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セレネーは燭台を手に、部屋の中をぐるりと見回した。揺れる炎に映し出されたのは、人が五人ほど入れば苦しくなりそうな手狭な部屋だった。石で囲われたその部屋は、ひんやりとした空気で満たされていた。先程まで暑かった身体から徐々に熱が奪われていく。小さく身震いしたセレネーは、石壁に手を這わせて歩き始めた。
しばらく歩いているうちに、狭い通路があるのを見つける。先を見ようと近づけた蝋燭の炎が揺れ、風が流れていくのを感じる。迷ったのは一瞬で、セレネーはそのまま通路を進み始めた。
蝋燭の光は頼りなく、セレネーの足元を十分には照らせない。壁に手を付きながら、ゆっくり一本道を進んでいく。最初の道を抜けると、人が二人並んで歩ける程度の広さになった。進むうちに分かれ道が出てくるが、どちらへ行けばいいのか見当もつかない。しかし、立ち止まってアンドリオンを待つ気にもなれなかった。
セレネーはまだ迷っていた。アンドリオンとヴァンはなぜセレネーを助けたのか。アレクシスはアンドリオンが何者なのか、知っているのだろうか。知っていてセレネーの側に置いたのか。エヴァがアンドリオンを警戒しているように見えたのはなぜなのか。エヴァとヴァンに繋がりがあるのなら尚更わからない。考えながら歩いているうちに、また分かれ道に辿り着く。どちらの道を進もうかと考えていたところで、後ろから複数の足音が聞こえてきた。
徐々に近づく足音に、セレネーはそわそわと周囲を見回した。小さな明かり一つでは辺りの状況がよく見えず、焦りばかりが先に立つ。とにかく立ち止まっていてはよくないだろう。そう考えて早足で進む。真っ直ぐ続いている道の途中に、少し細い脇道を見つける。人一人しか通れそうもない道だが、複数人なら入りづらいかも知れない。セレネーは慌ててその通路へ進んだ。
足音を立てないように静かに、しかしできる限り急いで。蝋燭の灯が漏れては見つかってしまうかも知れない。迫りくる足音に、心臓の音がどくどくと鳴り響く。額に汗が滲み、息が苦しくなってくる。セレネーは慌てて蝋燭の火を吹き消し、ゆっくりと元の通路の方へ視線を向けた。通路を足早に通り過ぎる音が響き、チラチラと炎が横切った。蝋燭より大きいそれは、恐らく松明だ。セレネーは、祭壇の周りに括りつけられた松明の炎を思い出し、思わずぶるりと身震いした。
炎が通り過ぎると、再び静寂に包まれた。こちらには気付かぬまま進んだ様子に、ほっと小さく息を吐く。先程消した蝋燭の香りが今頃になって鼻につく。香りがやけに強く感じて、ふと周囲が真っ暗なことで途方に暮れた。
見つからないようにと蝋燭を消したが、自分も先が見えなくなってしまった。上手く身体で火を隠すとか、他に方法はあったはずだ。いつもながら頭の回らない自分にがっくりと肩を落とした。この真っ暗な中を一人で進むことができるのだろうか。アンドリオンを待たなかったのは失敗だったかもしれない。先程吐いたのとは違う息が漏れ、これからどうしようかと思ったところで突然肩を叩かれた。
「ひっ」と声を上げそうになったところで口を塞がれ、そのまま後ろに倒れ込む。頭と背中が硬い何かにぶつかり、心臓が破裂しそうに暴れ出す。全身に汗が吹き出し、持っていた燭台が手から滑り落ちた。血の気が引き、身体を固くしたところで耳元にふっと息がかかる。
「レネ、俺だ。驚かせて悪い」
聞き慣れたその声に、セレネーの身体から一気に力が抜ける。ずるずると崩れ落ちそうになり、腰に回されたアンドリオンの腕に支えられた。アンドリオンを片手で押しながら、振り向きざまに睨みつけるが、真っ暗で何も見えない。
「大きな声を出すなよ。敵が追ってきてるかもしれないからな」
セレネーは息を呑み、小さく頷いた。しかし、暗闇ではアンドリオンには見えないだろう。そう思って口を開きかけたところでアンドリオンに遮られた。
「俺は夜目が利くんだ。レネよりは見えてるから安心してくれ」
「見えるの?」
「ああ。さっきから睨まれてるのもちゃんと見えてる」
セレネーはぐっと息を呑み、視線を逸らした。アンドリオンに突然肩を叩かれて、生きた心地がしなかった。しかし、待っていろと言われたのに勝手に動いたのはセレネーだ。アンドリオンを睨んだのは筋違いだったような気がする。
ひんやりとした空気が少し揺れ、アンドリオンが小さく笑ったような気がした。セレネーはいつもアンドリオンの顔がある辺りを見上げ、小さく唇を噛んだ。
「怒らないの?」
「俺がか?」
虚を突かれたような声音で返ってきた返事に、セレネーはぎゅっと拳を握りしめた。
「私の方こそ、ごめんなさい」
「睨んだことなら気にしてない」
「そうじゃなくてっ」
アンドリオンの堪えたような笑い声が小さく響いた。
「……どうして笑うのよ」
「前もいなくなってたからな。まあ、今回は少しだけ予想してた」
セレネーはアンドリオンが胡乱な目で待てと言ったことと、去り際の不安そうな態度を思い出す。
「わ、悪かったわ」
でも――完全に信用できないのだから仕方ない。そうは言えずに口を閉じた。
「無事合流できたからそれでいい。さあ、反対を向いて、俺の言うとおりに進んでくれ」
「リオンが先にいったら?」
「いや、狭すぎてすれ違えない」
セレネーははたとして左右の壁に手を伸ばした。確かにすぐ横が壁で、アンドリオンと入れ違うのは難しそうだ。セレネーは頷き、身体の向きを変える。ごくりと喉を鳴らしておずおずと足を踏み出した。そのときそっと左肩に手を置かれ、思わず身体が跳ね上がる。
「前を歩くのは、真っすぐ進んで少し広い通路に出るまでだ。俺は多少見えてるから、合図を送るまで進めばいい」
「わかった」
セレネーは頷いてから足を踏み出した。肩に触れる手の温かさに全身の緊張がほぐれ、幾分気持ちが落ち着いた。しばらく歩いたところで、アンドリオンが軽く肩を叩きながらセレネーを制止する。
「よし、ここまで来れば俺が先を歩ける。手を出してくれ」
セレネーは小さく首を傾げて右手を差し出す。突然手首を捕まれ、思わず一歩後退る。
「おい、逃げるなって。レネには何も見えてないんだろ? はぐれないように掴まってろ」
手元をアンドリオンの服に誘導される。恐らく腰のあたりだろうか。服を掴んで付いてこいという意味だろう。言われるままに服をぎゅっと握りしめ、歩き出したアンドリオンの後ろに付いて歩く。セレネーに合わせてゆっくり足を進める様子は、暗闇の中で見ることは叶わない。
途方に暮れそうなところで現れたアンドリオンに、そのまま付いてきてしまったが本当によかったのだろうか。まだアンドリオンとヴァンを信じていいかもわからないのに。見えない背中をじっと見つめるが、アンドリオンの考えを見透かすことはできない。
先程からたまに左右に道を変えているが、地図もないのになぜわかるのだろう。それとも、セレネーには見えないだけで地図を持っているのだろうか。
どのみち、この暗がりで一人取り残されてもどうすることもできない。蝋燭を消してあのまま狭い通路に一人きりだったら、一体どうなっていたのだろうか。もしかしたらパトス派の人間に見つかって、また祭壇に逆戻りだったのかも知れない。想像して背中にぞくりと寒気が走った。
互いに無言のままゆっくり先へ進んでいく。話しかければ答えてくれるのかも知れないが、アンドリオンも黙ったままだ。敵が迫ってきていると言っていたから、きっと周囲の音を警戒しているのだろう。そう思うとセレネーも無闇に口を開くことはできない。もどかしい気持ちを押し殺し、服を握る手に力を込めた。
どれくらい暗闇を歩いたのだろうか。足首の痛みが徐々にぶり返し、額に汗が滲み始める。前を歩くアンドリオンに気付かれぬよう、なるべく自然に足を踏み出した。足手まといになることはもちろん、また抱え上げられてはたまらない。ズキンズキンと疼くのは、足首だけではないような気がした。
このまま進んで地下神殿を目指すのは、本当に正解なのだろうか。アリアドネがセレネーを置いていったことは、何か意味があるのかも知れない。もしアリアドネに会えても、迷惑をかけるだけなら本末転倒だ。痛みを振り切るように思考を巡らせるが、あまり効果はない。あとどれくらい歩けるだろうか。セレネーはアンドリオンの服を改めて握り直し、ため息を押し殺した。
突然アンドリオンが立ち止まり、セレネーは思わずその背中にぶつかりそうになった。恐る恐る見上げるが、暗くて何も見えない。どうしたのか聞きたい衝動に駆られるが、声を出していいのかもわからない。痛みと緊張の入り混じった汗が額を流れ、空いた方の手の甲でそっと拭った。
「レネ、ヴァンとエヴァだ」
アンドリオンの声に、セレネーはそっと身体をずらして前方を覗き見た。そこには松明を手にしたヴァンとエヴァが見える。二人は何かを話しているようだ。二人並ぶとやはり似ている。けれど、いつも表情を崩さないエヴァと軽薄な笑みを浮かべるヴァンでは、すぐに繋がりに気付く者はそういないだろう。それほどに纏う空気は違うのだ。
「ヴァン、エヴァ」
アンドリオンの呼びかけに二人がぱっとこちらに顔を向けた。ゆっくり足を進めるアンドリオンとセレネーに、エヴァがすっと目を細めた。セレネーはエヴァの様子に一瞬びくりと肩を揺らした。そう言えば、エヴァにも待つように言われていたのだった。それを待たずに勝手に離れたのはセレネーだ。いつも淡々としているエヴァだが、流石に今回は怒っているのかも知れない。セレネーがさらに足を進めようとしたところで、エヴァが口を開いた。
「止まってください」
研ぎ澄まされた刃のような鋭い響きに、セレネーは思わず顔を青くしてその場に立ち尽くした。アンドリオンも立ち止まり、エヴァを驚いたような表情で見つめた。
「エヴァ、どうした?」
アンドリオンが焦ったような声をあげると、エヴァはアンドリオンを鋭い目つきで見上げた。
「……セレネー様」
アンドリオンを無視したエヴァは、セレネーに視線を移した。アンドリオンに向けたときより幾分柔らかに見えるのは気の所為だろうか。
「あ、あの、エヴァ。ごめんなさい」
エヴァはその言葉に一瞬目を瞬き、すぐに小さく頷いた。
「お座りください」
「え?」
エヴァはきょろきょろと辺りを見回し、手頃な岩を掌を上向けて指し示し、同じ言葉を繰り返した。セレネーはなんだかよく分からず、数歩先の岩の上に腰を降ろす。それを確認したエヴァは、松明をアンドリオンに押し付けてからセレネーの足元にしゃがみ込んだ。
「失礼します」
言うや否やセレネーの足首に手を伸ばした。ヴァンに巻かれた布を丁寧に取り去り、足首の状態を確認する。腰に下げた大きめの巾着から薬包を取り出し、セレネーの足首に丁寧に塗りつける。
「あ、あの、エヴァ」
エヴァは答えず、真剣な眼差しでセレネーの手当を続ける。最後はヴァンより丁寧に布を巻き、セレネーの足首を固定した。終わるとすぐに巾着から別の薬包を取り出した。
「セレネー様、こちらをお飲みください」
差し出されたのは、アリアドネの加護付きの薬包だ。セレネーが受け取ると、エヴァは腰から下げた水の入った革袋をセレネーに差し出した。
「ありがとう」
セレネーは言われるがままに薬包の中身と水を口に含む。この薬包は痛み止めだ。セレネーが勝手にあの場所を離れたにも関わらず、エヴァは手当の道具を持ってきてくれた。セレネーは滲みそうになる涙を堪え、ぎゅっと目を閉じ薬を飲み下した。
セレネーから革袋を受け取ったエヴァは、くるりと反転して身体をアンドリオンの方へ向けた。セレネーはエヴァの後ろ姿を見上げ、庇うように立つ姿に首を傾げた。
一方エヴァの前に立つアンドリオンは、焦ったような顔をしている。ヴァンは頭を掻きながら徐々に近寄ってきた。
「エ、エヴァ。お、落ち着け」
言葉を詰まらせ、ジャリジャリと足元を鳴らしながらアンドリオンが後退った。片手に持った松明とともに揺れた炎が、パチンと音を立てる。ヴァンは相変わらず薄く笑みを浮かべ、少し困ったように眉を下げている。
「あー、リオン。諦めろ。エヴァの怒りは俺でも収められなかった」
「なんだ、なにをそんなに怒ってるんだっ」
セレネーにはエヴァの表情は見えない。いつもほとんど表情を崩さない完璧な侍女が、一体どんな顔をしているのだろうか。覗き込もうと身体を前に倒してみるが、横顔すら見えない。
「エヴァ?」
セレネーの呼びかけに微かに顔を動かすが、やはりその表情を見ることはできなかった。二人の様子からすると、エヴァの怒りは相当なもののようだ。けれど、その矛先はどうやらアンドリオンだ。それともヴァンもだろうか。セレネーは勝手に階段下を離れたことで、エヴァが呆れているかも知れないと思っていたのだが。
未だにセレネーの守るように立ちはだかるエヴァの後ろ姿に、セレネーは胸の奥がほんのり温かくなる。けれど、それと同時に不安も過る。もしかしたら、ここにきてはいけなかったのかも知れない。エヴァはアリアドネに忠実だ。だとするなら、この事態はアリアドネの望むものではないのかも知れない。
エヴァは一体何を口にするのだろうか。じんじんと響く足首の痛みと口に残る薬の味に、セレネーは苦い顔でエヴァを見つめた。




