4-3
後ろ向きに運ばれながら、セレネーはヴァンの顔を盗み見る。やはりどこかで見たような顔なのだが思い出せない。二度ほど盗み見たところで視線がぶつかり、屈託のない笑みを向けられた。セレネーは慌てて目を逸らし、自分が慌てる必要はないのだと思い直した。もう一度顔を見ようと目を向けると、ヴァンは前方を真剣な眼差しで見つめていた。その顔に思わずあっと声を上げそうになる。初めて見たその顔つきは、よく知った侍女――エヴァの面影があるのだと思い当たった。
「着いたな。下ろすぞ」
セレネーを背負った男が発した言葉は、誰に向かってのものなのか。背を向けているセレネーにはわからない。ヴァンが男に近付き、背負子ごと背中からセレネーをそっと降ろした。
セレネーは口枷と背負子に固定された紐を解くヴァンを見つめながら、今までのことを振り返る。
アンドリオンとヴァンが親しげなのは、二人が他所からきた者同士だからだと思ていった。メーニャという言葉を聞いて、アリアドネとエヴァとの関係を疑った。そして今、エヴァと面立ちが似ていることに気が付いた。推測でしか無かった四人の関係は、やはり当たっていたのかも知れない。ヴァンとエヴァが近しい間柄なら、やはり四人は繋がっているのだろう。ならば、ヴァンは味方だと思っていいのだろうか。アンドリオンを信じてもいいのだろうか。アリアドネとエヴァは信じてもいいと思えるが、あとの二人はまだ判断がつかない。
わからないことが多すぎて、考えがまとまらない。セレネーは一旦考えることをやめ、周囲に視線を巡らせた。
「ここは?」
セレネーが降ろされたのは石畳の上だった。周囲には崩れかけた円柱のがいくつも立ち並び、松明がくくりつけられている。セレネーはそのままぐるりと一周見回すと、ある一箇所で目を留めた。少し離れたその場所には、神殿のものより少し小振りな石造りの祭壇がある。セレネーが目を瞠ったのは、そこに刻まれた紋章を見たからだ。
「ここは、王家が管理していた祭壇だ。今となってはただの遺跡だが、お前を贄とするならこの場所がふさわしい」
執政官の男が腕組みをして、すぐ横の地べたに座るセレネーを見下ろす。
「お前は、こんな場所があることすら知らなかっただろうがな」
セレネーは黙ったまま男を見上げた。確かに以前のセレネーは知らなかったが、今は知っている。それはアンドリオンから聞いたからだ。誰もが知っている、町の中心にある王家の祭壇。あの祭壇に刻まれているのは、ペンダントと同じ紋章だ。つまりここは地下迷宮の入口がある場所だ。まずは地下迷宮に入らなければ地下神殿へは辿り着けない。それがどこだかセレネーには見当もつかないが。地図は部屋の書き物机に仕舞ったままだし、もしそれがあってもセレネーには見つけることはできないだろう。
「そろそろ他の者も集まるころだが」
評議員の男が祭壇に背を向けて辺りを見回す。今この場にいるのは執政官と評議員、ヴァンを合わせた護衛官の三人だ。まだこれ以上人が集まるのだろうか。月の巫女の処刑を見物にくるなんて、そんな趣味のいい者たちが一体どれほどいるのだろう。真剣に考えると膝が震えてしまいそうで、セレネーは男たちを皮肉ることでどうにか気持ちを立て直す。
「……いや、先に着いていてもいいはずだ。不測の事態か?」
執政官の男が声に少しの苛立ちを滲ませ、眉を寄せた。
「どうする?」
「儀式を実際見たものが少なければ、信憑性も薄れる。もう少し待つか、それとも」
評議員の男の問いに執政官が答えようとしたところで、ちらちらと明かりが近付いてくるのが見えてくる。どうやら複数の松明のようだ。セレネーは額に汗を滲ませ、一体誰がやってくるのかと目を凝らした。
「遅かったではないか」
セレネーにはまだ近付いてきた者たちの姿がよく見えない。もしかしたらパトス派の動きに気付いた神殿の者が、探しに来てくれたのかも知れない。セレネーの頭にほんの少しの期待が過る。
「表立って騒がれてはおらんが、神殿も平常ではない」
「これだけの人数だからな。気付かれんように動くだけで一苦労だ」
聞こえてきた会話に、身体の内側がすっと冷たくなった。どうやらパトス派の悪趣味な仲間が集ってきただけのようだ。セレネーは地面に座り込んだまま、集団に視線を這わせた。やってきた男たちは、一様に茶色や青の肩掛け布をしている。その中に階段でぶつかってきた男の顔を認め、セレネーは奥歯を噛み締めた。
執政官と話し終えた男たちは、大凡三十人程度か。青や茶の肩掛け布の者と護衛官はいるが、赤の肩掛け布は見られない。もしたら政務官はパトス派ではないのかも知れない。それが何か救いになるかと言われると、セレネーにはわからないのだが。
「ではそろそろ始めるか」
倉庫でセレネーと話していた執政官の男が、静かに口を開いた。その場の者たちが黙り込み、祭壇に向かって自然と数列に横並びになる。すると、執政官の男がセレネーを振り返った。その視線は鋭く、セレネーの背筋を凍らせる。突然湧き上がった強い恐怖にセレネーは奥歯をカチカチと鳴らす。膝が震え、足首の痛みがなくても立てそうにもない。
「月の巫女様」
場の雰囲気にそぐわない軽い口調に、セレネーは息を詰めて顔を上げた。視線の先には、相変わらず軽薄な笑みを浮かべたヴァンがいる。なぜこの男は今も笑っているのだろうか。セレネーはどこか現実味が湧かず、いっとき恐怖を忘れてぼんやりとその顔を見つめる。目の前に手を差し出され、導かれるまま自分の手をそっと重ねた。ゆっくり引き上げられるのに任せて立ち上がるが、ヴァンの顔から目が離せない。少し笑みを深めたヴァンが、セレネーにだけ聞こえるように耳元で囁く。
「合図したら一緒に走って」
頷くこともできないまま、手を引かれてゆっくり祭壇の方へ足を進める。足首は依然痛むが、少しの間なら走ることもできそうだ。ヴァンはセレネーの手を引いて祭壇の反対側に回った。
セレネーのいた倉庫にきていた護衛官たちが、祭壇の表側に集まってくる。恐らくセレネーの処刑はこの護衛官のうちの誰かが担う手筈なのだろう。執政官の男が祭壇の様子を眺め、儀式の始まりを待っている。とは言え、祭官や祈女もおらずどうやって儀式を行うのか。ヴァンのお陰でセレネーは余計なことが気になるほどに落ち着いてきた。
「そろそろだと思うんだけどなあ」
のんびりとしたヴァンの言葉に、セレネはー首を傾げて視線を上げた。周囲の護衛官たちは少し離れているので、何を話しているのかは聞こえていないようだ。
「早くしてほしいんだけどな。全くリオンのやつ、間に合わないとか言うなよ?」
リオン――今、ヴァンはそう言っただろうか。やはりアンドリオンとヴァンは繋がっている。そして、この事態を予測していたとういことだろうか。
「おい、早く巫女を祭壇に捧げないか」
執政官の男が苛立ちを滲ませながらヴァンに言い放つ。肩を竦めたヴァンに眉を寄せ、こちらに向かって一歩踏み出した、そのとき。
ヒュンヒュンと複数の風を切る音が響いた。先端に炎の着いた塊が、護衛の男たちと祭壇の間に次々と降リ注ぐ。セレネーは何が起きたのか分からず、呆然とそれを見つめた。護衛の男たちは突然の火に驚き、数歩後退った。執政官の男も歩き始めていた足を止め、目を見開いている。火矢は祭壇裏にいるセレネーたちと、パトス派の男たちとの間を隔たるように放たれた。
「走るよっ」
訳も分からぬまま、セレネーはヴァンに腕を引かれる。結ばれていた筈の手枷がはらりと落ち、突然のことにたたらを踏んだ。合図なんて無かったじゃないかと文句を言いたいが、走り出すのに必死で言葉が出ない。セレネーたちと護衛官の間に放たれた火は煙を上げている。男たちは混乱し、大声で叫びながら周囲を警戒している。煙のおかげで視界が遮られ、こちらにはまだ気付いていない様子だ。
もうすぐ祭壇裏にある崩れかけた円柱に届きそうだというところで、セレネーは痛む足首から力が抜けて膝を着いた。ヴァンに取られた腕のお陰で手をつきはしなかったが、痛みのせいですぐには立てない。
「巫女様っ」
ヴァンの焦ったような声の後に、ガチンと大きな金属音が響いた。恐る恐る振り返ると、片手で剣を構えたヴァンが男のそれを止めている。護衛官がいつの間にか追いついて、セレネーに剣を振り下ろしていたのだ。一瞬後にはヴァンが男の腹を蹴り距離を取る。セレネーは地面に付いた膝が震え、そのまま座り込んだ。ヴァンの方に向きを変えるが、気づけば全身が震えていた。
ヴァンは踏みしめた地面をじゃりじゃりと鳴らし、男との間合いを測る。体制を整えた男が再び剣を振り下ろす。ガンガンという音が続き、幾度か打ち合う。しばらく打ち合っていると、ヴァンが男の剣を弾いた。競り負けた男は少し体制を崩す。その隙にヴァンが男に剣を突き出した。男はすんでのところで躱す。しかし、ヴァンが肘を振り下ろし、男の側頭部を打ち付けた。男はそのまま倒れ、剣を落とした。その隙にセレネーを振り返ったヴァンの表情は、いつもと変わらず軽快な笑みを浮かべている。松明の炎でうっすらと照らされたその顔は、まるで何事もなかったかのようだ。
セレネーはその様子に目を瞠り、ごくりと喉を鳴らした。その刹那、ヴァンの後ろからもう一人の護衛官が走り寄ってくる。
「ヴァンっ、後ろっ!」
セレネーは思わず大声で叫んだ。ヴァンは表情を変えることもなく、素早い動きで振り下ろされた男の剣を躱す。男は剣が空を切ったことで少し前のめりになる。そのままヴァンは剣の柄で男の後頭部を打ち付けた。男はそのまま前のめりに倒れ、ヴァンとセレネーの間に倒れ込んだ。男の手から剣が離れ、セレネーから数歩のところまで滑ってきた。金属が石畳を滑る音が耳につく。
すると先程側頭部を肘で打たれた男が、剣を手にして再びヴァンに向かってくる。
ガツンという鈍い音と共にヴァンが男の剣を弾き返した。続けざまに突き刺そうと肘を引く。男はその動きを見て、口の端を微かに引き上げた。男はヴァンの首元に向かって剣を突き出すが、一転顔を歪めてその場に崩れ落ちた。突き出したと思われていたヴァンの腕は、男の太腿に向かっていた。ヴァンは肘を引いてすぐに剣を逆手に持ち替え、男の踏み込んだ足に向けて剣を突き立てていた。男の太腿から引き抜かれた剣に、血が滴る。セレネーはその血を目にして、ヴァンが赤く染まったような幻覚に襲われる。
ヴァンのその姿に、セレネーの背筋を冷たい汗が伝う。頭に浮かんだのは、アリアドネの授かった神託だ。
地が闇夜に浮かぶ月を喰らい
白き身体を紅に染めしとき
暗黒を照らす陽が現れ
地上に救済の光を齎さん
白き身体を紅に染める――ヴァンの姿が、セレネーの先行きを暗示しているように思えて体の芯がすっと冷える。目の前のヴァンの姿が二重三重とぼやけはじめ、周囲の音が遠くなる。ヴァンが何か言っているような気がするが、セレネーの耳には届かない。
「レネっ」
突然の声にセレネーは、はっと正気を取り戻した。見上げた先にいたのは、片手に剣を持ったアンドリオンだ。
「しっかり掴まってろっ」
左手でセレネーの腕を引いたアンドリオンは、そのまま自分の首に回すように引き寄せる。引き上げられたセレネーは膝立ちになり、アンドリオンにもたれかかった。アンドリオンは左の腕にセレネーを座らせるようにして抱え上げた。セレネーは浮き始めた身体の安定感を求めて、思わずアンドリオンの首にしがみつく。アンドリオンはそのまま立ち上がり、セレネーの腰を自分の身体に引き寄せ固定する。
「走るぞっ」
言うが速いか走り出したアンドリオンは、セレネーとヴァンが最初に向かっていた方向へ進む。心臓がどくどくと鳴り響き、アンドリオンにも聞こえてしまいそうだ。落とされぬよう首にしがみつきながらヴァンの方へ視線を送ると、相変わらず口元には笑みを浮かべていた。その周囲にはあっという間に男たちが現れ、剣を打ち鳴らす音が響いてくる。しかし、集まっているのは敵だけではないようだ。ヴァンと共に戦う護衛官の姿を認め、セレネーは小さく息を吐いた。
アンドリオンはセレネーを抱えたまま円柱を抜け、草むらにセレネーを降ろした。周囲には胸ほどの高さの草が生い茂り、周囲からは見えづらい。足元には紋章を刻んだ石板が置かれ、アンドリオンがそこに剣を突き立てた。カチンと音が鳴り響き、石板と石畳の間に刃が嵌まる。そのまま剣を斜めにすると、徐々に石板が持ち上がっていく。セレネーは鳴り響く心臓の音を聞きながら、その様子をじっと見つめた。
重そうな石板をゆっくりと持ち上げたアンドリオンは、中から出てきた木の取手を力強く引き上げた。それと同時にすぐ横の石畳が音を立てて沈み込む。そこには人一人が通れるほどの階段が現れた。アンドリオンは再びセレネーを抱え上げ、そのまま階段をゆっくりと下りていく。セレネーは差し込む月の光に導かれるようにして、階段上の入口を見上げた。夜空に浮かぶ満月は、ここからでは見えない。階段を降りる度に月が遠ざかり、セレネーの胸をざわつかせた。
しばらく下りたところで、小さな部屋に辿り着いた。アンドリオンはセレネーをそっと降ろし、素早く蝋燭に火を付けた。
「ちょっと上の様子を見てくる」
セレネーは小さく頷いた。アンドリオンはセレネーをじっと見下ろし、胡乱な視線を向けた。
「俺がいいと言うまで、ここで大人しく待ってろよ」
「わかった」
眉を寄せたアンドリオンは、どことなく不安げな表情だ。首を傾げたセレネーは、「気を付けて」と声を掛けてアンドリオンを見送った。
再び入口が閉じられ、静寂と暗闇に包まれた。淡い蝋燭の光に照らされたセレネーは、そのときふと思い出す。そうか、先程の台詞は前にセレネーが階段下で言われたのと同じものだ。あのときセレネーは、アンドリオンを愛称で呼ぶエリスとリュディアの話を聞き、一人で部屋へ戻っていた。アンドリオンの訝しげな表情の理由に思い当たり、今頃になって苦い笑みを浮かべた。
今もわかったと答えたが、どうするべきだろう。セレネーが贄にされそうなところを助けてくれたのは、ヴァンとアンドリオンだ。けれど、二人を信じていいのかはまだわからない。ヴァンがエヴァと繋がっていたとしても、それだけでは信じる理由にはならない。
アンドリオンが出ていった入口を見つめながら、セレネーは眉を寄せて唸り声を上げた。




