第04話 二度目の約束
月曜日の放課後、奏音は茜とシールを買いに行った。
文化祭アルバム用だと言って、猫のシールと花のシールをいくつも選んだらしい。夜になってから、奏音はその写真を送ってきた。
『どれ貼るか迷う』
『彰はどれがいいと思う?』
俺はスマホの画面をしばらく見つめていた。
土曜日の写真は残っている。
文化祭の忘れ物を取り戻せた感じ、と奏音は言った。けれど、その日に俺たちが付き合ったことは残らなかった。
写真の中の奏音は笑っていた。俺の隣で、少し照れたように笑っていた。
それでも奏音は、その時の言葉を覚えていない。
返信を打てないままでいると、茜からメッセージが届いた。
『今、奏音と別れた』
『普通だった』
少し間を置いて、もう一通。
『ごめん』
俺はすぐに返した。
『茜のせいじゃない』
既読がついた。けれど、返事はなかった。
そのまま十分ほど画面を見ていると、今度は茜からの着信が来た。
「出ると思わなかった」
電話の向こうの茜は、ひどく疲れた声をしていた。
「奏音は?」
「家に帰った。たぶん、今ごろシール広げてる」
茜は少し笑った。その笑い方は、もう笑い方だけを真似しているみたいだった。
「今日、ずっとアルバムの話してたよ。土曜日の写真、入れるんだって」
「そうか」
「彰との写真、すごくいいって」
俺は何も返せなかった。
「でも、付き合ったことは覚えてない」
茜は自分で言って、自分で息を止めた。
「私、何したんだろうね。奏音にあんなこと言って、それでも残らなくて」
「何を言ったんだよ」
「聞かないでって言ったでしょ」
「けど!」
「聞いたら、彰はたぶん私を止めるよ」
茜の声は震えていた。それでも、言葉だけははっきりしていた。
「だから、聞かないで」
俺は壁にもたれた。部屋の電気はつけていない。スマホの光だけが、手の中で白く浮いていた。
「次は俺から言おうと思う」
俺がそう言うと、電話の向こうが静かになった。
「今度は俺から奏音に告白する」
「うん」
茜は驚かなかった。たぶん、同じことを考えていた。
「でも、同じじゃ残らないよ」
「ああ」
「私がやったくらいじゃ足りなかった」
茜はそこで、一度息を吸った。
「次は、二人でやるしかないんだよね?」
その言葉が、やけに心に残った。
まるで呪いのように染み込んでいく。
「そうだな」
「ごめん、私が不甲斐ないから……」
茜の声は小さかった。
「謝るなって……」
「でも、奏音が忘れたまま笑ってるのを見るの、もう嫌なんだよ」
俺はスマホを握り直した。
「茜……」
「なに?」
「ありがとう」
茜は何も言わなかった。
ただ、スマホの先ですすり泣くような音だけが聞こえてくる。
俺はそれを聞かないふりをした。
「頑張るから……」
茜はそれだけ言って通話を切った。
*
火曜日、俺は奏音を誘った。
放課後、駅前の公園で少し話したいと言うと、奏音は少しだけ目を丸くした。けれどすぐに笑った。
「また写真撮る?」
「違う」
「じゃあ、真面目な話?」
「そうかもな」
奏音は少し緊張した顔をした。でも、嫌そうではなかった。
茜はその日、何も言わなかった。教室で目が合った時に一度だけ小さく頷いた、それだけだった。
夕方の公園は、土曜日よりも人が少なかった。ベンチの前に落ち葉がいくつか転がっていて、風が吹くたびに乾いた音を立てる。
奏音は俺の隣に座り、膝の上で両手を重ねていた。
「で、話ってなに?」
「奏音」
名前を呼ぶと、奏音は少し背筋を伸ばした。
「俺は、奏音が好きだ」
言葉にした瞬間、前にも同じことを言ったはずなのに、初めて言うみたいに喉が痛くなった。
奏音は黙っていた。目を見開いて、俺を見ている。
「幼なじみとしてじゃなくて、一人の女の子として奏音のことが好きだ」
土曜日と同じような言葉だった。でも、奏音にとっては初めて聞く言葉だった。
しばらくして、奏音の顔がゆっくり赤くなった。
「……え、待って」
「待たない」
「待ってよ、心の準備ってものがあるでしょ!」
奏音は両手で顔を隠しそうになって、途中でやめた。指の隙間からこちらを見る。
「ほんとに?」
「嘘で言うことじゃないだろ」
「それ、なんか前にも聞いた気がする」
俺は息を止めた。
奏音は自分で言って、不思議そうに首を傾げる。
「変だね。初めてなのに」
「……そうか」
「うん。でも、嬉しい」
奏音は膝の上の手を握りしめた。
「私も、彰のこと好き」
その声は小さかった。けれど、土曜日よりも少しだけ迷いがなかった。
「たぶん、ずっと好きだったんだと思う。土曜日に写真撮った時も、なんか変な感じしてた。嬉しいのに、どこか足りないみたいな」
奏音は自分の言葉を探すように、視線を落とした。
「だからさ、今言われてやっぱりって思った」
やっぱり。その言葉だけが、胸に刺さった。
「付き合ってくれるか」
俺がそう聞くと、奏音は一瞬だけ固まった。それから、小さく頷いた。
「うん」
声が震えていた。でも、笑っていた。
*
その週、奏音は幸せそうだった。
朝、通学路で会うと少し照れた顔をしていた。
教室では今まで通りに話そうとして、時々失敗していたし、茜にはすぐに話していた。
「聞いて、茜!彰に告白された」
奏音は声を抑えようとして、ほとんど抑えられていなかった。茜はちゃんと驚いた顔をした。それから、ちゃんと嬉しそうに笑った。
「よかったね」
「うん」
奏音は頷いた。
「でもなんか変なの。前からこうだった気もするし、初めてな気もする」
「幼なじみだしね、距離感はあんまり変わらないのかも?」
「なるほど、確かにそうかも」
茜は奏音の髪を軽く整えた。その手つきは優しかった。
俺は見ていられなくて、視線を外した。
水曜日、奏音は一緒に帰ろうと言った。
木曜日、手を繋ぐかどうかで迷って、結局袖を掴んだ。
金曜日には、人通りの少ない道で指先だけを絡めてきた。
「ちょっと慣れてきた」
「何に?」
「彰と付き合ってること」
奏音はそう言って笑った。
「まだ三日だろ?」
「もう三日だよ」
奏音は嬉しそうに指を揺らした。繋いだ手が、少しだけ強くなる。
それを見るたびに、俺は日曜日のことを考えていた。
……日曜日。
俺と茜が決めた日。
奏音の中に、この一週間を残すために、俺たちが何かを壊す日。
土曜日の夜、茜からメッセージが届いた。
『明日、三人で会おう』
それだけだった。俺はしばらく画面を見つめてから、返した。
『分かった』
すぐに既読がついた。
『逃げないでね』
その文字を見て、手が止まった。
逃げたいと思っていた。奏音とこのまま一週間を終わらせて、何もせずに月曜日を待ちたいと思っていた。
もしかしたら残るかもしれない。
自分でもありえないと思っている希望に、縋りたくなる。
でも、先週は消えた。
茜が何をしたかは知らないけど、傷つけても残らなかった。
逃げられないことは、もう分かっていた。
*
日曜日、奏音は少しだけおしゃれをして来た。淡い色のカーディガンを着て、髪には新しい小さなピンを留めている。猫ではなかった。丸い花の形だった。
「茜も来るんだよね?」
奏音は嬉しそうに聞いた。
「ああ」
「三人で会うの、なんか久しぶりな気がする」
「そうか?」
「付き合ってからは初めてじゃない?」
奏音は自分で言って、少し照れた。
「変な感じ。茜に見られるの、ちょっと恥ずかしい」
その声に、何も返せなかった。
待ち合わせ場所の駅前に、茜は先に来ていた。奏音を見つけると、いつものように手を振った。奏音も手を振り返す。
「茜、お待たせ」
「ううん」
「今日どうする? カフェ行く? 写真のシールも見たいし」
奏音は楽しそうに予定を並べる。茜はそれを聞きながら、何度か頷いた。
それから、俺を見た。
ここで言うのか。もう少し後にするのか。俺は分からなかった。
茜が先に口を開いた。
「奏音、少し話していい?」
奏音は笑ったまま首を傾げた。
「なに、二人して真面目な顔して。怖いんだけど」
茜は笑わなかった。俺も笑えなかった。
駅前の広場から少し離れた場所に、小さなベンチがあった。三人でそこまで歩く間、奏音は何度か俺たちを見比べた。不安そうというより、状況が分からない顔だった。
ベンチの前で、茜は立ち止まった。
「奏音、あのね」
「うん」
「ごめん」
奏音の表情が少しだけ固まった。
「え?なにが?」
茜は一度、俺を見た。
俺は頷いた。
頷いてしまった。
茜は奏音へ向き直る。
「私と彰、付き合うことになった」
奏音の笑顔が止まった。
最初に茜を見た。次に俺を見た。それから、もう一度茜を見た。
「……え?」
その声は、思っていたより小さかった。
「何……それ……」
茜は唇を噛んだ。それでも、目は逸らさなかった。
「奏音、ごめんね」
「だって、彰と私……」
奏音はそこで言葉を止めた。自分で言ったことを、確かめるように俺を見る。
「付き合ってる、よね?」
俺は頷かなかった。
「彰?」
奏音の声が震える。俺は、喉の奥に詰まったものを押し込んだ。
なにか言おうと思えば思うほど言葉が出なくなる。
結局俺は何も言うことができなかった。
奏音はしばらく何も言わなかった。駅前の音だけが、遠くから聞こえていた。
バスのアナウンス。信号の電子音。誰かの笑い声。
「いつから?」
奏音が聞いた。
茜は答えなかった。俺も答えられなかった。
奏音は小さく笑った。冗談だと思いたい時の笑い方だった。
「私だけ、知らなかったんだ……」
その言葉が、一番刺さった。
茜の指が震えている。
俺はそれを見た。
それなのに、奏音の方へ手を伸ばしかけ……。
「そういうの、やめて!」
俺たちを見つめる奏音は泣いてはいなかった。
泣くより先に、感情が追いついていない顔だった。
「私、ちゃんと好きって言ったじゃん。彰も好きって言ったじゃん。今週、ずっと嬉しかったのに」
そこで声が崩れた。
「なんで、そんなことできるの!」
誰も答えなかった。
答えられる理由なんて、奏音に言えるはずがなかった。
奏音は鞄の紐を握りしめた。新しい花のピンが、夕方の光を受けて小さく光っている。
奏音はそのピンを外すと地面に叩きつけた。
「……帰る」
「奏音……」
茜が名前を呼んだ。奏音は振り返らなかった。
「呼ばないで」
その一言で、茜の顔が歪んだ。
奏音はそのまま駅へ向かった。
人混みに紛れる直前、一度だけ立ち止まり、でも振り返らずそのまま人混みの中に消えていった。
俺と茜は、その場に残された。
しばらく、どちらも動けなかった。
先に崩れたのは茜だった。ベンチに座り込んで、両手で顔を覆う。
「……言った」
小さな声だった。
「言っちゃった」
俺は隣に立っていた。何か言うべきだった。でも、何を言っても嘘になる気がした。
「茜」
名前を呼ぶと、茜は顔を覆ったまま、小さく首を振った。
「慰めないで」
「……分かった」
「でも、そこにいて……」
その言葉に、胸の奥が重くなる。
俺は何も言わず、茜の隣に座った。
茜は泣かなかった。
まるで、泣く資格なんてないとでも言わんばかりに、泣くことを拒否していた。
それでも俺の服を掴む手は強く握りしめられ、小さく震えていた。
奏音を泣かせたかもしれない。
奏音を壊したかもしれない。
それなのに、俺たちは二人で同じベンチに座っている。
そのことが、もう取り返しのつかないものに思えた。
*
夜、家に帰っても眠れなかった。奏音から連絡はなかった。茜からもなかった。
スマホを見て、画面を消しては点けるを繰り返すが、通知はない。
十一時を過ぎた頃、茜からメッセージが届いた。
『奏音から連絡来た?』
『来てない』
既読はすぐについた。
『こっちも来てない。来なかったらどうしよう』
それだけだった。
俺はベッドに座ったまま、暗い部屋の中でスマホを握っていた。
奏音が今日のことを覚えていたらどうなるのかを考えた。
月曜日の朝、奏音が俺たちを見て、今日と同じ顔をするところを考えた。
それが怖かった。
――頼むから忘れてくれ。
自然とそう思っている自分が、それ以上に怖かった。
日付が変わって、しばらく経った。眠れないまま、スマホの画面だけを見ていた。
一時を少し過ぎた頃、通知が届いた。
奏音からだった。
『明日の朝も迎えに行くね』
『大好きだよ。おやすみ』
俺は画面を見たまま、動けなかった。
残った。
安堵した自分が嫌になって、吐き気がしてきた。
*
あとがき
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