第03話 残った写真
「同じような写真、もう1回撮りたい」
火曜日の放課後、奏音はそう言った。
文化祭で俺と二人で撮った写真を、奏音は覚えていなかった。
写真の中の自分を見て、すごく楽しそうだね、と他人事みたいに笑った。
土曜日、駅前の広場にはスマホを片手にうんうんと唸っている奏音がいた。
「ここだと逆光かな」
「写真部かよ」
「前に撮ったやつが、凄くよかったからさ。写真部に負けたくないじゃん」
奏音はそう言って、少しだけ笑った。文化祭の時よりも落ち着いている。でも、楽しみにしているのは分かった。
今日は珍しく茜はおらず、奏音と二人だった。
奏音はスマホをベンチの上に立てかけ、タイマーを設定して俺の隣に並ぶ。
「彰、近い」
「お前が寄ってきたんだろ」
「違うし。写真に収まるためだし」
奏音は言いながら、肩を少し寄せた。文化祭の写真よりも、近かった。タイマーの数字が画面で減っていく。
「うん。満足!」
「そりゃあ、こんだけ撮って満足してなかったらそっちの方が問題だ」
昼前に待ち合わせて、既に日も暮れかけていた。
何時間写真を撮るのに付き合わされたんだろうか。
「じゃあ、満足してないから明日は茜も誘ってもう1回だね!」
「まじで、勘弁してくれ……」
夕暮れの公園でブランコに座りながら、奏音は写真を見返していた。
それから少し迷うように、スマホを握った。
「ねえ、彰」
「なんだ?」
「文化祭さ、楽しかったのは覚えてる。すごく楽しかったのは分かる。でも、あの写真の時のことだけ、なんかぼやっとしてて」
奏音はベンチに座った。俺も少し離れて隣に座る。夕方の公園は、子どもたちの声が少しずつ遠ざかっていく時間だった。
「彰ってさ、昔からずっと隣にいたじゃん」
「まあ、家近いしな」
「そういうことばっか言うし」
奏音は少しだけ眉を寄せた。でも、すぐにまた笑う。
「幼稚園の時も、小学校の時も、中学の時も、高校でも。なんか、当たり前みたいにいたから、当たり前すぎて、ちゃんと考えたことなかったんだよね」
「幼なじみなんてそんなもんだろ」
そう返すも、奏音からの反応はなく、独白が続く。
「文化祭で二人で撮った写真。あれ見た時、思ったんだよね。私、来年はもう同じ場所にいないんだなって。制服着て、文化祭で騒いで、彰と写真撮るのも最後なんだなって」
奏音はスマホの画面を点けた。中庭で撮った写真が表示される。
花のアーチの前で、奏音が笑っている。俺はその隣で、やっぱり少し固い顔をしていた。
「最後って思ったら、急に嫌になった」
「何が?」
「当たり前じゃなくなるのが」
奏音は画面を消した。夕日の光が黒くなったスマホに映り込む。
「彰」
名前を呼ばれて、顔を上げる。奏音はまっすぐ俺を見ていた。笑っていない。泣きそうでもない。ただ、逃げないようにそこに立っていた。
「私、彰のことが好き」
音は小さかった。それでも、はっきり聞こえた。
「幼なじみとしてじゃなくて、ちゃんと男の人として好き。本当は文化祭の時に言おうかと思ったんだけど、なんか勇気出なくて」
文化祭の夜の出来事が蘇った。
公園で改まって話をしようとした奏音を。
潰れて土まみれになった髪飾りを。
俺は何も言えなかった。言葉が喉の奥で止まる。
奏音はそれを見て、少し慌てたように続けた。
「でもやっぱり、茜に先越されちゃうんじゃないかって思って」
「茜?」
「うん、よく二人で内緒話してるし、なんか視線だけで通じあってることあったりさ。もしかしたら付き合ってて、私だけ知らないのかなって」
茜と付き合っている。
昨日も同じことを言われた、その否定も奏音の中には残っていなかったようだった。
それだけ、奏音にとって大切なことだったんだろう。
「奏音」
俺が名前を呼ぶと、奏音は肩を少し強張らせた。
「うん」
「急がなくていいって言われても、返事は今するよ」
「え、今?ちょっと待って、心の準備できてない」
「俺も……奏音のことが好きだよ。幼なじみとしてだけじゃなく、一人の女の子としてずっと好きだった」
言ってしまうと、思っていたより声は普通だった。奏音は瞬きをして、少し遅れて意味を受け取ったように口元を押さえた。
「……ほんと?」
「嘘でこんなこと言うと思うか?」
「思わない。だって彰の顔真っ赤だもん」
「夕日のせいだろ、たぶん!」
「じゃあ、私が赤くても夕日のせいだね」
奏音はそう言って笑った。今度の笑顔は、昼間とは違う、嬉しいのにどうしたらいいか分からない顔だった。
笑っているのに、泣きそうな顔をしていた。
俺はその顔を、ちゃんと見てしまった。
「じゃあ、えっと」
奏音はスマホを握り直し、視線を足元に落とした。
「私たち、付き合うってことで……いい?」
「そうだな」
「ほんとに?」
「何回確認するんだよ」
奏音は照れたように笑い、スマホを胸に抱える。
「今日、すごい日になったね!」
俺は何も言えなかった。奏音が告白した日。俺が受け入れた日。奏音にとって、残したいものがまた一つ増えた日。
その重さを、奏音だけが知らなかった。
公園を出る時、奏音は少しだけ俺の隣を歩く距離を近くした。
肩が触れるほどではない。
けれど、今までより明らかに近い。
嬉しそうに歩きながら、奏音が小さな声で言った。
「明日から、どうすればいいのかな」
「どうって?」
「いや、付き合うって、急に何か変わるのかなって」
腕を組んで歩いているところを想像しながら、今と変わらないなと結論づける。
俺のことを男と思ってないのかと思ってたんだけどな……
「別に、無理に変えなくていいだろ?」
「そっか。じゃあ、今まで通りでちょっとだけ特別?」
「それくらいでいいんじゃないか」
奏音は満足そうに頷いた。
帰り道、奏音を家まで送り別れる際に、奏音は少しだけ俺の袖を掴んだ。
「明日も会える?」
「明日?」
「うん。付き合って最初の日曜日、みたいな?」
奏音は自分で言って、恥ずかしそうに笑った。
「明日は茜と3人で写真撮るんじゃなかったのか?」
「うん、でもせっかくだから二人で会いたい。茜には私から謝っておくからさ。ダメかな?」
「わかった、俺からも茜に謝っておくよ」
奏音は嬉しそうに手を振って、俺を見送っていた。
しばらく歩いて振り返るとまだ手を振っている。
きっと、俺が見えなくなるまで振り続けてるだろう。
*
奏音の家から15分ほど歩いたところに俺の家はある。
家の前までたどり着くと、そこには茜が待っていた。
「早いな」
「なんか今日はまずそうな予感がしたから、何時でも出れるようにしてた」
さっきまで奏音とあんな話をしてたというのに、奏音と別れた俺はすぐに茜と連絡を取っていた。
『まずいことになった』
『すぐ行く』
やり取りはそれだけだった。
まずいこと、そういったことに罪悪感を感じながらも、奏音のためだと思い自分を納得させる。
「で、奏音に告白されてOKしたって感じであってる?」
内容は話してもいないのにぴたりと当ててくる。
奏音から何か聞いたのか?
「なんでわかった?」
「そりゃあ、今週の奏音の様子を見てて、今日は二人で出かけたいって言われればね。で、まずいことでしょ?さすがにわかるわよ」
――親友だもん。
最後の言葉は小さく、それでも決意に満ちた力強さを持っていた。
「今週は彰は何もしないでいいから」
そう言った茜の顔には強い決意が宿っていた。
奏音のために何かをするという決意だった。
ただ、俺たちにとっての"奏音のため"は、普通とは違う。
茜は一人で全てを背負おうとしていた。
「奏音、嬉しそうだったんでしょ?」
「それは……」
「なら、彰との時間くらい、幸せなまま終わらせてあげて」
茜の声は静かだった。けれど、指先は少し震えていた。
「じゃあ、どうするんだよ」
「私が全部やる。彰は明日を最高の日にしてあげて」
「やめろ」
「やめたら、何も残らないでしょ!」
それは、これまで俺たちが何度も口にしてきた言葉だった。今度は茜が言った。
「けど……」
「いいの」
茜は顔を上げた。先ほどまでの決意を秘めた顔ではなく、ただただ泣きそうな顔だった。
「彰は明日、奏音と普通に会って。幸せな記憶を作ってあげて」
「その後で、茜が壊すのか」
茜は少しだけ唇を噛んだ。
「うん」
短い返事だった。それ以上言わせることができなかった。
その夜、茜が何を言ったのか、俺は知らない。聞かなかった。
ただ、日付が変わる少し前に、奏音からメッセージが届いた。
『茜とちょっと話した』
『私、浮かれすぎてるかな』
『でも明日は楽しみにしてるね』
俺はその文面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
茜からは何も来なかった。
*
日曜日、奏音は少しだけ眠そうな顔で駅前に来た。それでも俺を見つけると、すぐに笑った。
「おはよ」
「寝不足か?」
「ちょっとだけ。昨日、茜と話してたら遅くなった」
「何を話したんだ」
聞いてから、聞くべきではなかったと思った。
奏音は少し考えてから、困ったように笑った。
「うーん。彰のこと」
「俺?」
「うん。茜って、たまにすごく鋭いからさ」
それ以上、奏音は言わなかった。言わせることもできなかった。
俺たちは駅前のカフェに入った。奏音は昨日より少しだけ静かだったが、それでも楽しそうだった。ケーキを半分ずつ食べて、写真を撮って、どうでもいい話をした。
帰り道、人通りの少ないところで奏音が手を差し出した。
「彰、手繋いでみよ」
俺はその手を取った。奏音の指先は少し冷たかった。
「慣れないね」
「昨日は袖だったからな」
「今日は一歩進んだね」
奏音はそう言って笑った。その笑顔を見て、茜が昨日何を言ったのかを考えないようにした。
考えたら、手を離してしまいそうだった。
家の前には、おじさんが待っていた。
いつも奏音に厳しい人だった。
小言が多くて、奏音はよく文句を言っていた。
けれど俺と茜だけは知っている。
小学校の頃、そのおじさんが泣きながら奏音のことを話した夜を。
あの頃は分からなかった。
どうして父親が、娘にあんな言い方をするのか。
今なら分かる。
おじさんも、俺たちと同じ場所にいた。
おじさんの顔は嬉しそうに緩んでいたが、奏音が気づくと表情を引き締めた。
奏音は慌てて手を離しながら、別れを惜しむようにしていた。
「また明日」
「ああ、また明日」
その言葉の残酷さを、奏音は知らない。
奏音は満足そうに笑って、俺を見送る。
きっとまた俺が見えなくなるまで手を振ってるんだろう。
家へ向かう途中、後ろからおじさんが追いかけてきた。
「彰くん」
振り返ると、おじさんは息を整えながら、俺の前で足を止めた。
「おじさん。奏音と、付き合うことになりました」
言葉にした瞬間、おじさんの顔が険しくなった。
それは、一人娘を取られた父親の怒りではなかった。
明日を恐れる人の顔だった。
「……今日の奏音は、幸せそうだったね」
「はい」
「それだけに、怖いな」
俺は何も言えなかった。
「茜ちゃんは?」
「この後、何かするとは言っていました」
おじさんは小さく頷き、少しだけ目を伏せる。
「そうか。私の方でも、できることを考えてみる」
できること。
その言葉の意味を、俺は知っていた。
奏音が幸せそうに帰ってきた日の夜ほど、おじさんは厳しい父親になる。
門限のこと。
服装のこと。
勉強のこと。
奏音があとで文句を言えるくらいの、小さな傷を作る。
「彰くん」
おじさんはもう一度、俺を見た。
「おめでとう」
その声は、祝福の言葉なのに、少し震えていた。
「それから、奏音を選んでくれてありがとう」
そう言って頭を下げるおじさんの目には、涙が浮かんでいた。
*
その夜、茜から電話が来た。
「今日、どうだった」
「普通に遊んできた」
少しの沈黙が落ちる。
「彰、今日は早く寝て。
できれば、奏音から電話来ても出ないようにして」
「ああ、わかった」
この後、茜はなにかするつもりなんだろう、俺はあえてそれを聞かない。
知ってしまうと止めてしまいそうで、奏音からかかってくるであろう電話に出てしまいそうで。
聞かないことを選択した。
茜の声は、安心したようにも聞こえた。でも、それ以上に疲れていた。
しばらく沈黙が続いた。電話の向こうで、茜が小さく息を吸う音がした。
「残るよね」
その声は、今にも崩れそうだった。
「分からない」
「うん」
「でも、残ってほしい」
「うん」
茜は短く答えた。
「私も残ってほしい」
*
月曜日の朝、俺はいつもより早く学校へ行った。
教室にはまだ人が少ない。
茜は俺より少し遅れて来た。顔色が悪いように見える。
まぶたが腫れ、目が充血していた。
おれはその事に気付かないふりをする。
「奏音から何か来た?」
「夜に大量の着信が来てた」
「……そっか」
二人で教室の入口を見た。人が入ってくるたびに、心臓が変な音を立てる。
始業五分前、奏音が教室に入ってきた。
「おはよ」
いつもの声だった。
俺と茜は、ほとんど同時に顔を上げた。
奏音はスマホを取り出し、画面をこちらへ向けた。
「見て。土曜日の写真、いい感じじゃない?」
画面には、公園で撮った写真が映っていた。俺と二人で撮った写真。昨日まで、奏音が何度も嬉しそうに見返していた写真。
写真は覚えている。撮り直したことも、たぶん覚えている。
でも、声が違った。昨日の駅前で、明日も会えるかと聞いた時の声ではなかった。手を繋いだ時の照れもなかった。
「奏音」
自分でも、聞かない方がいいと分かっていた。それでも止められなかった。
「なぁ、土曜日のことなんだけど」
茜が息を止めるのが分かった。
奏音は不思議そうに首を傾げた。
「土曜?なんか欲しい写真あった?」
奏音はスマホの画面を指で叩いた。
それは隠し事をするという感じではなく、本心から楽しかった思い出を語っているようだった。
「いい写真だよね。文化祭の忘れ物を取り戻せた感じ」
そこまでは残っている。だけど、その先は消えていた。
「……そうだな」
声がかすれた。
奏音は変なの、と笑って、茜の方へ向かった。
「茜、今日帰りにアルバム用のシール見に行かない?」
茜は返事をしなかった。奏音がもう一度名前を呼ぶ。
「茜?」
「あ……うん。行こう」
茜はようやく笑った。でも、口元だけだった。
奏音は俺たちが付き合ったことを覚えていなかった。土曜日の告白も、日曜日に手を繋いだことも、駅前で忘れないでと言ったことも、全部なくなっていた。
残っていたのは、写真だけだった。写真の中の奏音は、昨日と同じ顔で笑っている。でも、その笑顔につながるはずだった言葉は、奏音の中から抜け落ちていた。
「消えたね」
茜が、奏音に聞こえない声で言った。
俺は頷けなかった。頷いたら、それが確定してしまう気がした。
「ごめん……足りてなかった……」
茜の声が震えた。
「茜が謝ることじゃないさ」
俺の声も少し震えていた。
奏音は少し離れた席で、文化祭アルバムの話をしている。土曜日の写真は覚えている。けれど、その日に俺たちが恋人になったことは覚えていない。
茜は机の端を握った。指先が白くなっていた。
「じゃあ、次はどうすればいいの」
その問いに、俺は答えられなかった。答えられなかったのに、もう答えは分かっていた。
もっと深く傷つけるしかない。
そう思った自分が、何より嫌だった。
*
あとがき
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