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操田従も、そんな彼女から目が離せない一人だった。
ただ、クラス……いや学園内のヒエラルキーの頂点に君臨する彼女と、教室の隅でひっそりと息を潜める『陰キャ』の俺とでは、住む世界が違いすぎる。
それでも、彼女は誰に対しても分け隔てなく接してくれた。当然それは陰キャでもある俺も例外ではない。
「操田くん、おはよう。今日も朝早くから本を読んでるんだね!」
不意にかけられた声に、俺はビクッと肩を揺らした。
顔を上げると、そこには女神のような微笑みを浮かべた愛梨が立っていた。
「あ、お、おはよう……」
「その本、面白いの? いつも熱心に読んでるから、気になってたんだ」
彼女は俺の机に少しだけ身を乗り出し、表紙を覗き込む。
その瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってきて、従の心臓は早鐘のように打ち始めた。
「こ、これは……ただのミステリー小説で……」
「へえ、ミステリーかぁ。わたしそういうのあまり読まないから、今度おすすめ教えてね」
ニコッと笑う彼女の笑顔は、破壊力抜群だ。
ただでさえ異性との会話の経験なんて、ほとんどない俺にとっては、あの白鳥愛梨との会話など、夢の時間そのものと言っていい。
周りの男子たちが羨望の眼差しでこちらを見ているのがわかる。
こんな俺にまで気を使ってくれるなんて、本当に彼女は天使なんじゃないか。
そう思って俺が自然と口角を上げてしまった、その時だった。
「……きっしょ」
不意に、斜め前の席からヒソヒソ声が聞こえてきた。
視線をやると、クラスの男子数人が俺の方を見てニヤニヤと笑っている。
大松、清田、根元、塀内。ことあるごとに俺のことをからかう男子たちだ。相容れない。
「みた? あいつ、愛梨ちゃんに話しかけられただけで、めっちゃニヤけてるんだけど」
「きっしょ! 陰キャのくせに、何勘違いしてんだろうな?」
「愛梨ちゃんは誰にでも優しいから声かけただけなのに、自分に気があるとか思ってそう」
「痛いなー」
クスクスという嘲笑が、俺の耳に嫌でも突き刺さる。
急に現実に引き戻され、俺が俯きかけた瞬間だった。
「ちょっと! 今の大松くんでしょ! それに清田くんに、根元くん、それから塀内くん」
凜とした、それでいてどこか冷たさを持たない、静かな声が教室に響く。
声の主は、愛梨だ。
彼女は先ほどまでの柔らかな笑顔を引っ込め、少しだけ悲しそうな表情と、潤んだ瞳を浮かべて彼らを見つめていた。
「……そういうこと言うの、良くないと思うな。操田くんはただ、わたしと本のお話をしてくれてただけだよ?」
「あ……いや、愛梨ちゃん、その、俺らは別に……」
歯切れの悪そうな問答で、しどろもどろになって何を言うべきか分からず、ひたすら大松は目線を泳がせる。
「誰かが傷つくような言葉で笑うのって、かっこよくないよ。わたし、みんなにはそう人になってほしくないから。だから」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、男子たちはたちまち顔を赤くして狼狽え始めた。
「ご、ごめん……愛梨ちゃん!」
「ううん、私にじゃなくて、操田くんに、ね?」
上目遣いで優しく諭すように言われ、彼らは渋々ながらも俺に向かって「悪かった」と頭を下げる。
「ごめんね、操田くん。嫌な思いさせちゃって。続きはまた今度、絶対聞かせてね!」
愛梨がそう言って俺に優しく微笑みかけたタイミングで、教室の反対側から声が上がった。
「ねぇあいりー! ちょっとここ教えてくれない?」
ギャルっぽい女子、中郷沙耶が手を振っている。彼女の手には数学の課題プリントが握られていた。
「うん、いいよー。どこかな?」
愛梨は俺に「またね」と軽く手を振ってから、沙耶の席へ向かった。
「ここなんだけどさー。公式当てはめても全然数字合わなくてさぁ。なんでだろ?」
「あ、ここはね、この公式じゃなくて、こっちを使うんだよ。ほら、ここにマイナスがついてるから……」
愛梨は沙耶の横に立ち、丁寧に、分かりやすく解説を始める。
「なるほど! そういうことか! あいりーマジ神!」
「ふふ、大げさだよぉ」
愛梨は困ったように笑う。その謙虚な態度も、彼女の株を上げる要因の一つだった。
教え終わった後も、愛梨は沙耶やその周りの女子たちと雑談に花を咲かせている。
「ねえねえ愛梨ちゃん、今度の週末、駅前にできた新しいパンケーキ屋さん一緒に皆で行かない?」
「あ、いいね! わたしもちょうど気になってたんだ。じゃぁいこっか」
「やったー! 愛梨ちゃんと一緒なら絶対楽しいし!」
女子グループの輪の中心には、常に愛梨がいる。彼女が笑えば周りも笑い、彼女が頷けば周りも同調する。
決して自分が一番前へ出ようとするわけではないのに、気づけば場の主導権を握っているのは、いつも愛梨だ。
ふと、愛梨が視線を教室の後ろへ向けた。
そこには、次の授業のプリントの束を抱え、少しバランスを崩しかけている大人しそうな男子生徒、江村の姿があった。
「あれ、江村くん。それ、次の授業のプリント?」
愛梨は女子たちの輪からすっと抜け出すと、小走りで彼のもとへ駆け寄った。
「えっ? あ、うん……白鳥さん!?」
「もう江村くん。わたしのことは気軽に愛梨って呼んでくれていいからね!」
「えっ!? う、うん…あ、愛梨、さん」
突然至近距離から名前を呼ばれ、しかも『愛梨』と呼ぶことを許された江村の顔は、瞬く間に茹でダコのように真っ赤に染まった。
彼は完全に動揺し、抱えていたプリントの束が手から滑り落ちそうになる。
バサッ、という音を立てて崩れかけた紙の束を、すんでのところで下から支えたのは、他でもない愛梨の白く細い手だった。
「わっ! とと……危ない危ない。えへへ」
愛梨はふふっと小さく笑いながら、江村が抱える束の半分を自分の胸元へと引き寄せた。
「あ、あの! ごめん、僕が運ぶから……!」
「いいのいいの。これ、結構重いし。全部一人で運ぶの大変でしょ? 半分持つから、一緒に職員室まで行こっか」
「で、でも、白鳥さ……じゃなくて、愛梨さんにそんなことさせられないし……」
恐縮しきってしどろもどろになる江村をよそに、愛梨は一切恩着せがましい素振りを見せず、ただひたすらに自然体だった。
まるでお節介を焼いているという感覚すらなく、困っている人がいるから手を差し伸べた。
ただそれだけだというような、一点の曇りもない笑顔。
彼女のその態度は、相手の罪悪感や引け目を優しく溶かしてしまうような温かさを持っていた。
「そんなこと言わないで。わたしがお手伝いしたいだけなんだから。……だめ?」
そう言って小首を傾げ上目遣いで微笑みかけられれば、年頃の男子高校生がそれに抗えるはずもない。
江村は観念したように、しかしこれ以上ないほどだらしなく頬を緩ませて、「……ありがとう」と小さな声で呟いた。
「どういたしまして! じゃ行こっ」
愛梨はプリントの束を抱えたまま、軽やかな足取りで職員室のほうへと向かっていく。その後ろを、顔を真っ赤にしたまま江村が慌てて追いかける。
その光景を見つめるクラスの空気は、羨望と感嘆に包まれていた。
一部の男子からは「江村、おれと代われ」という恨めしそうな声が漏れ、女子たちも「愛梨ちゃんって本当に優しいよね」とささやき合っている。
誰一人として不快にさせず、むしろ周りの人間をすべて自分の虜にしてしまう。
息を吸うのと同じくらい自然に善意を振りまき、完璧な気配りをみせる。
俺は席からその一連のやり取りを眺めながら、改めて思い知らされていた。
白鳥愛梨という存在がいかに特別で、いかにこの空間の中で光輝いているかということを。
教室の中心で愛らしく微笑む彼女は、文字通り手が届かない『偶像』そのもの。
――そんな風に本気で信じていた。ほんの数時間前までは。




