは身分の違う雲の上の人だ。本来なら話すこともなかっただろう。そんな人がなぜ目の前にいるのだろうか。セレネーは頭が真っ白になり、何も言葉が出てこない。
「ヴァンとエヴァは、双子の兄妹だ。ヴァンの名はエヴァンゲロスで、エヴァの名はエヴァンゲリア。どちらも王家の傍系に連なる血筋で、それぞれ俺とアリアドネに仕える役割を持った家の者だ。そして、俺達四人は幼馴染なんだ」
セレネーは視線を揺らして両手を握りしめた。やはり、四人は繋がっていた。けれど、思っていた以上に深い繋がりだ。そして誰もがセレネーでは手の届かない身分の者たちだった。
目の前のアンドリオンだけでなく、軽薄に笑うヴァンも。足の手当をしてくれたエヴァも――姉のように慕っていたアリアドネと同じ様に。数少ないセレネーにとって心を許せると思える、そう思えるようになりそうだった人たち。誰もがそんな風に扱ってはならい人たちだった。目の前にいるアンドリオンが幻のように思え、思い浮かぶアリアドネたちの顔が黒い靄に飲み込まれていく。
「レネ?」
アンドリオンの呼びかけに、はっとして顔を上げた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと……驚いてしまって」
「ああ」
アンドリオンは渋い顔のまま、セレネーの様子を窺っている。セレネーはアンドリオンの顔を見ることができず、そのまま俯き加減で唇を引き結んだ。
「まずは順を追って、この国の歴史から話してもいいか?」
「ええ」
セレネーは小さく頷く。アンドリオンはセレネーを見つめながら静かに口を開いた。
「数千年前のことだ。この地に、神の使いたる巫女がやってきた」
「神の使いたる……巫女?」
「ああ、そうだ。レネの……この国の人間が知ってる歴史とは少し違う」
アンドリオンはゆっくりと続きを語り始めた。
今から数千年前、この地に神の使いたる巫女が現れた。巫女は神の言葉を聞き、この地の厄災を鎮めるためにやってきた。強い力を持つその巫女は、見事に厄災を鎮めた。
神は巫女にその地を治めるように命じ、国の名をヘリオニアと定めた。神に近い岩山の上に神殿を造り、巫女はそこで暮らした。この地を巫女の血筋が治める限り、神はその子らに神託と祝福を与えることを約束した。以来、巫女が生まれるのは女系に連なる直系からのみである。それは、国の祖たる巫女の血と力を継ぐ者のみに与えられた宿命だ。
国を治め始めてから数年後、巫女は共に国を支える夫を迎えた。二人の間には巫女の跡を継ぐ娘と、それを助ける息子が生まれた。やがて娘は成長し、伴侶を得て数人の子を成した。国の祖である巫女は、神託により孫娘の一人を次代の巫女と定めた。一人で国を治め、祈りを捧げることは困難であったため、始祖の巫女は神に許しを請うた。巫女の血を絶やさず神の声を聞く役目は女に、国を束ねる役目を男に。神はそれを許し、役割を守ることで国の安寧を見守ることを約束した。
神は巫女と国を治める者それぞれに、深い紫色の肩掛け布を与えた。神の使いたる巫女の血を引く者のみが纏うことを許され、違えれば命を落とす。資格あるものが纏えば、その役目を全うするために必要な加護を受けることができる。
それから数代に渡り巫女と王が変わった頃、力の弱い巫女が生まれた。祈りの力は厄災を完全に鎮めるには足りなかった。神は厄災の元凶により近い地中へ神殿を作り、資格ある者のみが通れる迷宮を地上と繋げた。人々は地下迷宮の入り口近くに祭壇を設け、国を守る巫女と神に感謝を捧げた。
いつしか巫女の血を引く者たちは、地下の神殿で暮らすようになった。神託が降りれば、迷宮を使って地上の神殿にそれを伝える。直系の血を絶やさぬように、地下へ婿を迎える。王となる男児が生まれれば、ある程度の年齢から地上で暮らして治世を学んだ。
そのまま変わりなく千年ほどが過ぎた。徐々に力の足りない巫女が生まれることも増え、遂には巫女一人の力で厄災を鎮めることができないほどになっていった。
セレネーはごくりと喉を鳴らし、アンドリオンをじっと見つめた。アンドリオンの語る歴史が真実なら、誰ともわからないはずの神の使いは巫女だったということだ。肩掛け布をアレクシスが付けていることも気になった――けれど。
「月の巫女は……元々いなかったの?」
「そうだ。あるときまではいなかった」
「あるときって?」
アンドリオンは一度目を伏せてから、セレネーに視線を合わせた。
「国ができてから千年ほどが経って、巫女の力は最初より随分弱くなった。それまでずっと厄災の前触れすらなかったのが、今みたいに揺れが起きるようになった」
「それまでの千年は、何も起きてなかったの?」
「そうだ。それほど巫女の力が強かった」
だとするならば、アリアドネよりも強い力を持った巫女が存在していたということだ。アリアドネの祈りですら人知の及ばぬ力を持つのに、それ以上とは。セレネーには想像すらつかない。
「なぜ力が弱まったのかしら」
「さあな。それは神のみぞ知る、だ」
「それなら、力の弱い巫女はどうやって厄災を鎮めたの?」
アンドリオンは少しの間逡巡してから、口を開いた。
「その頃から、月の巫女が現れた」
「……どういうこと?」
髪をくしゃくしゃとかき混ぜたあと、アンドリオンは少し苦い顔をした。
「直系の巫女が神託を受けたんだ。民の中から神の選んだ者を月の巫女として神殿に迎えるようにと。そのとき以来、直系の巫女は陽の巫女と、民から選ばれる巫女は月の巫女と呼ばれるようになった」
「……月の巫女の、役割は?」
「実際のところ、俺にもどの程度の役割なのかはわからん。だが、厄災の訪れに合わせて選ばれる月の巫女は、陽の巫女にとって不可欠だと言われている」
「それは、アレクシス様も知ってること?」
「ああ」
「……当然リアも、知ってることよね?」
「そうだ」
セレネーは視線を揺らして俯いた。つまり、アレクシスがセレネーを大切に扱ったのも、アリアドネが姉妹のように親しくしてくれたのも。エヴァがアリアドネの意思に従ってセレネーを気遣うのも、月の巫女が必要だからだ。厄災を鎮めるため、国を救うために必要なのはセレネーではなく月の巫女だった――ただそれだけだ。アンドリオンがセレネーを守るのも、きっとそういうことなのだろう。
「リアは陽の巫女としての力は強いって思ってたけど。それでも月の巫女はやっぱり必要なのかしら?」
「……だろうな。確かに先代よりも余程強い力を持ってるが、厄災の前兆が収まっていない。つまり、力が足りてないってことだ」
セレネーはアリアドネの言葉を思い出す。
『厄災を鎮めるには月の巫女の力が必要になる。月の巫女は、その時のためにいるのよ』
『厄災で力を使う陽の巫女のために、それまで一緒に祈りを捧げて助けて欲しいの。ただそれだけよ』
脳裏に浮かぶアリアドネの表情は、霞がかかったようで上手く思い出せない。よく考えてみれば、アリアドネは本当のことを言っていた。厄災のために月の巫女が必要なのだと。姉妹のように一緒に、それはどんな気持ちから出た言葉だったのだろう。
セレネーはそこでふと思い出す。エヴァは何と言っていただろうか。
『セレネー様に近づかないで』
エヴァは、アンドリオンからセレネーを守ろうとするかのように立ちはだかっていた。
『私はアリアドネ様の意思を尊重する』
『アリアドネ様は、セレネー様の安寧を望んでいる』
エヴァは、はっきりそう言った。アンドリオンから語られたことに衝撃を受けて、すっかり頭から抜け落ちていた。アリアドネとエヴァは、アンドリオンとは違う考えを持っていたようだ。もしセレネーを利用するつもりなら、安寧を望んでいるなんて言葉が出てくるはずはない。月の巫女が必要であることは事実かも知れない。それでも、アリアドネがセレネーを大切に思っていたことはきっと真実だ。
では逆に、今目の前にいるアンドリオンはどうなのだろう。アリアドネやエヴァと対峙するような行動を取っている。セレネーを守ろうとするアリアドネと対立するなら、むしろアンドリオンを疑うべきなのかも知れない。
『自分の目で見たものが答えじゃないのか』
突然セレネーの頭の中に、アンドリオンの声が響き渡る。アリアドネのことで思い悩むセレネーに、アンドリオンが掛けた言葉だ。もしセレネーを利用するなら、アリアドネを疑うように仕向ければよかったはずだ。アリアドネのいない間、心細い思いをしていたセレネーに付け入るなんて簡単だっただろう。けれど、アンドリオンはそうしなかった。
考えれば考えるほど、また分からなくなってくる。アンドリオンを信じたいが、まだ迷いが晴れない。先程から本当の歴史を語るアンドリオンは、まだ何かを隠しているような気もする。一方で、月の巫女については話しづらそうにも見える。セレネーを気遣っているのかもしれないと思うのは、都合よく考えすぎなのだろうか。アンドリオンの様子をそっと窺うが、どことなく不安げな視線を向けられているように見えた。
とにかく、アンドリオンの話を最後まで聞いてからでもきっと遅くはない。後悔はしたくない。だから、自分の目で見て耳で聞いたことで、ここからの道を選択しよう。セレネーはそう決意して、アンドリオンを真っ直ぐ見つめた。
「続きを聞かせてくれる?」
「……ああ。今から話すのは、月の巫女が現れるようになってから更に数千年が過ぎたころのことだ」
「それって、前回の厄災の話?」
「そうだ。レネが本で読んだ歴史の真実だ」
セレネーはごくりと喉を鳴らし、アンドリオンをじっと見つめた。誰もが知る歴史が嘘なら、一体何が本当なのか。両手をぎゅと握りしめ、アンドリオンに視線を合わせて息を詰めた。




