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第05話 幸せの行方

その後も俺と茜は奏音を傷つけ続けた。

あの告白の後、奏音を幸せにしてあげてと、少しずつ茜の負担が増えていった。

それでも茜は奏音の親友を続けていた。


誕生日には、茜が転んでケーキを台無しにした。

奏音は笑おうとして、少しだけ泣いた。

月曜日、奏音はろうそくの火を吹き消したことだけを嬉しそうに話した。


卒業式の前には、小さな傷をいくつも重ねた。

返信を遅らせた。

約束を1つ忘れたふりをした。

茜が、卒業後は会う機会も減るよね、とわざと軽く言った。

月曜日、奏音は校門の前で撮った写真を覚えていた。


卒業旅行では、茜が途中で奏音と喧嘩して、先に帰った。

奏音は帰りの電車でずっと黙っていた。

月曜日、奏音は海辺で撮った写真を見て、楽しかったね、と笑った。


就職祝いの日、茜は花束を捨てた。

奏音が、部屋に飾るのを楽しみにしていた花束だった。

月曜日、奏音はスマホの中の花束を見て、かわいかったよね、と言った。


プロポーズした日、何をしたかは思い出したくない。

ただ、プロポーズは3回することになった。


最初は、そのたびに話し合っていた。


これで足りるのか。

やりすぎではないか。

奏音が月曜日に嫌なことだけを覚えていたらどうするのか。


けれど、いつからか相談は短くなった。


今週は大丈夫。

来週は多いかもしれない。

これは軽い。

これは少し重い。


それでも、奏音が大きく喜ぶ出来事の前だけは、念入りに相談した。

これだけ繰り返しても、同じ幸せなんて存在しなかったからだ。


奏音がどれだけ嬉しかったのか。

どこで傷ついたのか。

何を残して、何を忘れるのか。


そんなものを、俺たちが正しく測れるはずがなかった。


だから結局、いつも手探りだった。

足りなければ消える。

やりすぎれば、奏音が壊れるかもしれない。


その間で、俺たちは何度も間違えた。



結婚式の前日、奏音は茜の部屋に泊まった。

最後の独身女子会、と奏音が勝手に名前をつけたものだった。


俺には夜、奏音から写真が届いた。

コンビニで買ったお菓子をテーブルに並べ、二人でピースしている写真。茜は少し困ったように笑い、奏音は楽しそうに笑っている。


『明日だね』

『寝られないかも』

『でも寝坊したら困るから寝る』

『忘れられない日にしようね』


最後の一文を見た時、指が止まった。


忘れられない日にする。


文化祭の時よりも、誕生日の時よりも、卒業式の時よりも、ずっと重い言葉だった。

奏音はたぶん、何気なく送っている。

幸せな花嫁らしい、明るい言葉として。


俺は返信欄を開いた。


『そうだな』


それだけ送った。

しばらくして、茜からもメッセージが届いた。


『寝た』


そのあと、少し間が空いてからもう一通届く。


『明日、どうするの』


俺は画面を見つめた。


――どうするの。


時には一人で、時には茜と何度も繰り返してきた問いだった。


――告白された夜。

――告白した夜。


誕生日の夜も、卒業式の夜も、旅行の帰りも。

そのたびに、俺たちは何かを選んできた。


でも、明日は結婚式だった。

奏音が人生で一番幸せになるはずの日だった。

家族も、友人も、茜も、俺も、その前に並ぶ。

写真も映像も残る。

言葉も形も、今までよりずっと多く残る。


それに見合うものが、どれだけ必要なのか分からなかった。


『積み重ねてはきた、用意もある』


送ってから、自分でその文字にうんざりした。


茜からの返事はすぐには来なかった。

数分後、短く届いた。


『私も』



結婚式当日、よく晴れた土曜日。

式場の控室で、俺は鏡の前に立っていた。慣れない礼服の襟元を直していると、お義父さんがやってきた。


「彰くん」


振り返ると、お義父さんは少しだけ背筋を伸ばしていた。

いつも厳しい顔をしていた人なのに、その日はひどく疲れて見えた。


「不甲斐ない父親ですまない。本当なら、親である私が背負うべきだった」


お義父さんはそこで一度、言葉を切った。


「それでも、あの子は君といる時、本当に幸せそうに笑う。奏音のこと、よろしく頼む」


お義父さんは頭を下げた。


娘を頼む。

普通なら、それだけの言葉だった。


けれど、お義父さんの顔は祝福する父親のものではなかった。

俺はその意味を痛いほど理解していた。

それでもこの人は、祝福したい気持ちを何度も押し殺して、厳しい父親を演じてきたのだろう。


廊下に出ると、花の匂いがした。

打ち合わせで選んだ花が、会場のあちこちに飾られている。

あの時のように、猫だらけにはならなかった。

けれど受付の端に、小さな猫の置物が1つだけ置かれていた。

奏音がこっそり追加したものだった。


式が始まる少し前、茜が顔を出した。

薄い色のドレスを着て、髪をきれいにまとめている。

いつもより大人びて見えた。

けれど目の下には、少しだけ疲れが残っていた。


「茜!」

「奏音、おめでとう」


茜は小さく笑った。

その笑顔は、すぐに消えた。


「今日は人生で最高の日になるね」


奏音は嬉しそうに頷いた。

けれど俺には、その言葉が祝福には聞こえなかった。


「うん! 今日もよろしくね!」


奏音はスピーチのことを言っているのだろう。

それでも、茜の顔はほんの一瞬だけ歪み、すぐに笑顔へ戻った。


「任せて。絶対に泣かせてあげるから」


そう言った茜の声は、少しだけ震えていた。



式が始まると、奏音は白いドレスで現れた。

父親に手を引かれ、ゆっくりと歩いてくる。

ベールの向こうの顔は、少し緊張していた。

それでも俺を見つけると、小さく笑った。


その笑顔を見た瞬間、会場の音が少し遠くなった。


綺麗だと思った。

幸せそうだと思った。

そして同時に、これを残すために何が必要なのかを考えた。


祭壇の前で、奏音の手が俺の手に渡される。指先が少し震えていた。


「緊張してるのか?」


俺が小さく聞くと、奏音はベールの奥で笑った。


「してる。でも嬉しい」


その一言が、どこかで重く沈んだ。


誓いの言葉は、ほとんど決まった文面だった。

牧師役の声に合わせて返事をして指輪を交換すると、拍手が起こる。

奏音は少し泣いていたが、それでも笑っていた。


披露宴では、選んだ写真がスクリーンに映った。文化祭の写真が出た時、奏音は隣で小さく声を上げた。


「あ、これ」


会場から笑いが起きる。

友人たちが、若い、と言っている。

画面の中の俺たちは制服を着ていて、奏音は真ん中で笑っていた。


次に誕生日。卒業式。旅行。就職祝い。記念日。


写真は次々と流れていく。

そこには、奏音の幸せだけが映っていた。

奏音が泣いた夜も、傷ついた朝も、何も知らずに謝った日も映っていない。

俺と茜が何をしたかも、どこにも映っていない。

スクリーンの中の奏音は、ずっと笑っていた。


茜のスピーチは、披露宴の中盤だった。

司会に名前を呼ばれ、茜は便箋を手にマイクの前に立った。

奏音は嬉しそうに椅子から少し身を乗り出した。


「茜、泣くかな」

「泣くだろ」

「私も泣くかも」


奏音はそう言って笑った。


茜は最初、普通に話していた。

高校の文化祭のこと。奏音が看板の猫にこだわっていたこと。三人で撮った写真のこと。

卒業してからも、何かあるたびに呼び出されたこと。


会場からは何度も笑い声が上がり、奏音も懐かしそうに笑っていた。

そんな中で、茜の指先が便箋の端を握りつぶしそうになっているのを俺だけは見ていた。


「奏音は、昔から大事なことを大事にできる人です」


茜の声が少しだけ揺れた。


「楽しかったことを、ちゃんと楽しかったって言える人です。嬉しかったことを、何度でも嬉しそうに話してくれる人です」


奏音はもう泣いていた。隣でハンカチを目元に当てている。


「だから私は、奏音のそばにいられてよかったと思っています」


茜はそこで一度言葉を止めた。

便箋から顔を上げ、奏音を見た。


「本当に、おめでとう」


短い終わり方だった。

会場から拍手が起こる。奏音は泣きながら、ありがとう、と何度も口を動かしていた。


茜は席へ戻る途中で俺と一瞬だけ目が合った。

その目に込められた意味は俺にしか分からないもので、それでも俺は分からないふりをした。


披露宴の終盤、奏音は両親への手紙を読んだ。

予想通り、最初の数行で泣いた。それでも最後まで読んだ。

家族への感謝。友人への感謝。茜への感謝。そして、俺とこれから生きていくこと。

会場のあちこちで、すすり泣く声が聞こえた。奏音の声は何度も震えたが、途中で止まることはなかった。


手紙を読み終えたあと、奏音は俺の方を見た。泣きすぎて目元が赤くなっている。それでも、本当に幸せそうだった。


「彰」


小さな声だった。マイクには拾われていない。


「一生の宝物だね」


俺は笑った。たぶん、ちゃんと笑えた。


披露宴が終わり、客を見送る頃には、奏音は少し疲れていた。

それでも一人ひとりに笑顔で礼を言い、写真を撮り、また泣きそうになった。

茜が最後の方に来た時、奏音はたまらず抱きついた。


「茜、ありがとう」

「うん」

「スピーチ、すごく嬉しかった」

「よかった」

「泣かないって言ってたのに、ちょっと泣いてたでしょ」

「奏音ほどじゃないよ」


二人は笑った。本当に、ただの親友みたいに。

奏音は茜の手を握った。


「これからも、ずっと一緒にいてね」


茜は少しだけ息を止めた。それから、頷いた。


「うん」


奏音は満足そうに笑い、次の客へ向かった。茜はその場に一瞬だけ残った。


「彰」


俺は茜を見た。


「最高の結婚式だったね」


茜はそう言った。声だけなら、祝福の言葉に聞こえた。


「ああ」

「本当に最高すぎた」


茜はそれ以上言わなかった。俺も言えなかった。



夜、式場を出る頃には、街の明かりが濡れたように見えた。雨は降っていない。ただ、疲れのせいで光がぼやけていただけかもしれない。


奏音はタクシーの中で、何度も今日の話をした。

ドレスのこと。

父親が泣いていたこと。

茜のスピーチ。

スクリーンに映った文化祭の写真。

猫の置物に気づいた友人が笑っていたこと。


それから指輪を見て、少し照れたように笑った。


「変な感じ。ちゃんと結婚したんだね」


奏音は指輪を何度も見ながら、そう言って笑った。


家に着くと、奏音はドレスではなくなっていたのに、まだ花嫁みたいな顔をしていた。

部屋に入ってすぐ、式場から持ち帰った小さな花をテーブルに置く。

それから、スマホを見て写真を確認し始めた。


「あ、これ見て。茜、泣きそう」


俺は隣に座り、画面を覗いた。

写真の中の茜は、確かに泣きそうな顔をしていた。

その隣で、奏音は満面の笑みを浮かべている。


「いい写真」


奏音はそう言った。


「明日、茜にも送ろう」

「ああ」

「今日はもう寝た方がいいよね。でも寝るのもったいないな」


奏音はスマホを胸に抱えた。子どもみたいな仕草だった。


「幸せすぎて、怖いくらい」


俺は奏音を見た。奏音は何も知らないまま、そう言った。その怖さの形を、何一つ知らないまま。


「寝ろよ。疲れてるだろ」

「うん」


奏音は素直に頷いた。寝室へ向かう途中で、振り返る。


「彰、今日はありがとう」

「俺だけじゃないだろ」

「うん。みんなにありがとう。でも、一番は彰に」


奏音は照れたように笑った。


「私、彰と結婚できてよかった」


言葉はまっすぐだった。傷ひとつない声だった。


「俺もよかったよ」


俺はそう答えた。ちゃんと答えられたと思う。


奏音は安心したように笑い、寝室へ入っていった。

扉が閉まる。

部屋には、テーブルの上の花と、式場でもらった紙袋が残された。


スマホが震えた。茜からだった。


『帰った?』

『帰った』


すぐに既読がつく。


『奏音、どう?』

『幸せそう』


返信したあと、しばらく画面を見つめた。


茜から次の言葉が届く。


『だよね』


それだけだった。でも、それだけで十分だった。


俺はテーブルの花を見た。

奏音がかわいいと言って選んだ花。今日の会場を飾っていた花。


――一生の宝物だね。


奏音の声が残っていた。


考えが甘すぎた。

全然足りていない。


俺は明日、何をすれば奏音の幸せを守れるのだろうか。




あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。

第5話で彰視点の物語は一区切りとなります。


次話「親友として」は、茜の側から見たもう一つの本編です。

よければ最後まで読んでいただけると嬉しいです。


読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。

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