4-5
「アンドリオン」
鋭く響くエヴァの声に、アンドリオンのみならずセレネーまでびくりと身体を震わせた。アンドリオンは引きつった笑みを浮かべている。そう言えば前に、アンドリオンと呼ばれるのは母親に叱られているみたいだと言っていた。エヴァの声音からすると、例え愛称だとしても叱られているような気分になるのは変わらない気もするが。
「エ、エヴァ、なんだかわからんが悪かった」
「……わからない?」
エヴァは鋭さを増した声でアンドリオンに一歩近づく。
「え、えっと何だ? おい、ヴァンっ。なんとかしろ」
「だから無理だってば。俺だって怒られたんだから」
「その理由だけでも教えてくれっ」
ヴァンは肩を竦めて静観を決め込んだ。セレネーは三人の気安い様子に、深い繋がりを感じ取った。やはり予測は当たっていた。
「セレネー様は怪我をされてる」
「ん? あ、ああ。そうみたいだな」
「……知っていた?」
セレネーは思わぬ方向に会話が進み、目を瞬いた。アンドリオンは未だエヴァの真意が読めず、焦ったように視線を泳がせている。
「えっと、見てたわけじゃない。そういう話を聞いたってだけで」
「ヴァンは手当をしてた」
「そ、そうだったのか」
エヴァは静かな口調で続けた。
「なぜここまで歩かせた」
「ん? 歩かずどうやってくるんだ」
「……アンドリオン」
エヴァの声に呆れの色が微かに交じる。アンドリオンはセレネーに視線を向け、眉を寄せて口を開く。
「レネ、足の具合は酷かったのか?」
突然話を振られたセレネーは、驚き一瞬口籠った。
「い、いいえ。大丈夫」
本当は歩いている間中痛かったのだが、今更それを言うのも気が引けた。セレネーの返事にアンドリオンは額の汗を拭い、エヴァに視線を戻した。
「本人がああ言ってるが」
エヴァの背中から冷気が漂うような気がして、セレネーは身震いした。
「あー、リオン。巫女様の足首は、俺が見たとき既に結構腫れてた。布で固定しただけだから、もっと酷くなってるんじゃないかな」
「なんだとっ? おい、レネ、そうなのか?」
ヴァンの言葉を聞いて目を瞠るアンドリオンに、セレネーは曖昧な笑みを浮かべた。足首の怪我だけでエヴァがそこまで怒るとも思えず、何となくもやもやする。拭えぬ不安の正体を確かめるべく、そのまま成り行きを見守ることにした。
アンドリオンはセレネーの方に一歩踏み出すが、エヴァが身体を滑り込ませてその行く手を遮る。
「エヴァ、なんで邪魔するんだ?」
「セレネー様に近づかないで」
「どういうことだ?」
訝しげな顔をするアンドリオンの後ろで、ヴァンは困ったような笑いを浮かべたまま頭の後ろで両手を組んだ。
「私はアリアドネ様の意思を尊重する」
エヴァの言葉にその場の空気がピンと張り詰める。
「……アリアドネの意思とはなんだ」
「リオンも知ってるでしょう」
アンドリオンは黙り込み、ちらとセレネーに視線を送った。
「アリアドネ様は、セレネー様の安寧を望んでいる」
「神殿が安全だと言えるのか?」
エヴァは一瞬言葉に詰まる。セレネーがパトス派に連れ去られたのは、神殿内部からだろうか。
「リオンとヴァン、それに私がいれば守れる」
セレネーの胸に複雑な気持ちが交錯する。アリアドネとエヴァはやはりセレネーの身を案じていた。だから神殿に留め置いたのだということが、エヴァの言葉ではっきりした。けれど、アンドリオンはそうではない。アリアドネがセレネーを連れていかなかった理由と、アンドリオンが連れていきたい理由。ここになにか秘密があるのだろうか。
「お前もわかってるだろうが、俺はレネを連れていく」
「私は認めない」
「アリアドネがどう言おうが、お前が邪魔をしようが、最終的に決めるのはレネだ」
しんと静まり返った空気の中、意識がセレネーに集まる。セレネーはごくりと喉を鳴らし、アンドリオンの強い眼差しを受け止めた。正直に言えば、まだどちらが正解なのかわからない。アリアドネとエヴァの真意を知れば、行かないほうがいいと思うのかも知れない。けれど、その理由もわからない。そこでセレネーは大事なことを思い出す。
「ねえ、エヴァ。やっぱりリアは生きてるのよね?」
セレネーの言葉にエヴァがゆっくりと振り返る。その表情はいつもどおり平坦なもので、感情は読み取れない。けれどよく見れば少しだけ瞳が揺れ、迷っているようにも思える。
「エヴァ、教えて。エヴァの言うことなら信じるわ」
「……セレネー様」
エヴァは一瞬俯いてから、セレネーに視線を合わせて頷いた。
「おっしゃるとおりです」
「じゃあ、地下神殿に向かったのね?」
「はい」
やっと貰えたエヴァからの答えに、セレネーはほっと息を吐く。生きているだろうとは思っていたが、それでも一抹の不安は拭いきれていなかった。けれど、これでアリアドネの無事は確認できた。それなら後は、自分がどう行動すべきかを考えるのみだ。
「レネ」
アンドリオンに呼ばれて、セレネーは顔を上げた。
「アリアドネは地下神殿にいる。君はどうする?」
「アンドリオンっ」
普段声を荒らげないエヴァが、両手の拳を握りしめて強い声音で呼びかける。ゆっくりと立ち上がったセレネーは、じっと三人を見比べた。自分を庇うように立つエヴァの後ろ姿、強い眼差しで選択を迫るアンドリオン。ヴァンは相変わらず薄い笑みを浮かべて、面白そうに傍観者を決め込んでいる。
アリアドネはなぜ自分を置いていったのか。アンドリオンはなぜ自分を連れていきたいのか。アリアドネが地下神殿より地上の神殿を安全だと判断したのはなぜか。自分はどちらにいるべきか。考えることが苦手なセレネーは、答えを出せずに堂々巡りを繰り返す。緊張に喉が渇き、息が詰まって苦しくなる。
エヴァの静かな視線は、セレネーがいくと言ったらどう変わるのだろうか。アンドリオンの真っ直ぐな瞳は、セレネーが残ると言ったら落胆の色を浮かべるのだろうか。セレネーは俯き、ぎゅっと唇を噛み締めた。違う、二人がどう思うかではない。自分自身がどう思うのか、どうしたいのかだ。それを今ここで決めなければならない。
今までずっとアリアドネに頼ってきた。肝心なことはアレクシスが決めてくれた。自分で選ぶ道はないのだと、目の前に敷かれた安全で無難な道を歩いてきただけだった。そんなセレネーが急に決断を迫られても、簡単に答えが出せるわけもない。決めかねてもう一度顔を上げたところで、微かに足音が響いてきた。
エヴァとヴァンがいち早くセレネーの前に移動し、音のする方へ視線を向けた。少し前にアンドリオンと共に通ってきた通路だ。ちらちらと炎が見え隠れし始めるのは、複数の松明のようだ。セレネーはごくりと喉を鳴らし、通路の先をじっと見つめた。
ヴァンの腰元から抜かれる剣の音に、セレネーはぞくりとする。王家の祭壇での立ち回りを思い出し、顔から血の気が引く。エヴァは腰のあたりに付けていた留め具を外し、中から短剣を抜き出す。ゆったりとしたチュニックの襞から現れた刃は、松明に照らされ鈍く光った。そんな場所に武器を隠し持っていたとは思いもよらず、セレネーは目を見開いた。考えてみれば、アリアドネは王家の直系だ。その侍女であれば、護衛の役割も兼ねていたのだろう。今更ながらにアリアドネのことを何も知らなかったのだと、セレネーの胸の奥がチクリと痛む。
近づく足音と共に、ガチンガチンと金属を打ち鳴らす音も響いてくる。怒号が飛び交い、こちらに向かう者たちが争っているようだ。パトス派とノモス派だろうか。
「ヴァン、エヴァ。この場は任せるぞ」
「俺はリオンに従うさ」
微かに振り返ったヴァンは、相変わらず口の端を上げて愉快そうだ。
「エヴァ」
アンドリオンの声にチラリと視線を寄越したエヴァは、一度セレネーを見つめてから前を向く。
「……私はセレネー様を守るだけ」
段々と喧騒が近付いてくる。セレネーの心臓の音が徐々に大きくなり、震えそうな膝に唇を噛んだ。
「レネ」
振り返るとアンドリオンが手を伸ばしている。セレネーはまだ決心がつかない。この手を取っていいのだろうか。けれど、前からはパトスが迫ってくる。この場にいては、きっと自分は邪魔になるだけだ。
アンドリオンの手を見つめ、迷うセレネーの前でジャリッと地面を踏みしめる音がする。慌てて顔を戻すと、エヴァとヴァンが走り出していた。向かってきたのはパトス派だったようだ。ガツンガツンと剣の合わさる音が響く。他より高くガキンと響く音は、エヴァの短剣だ。身体の大きな男たちの中で、華奢なエヴァは一際目立つ。セレネーはどう見ても力では勝てそうもないエヴァの姿に、全身から血の気が引いていく。
「レネっ」
もう一度アンドリオンに呼ばれるが、セレネーはエヴァから目が離せない。エヴァは短剣を自在に操り、相手の力をいなしている。受けたよう見せて流し、蹴られたように見えて後ろに避ける。相手が大きく剣を振ったところをしゃがみ込んで回避し、そのまま懐に潜り込んで剣の柄で顎を下から打つ。見事に一人倒したところで、また次の男が向かってくる。
男が剣を振り下ろし、エヴァが押されて後ろに下がる。態勢を崩したエヴァに、もう一度男が剣を振り下ろす。セレネーは思わずエヴァの名前を叫んだ。その瞬間、男が突然横に倒れ込む。剣を振り上げた右手側から、ヴァンが男に体当たりしていたのだ。セレネーはほっと胸を撫で下ろし、額の汗を拭った。
「レネっ、あいつらに任せておけば大丈夫だ」
セレネーはアンドリオンを振り返り、ごくりと喉を鳴らした。恐る恐る手を伸ばし、アンドリオンの手を取る。ぎゅっと掴んで引き寄せられるが、後ろ髪引かれる思いでもう一度エヴァとヴァンを振り返った。二人は敵味方入り乱れての打ち合いを続けている。セレネーがここにいてもできることは何もない。
アンドリオンは松明を捨て、剣を抜いた。セレネーの手を自分の首に回し、腕の上に座らせる。再び抱き上げられたセレネーは、どうにか降りようと身体を捻る。
「自分の足でいけるわっ」
「いいから掴まってろっ」
アンドリオンが走り出し、セレネーは反動で首に抱きついた。その刹那、すぐ近くでガチンと金属のぶつかる音が響き、セレネーはぎゅっと身体を固くする。数回音が鳴り響き、その度にセレネーの身体にも衝撃が伝わってくる。思わず硬く目を閉じるが、衝撃は収まらない。セレネーには見えないが、アンドリオンが敵と剣を交えているようだ。恐ろしくて目を開けることもできない。せいぜい邪魔にならないようにしがみつくだけだ。自分が下りれば戦いやすいのだろうが、下手に動けはアンドリオンの気が逸れてしまう。それに、自ら下りる勇気もない。
ガツンと一際大きな音が鳴り響いた直後、突然どさりと何かが倒れる音がした。セレネーは身体を震わせ、アンドリオンに回した腕に力が籠もる。
「もうちょっと早くきてくれよ」
アンドリオンの咎めるような声が身体に響き、セレネーから自然と力が抜けた。
「思ったより敵の数が多くてさ。まさか見逃してるのがいると思わなかった」
ヴァンの気の抜けたような声に、思わす後ろを振り返る。ヴァンの足元には松明とともに、男が一人倒れていた。先程までアンドリオンが打ち合っていたのは、この男なのだろう。筋肉質な腕はセレネーの倍以上の太さで、先程までの衝撃を思い出して身震いする。
「おい、レネに当たらないように剣を収めてくれ」
アンドリオンが渡した剣を、ヴァンが慎重に鞘に収めた。セレネーは我に返り、腕を伸ばしてアンドリオンを見下ろした。
「私、歩けるわ」
「さっきまで震えてた癖に何言ってるんだ」
「もう止まったから大丈夫よっ」
セレネーを見上げるアンドリオンは、しかし腕を下ろす気配はない。小さく吹き出す声が聞こえ、セレネーは勢いよく振り返る。視線の先には堪えきれずに笑い出したヴァンがいた。
「ほらっ、笑われてるじゃないっ! 恥ずかしいから下ろしてよ」
アンドリオンは渋い顔でセレネーを見上げてからヴァンを睨んだ。
「くくくっ。いや、巫女様。悪いことは言わないからそのまま行ったほうがいいよ」
「どういうこと?」
「行けばわかるさ」
セレネーはさも可笑しそうに笑うヴァンと、渋い顔のままのアンドリオンを交互に見比べた。
「ほら、早く行かないと次のお客さんが向かってくるよ」
ヴァンの言葉にはっとして振り返る。向こうから数人の男が走ってくるのが見え、セレネーはぶるりと震えた。
「一人でやれるか?」
「誰に聞いてるの?」
相変わらず軽薄な笑みを浮かべたヴァンに、アンドリオンは息を吐く。
「愚問だったな。任せた」
アンドリオンが言うや否や、ヴァンは地面を蹴って走り出す。アンドリオンはすぐに踵を返し、先程向かっていた方向に走り出した。セレネーはアンドリオンにしがみつきながら、遠ざかるヴァンの後ろ姿を見つめる。あっという間に敵と打ち合いが始まり、アンドリオンの服を強く握りしめた。
「ヴァンなら大丈夫だ」
アンドリオンの落ち着いた声に、セレネーは少しだけ握る拳を緩める。
「それより、自分の心配をしたらどうだ?」
「何? 何か危ないことでもあるの?」
「……さあ、どうだろうな」
途端に胸のざわめきが蘇り、額に汗が滲んでくる。ヴァンは行けばわかると言っていたが、何があるのだろう。掌が微かに震え、先程の打ち合いで感じた衝撃を再び思い出す。
「さっきほどは危険じゃないから大丈夫だ」
セレネーをしっかり抱え直したアンドリオンは、空いた片手を背に当ててぽんと軽く叩いた。
「いいか、舌を噛まないように口を閉じてろ」
「……一体何なの?」
「俺がいいと言うまで目を閉じておけ」
セレネーは理由がわからずアンドリオンから身体を離そうとするが、力強く固定されてびくともしない。
「ねぇ、ちゃんと説明してよっ」
アンドリオンが立ち止まり、ゴゴゴと硬いものの動くような音がする。石の扉でも開いたかのような音だ。
「いいか、三つ数えたら口を閉じろ。一……ニ……三っ」
セレネーは硬く目を閉じ、アンドリオンに回した腕に力を込めた。その刹那、突然の浮遊感に襲われ思わず悲鳴を上げそうになる。強く歯を食いしばり、必死にアンドリオンにしがみつく。下から風が吹き上げてくるような気がして、自分が落ちているのか浮いているのかもわからない。地面を移動していないことだけは確かだ。永遠とも一瞬とも思われるような時間のあと、突然の衝撃に呻き声が漏れた。
「うっ」
アンドリオンの声が聞こえ、ぱっと目を開く。埃が舞い散る空気を吸い込み、喉に張り付き咳き込んだ。
「大丈夫か?」
セレネーは目を見開き、アンドリオンを見下ろした。
「こっちの台詞よっ。リオンこそ怪我は? 今のは何だったのっ?」
セレネーはきょろきょろと辺りを見回し、すぐに上を見上げた。セレネーが三人ほどいれば手が届くであろう位置から飛び降りたようだ。既に入り口は重い音を響かせながら閉じ始めている。
「ねえ、私を抱えたまま下りるのは無茶だったんじゃない?」
顔から血の気が引き、慌ててアンドリオンの様子を窺った。
「私は大丈夫だから、早く下ろしてっ」
セレネーはアンドリオンの肩を軽く叩く。アンドリオンは無言でそっとセレネーを下ろし、大きく息を吐いた。
「ねえ、大丈夫なの? どこか痛めた?」
アンドリオンは膝に手を置き、少しの間深呼吸を繰り返す。
「どうってことない……とは言えないが。まあ、少し休めば大丈夫だ」
「どうしよう、薬なんて持ってきてないわ。そうだエヴァならっ!」
「レネ、落ち着け。ちょっと痺れた程度だ。すぐ動けるようになる」
アンドリオンはその場で確かめるように足踏みをする。
「ほらな、もう大丈夫だから」
片方ずつ足を叩いて見せるアンドリオンに、セレネーはほっと肩の力を抜いた。その途端、膝が揺れてへたり込む。
「おい、どうしたっ」
焦ったようにアンドリオンが膝をつき、セレネーの顔を覗き込む。セレネーはアンドリオンをむっとしたような顔で見上げた。
「びっくりするじゃないっ! 何があるのか先に教えてよっ」
アンドリオンは目を瞬き、一瞬後に笑い出す。
「はははっ。悪かった。言ったら怖がるだろうと思って」
「それはそうだけどっ! 何も知らないほうがもっと怖いわ」
座り込んで笑い始めたアンドリオンに、セレネーは腕を組んでそっぽを向いた。何も知らないほうが怖い。セレネーはまだ何も知らない。アンドリオンの目的は、そしてアリアドネの真意は。これから進む先に何が待っているのか。込み上げてくる不安を押し殺し、笑い続けるアンドリオンから視線を逸らした。




