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放課後。
ホームルームが終わると同時に、生徒たちは部活や遊びへと散っていき、活気に満ちていた校舎は徐々にその喧騒を失っていく。窓から差し込む夕日は、廊下を長くオレンジ色に染め上げていた。
そんな俺はと言えば、一人とぼとぼと人気のなくなった校舎の裏側へと向かっていた。
理由は単純。大松たちに、当番のゴミ捨てをお願い(というなの押し付け)されたからである。
ニヤニヤと笑いながら押し付けられたゴミ袋は、ずっしりと重かった。
断りたかったが、目をつけられてこれ以上面倒なことになるのは避けたかった。陰キャの処世術とは、ひたすらに波風を立てないことだ。
あの場に愛梨さんがいれば……。そう思ってしまった自分が情けない。
きっと彼女がみていたら、こんな行いを決して許しはしないだろう。誰よりも優しく、誰よりも勇敢で、誰よりも正義感の強い彼女に救いの手を差し伸べてほしかった。そう願ってしまったことは事実だ。
ただ、今はそんなことを考えてしまっても仕方ないと、半ば自分に言い聞かせるように、無心で裏庭の焼却炉へ向かう。
この時間は体育館で運動部が活動しているため、校舎の裏手にはほとんど人が寄り付かない。
日陰になって薄暗く、じめっとした空気と、少し埃っぽい匂いが漂っている。
溜め息をつきながらゴミ袋を投げ捨て、さっさと帰ろうと踵を返した。――その時だった。
「――っざけんなよ、マジでさぁ」
不意に。不意に背筋が凍り付くような、冷たい声が耳に届いた。
憤怒、苛立ち、鬱憤。怒りの感情がこれでもかというほどに煮詰まった、地を這うような低い声。
空耳かと思った。
だがその声の主は、旧校舎の裏手、茂みの奥のほうから聞こえてきたことは確かだった。
「なんだよあのクソアマ……『週末パンケーキ行こっか』だぁ? ふざけんなよ、誰があんなカロリーの塊食うかよ。こっちは体型維持すんのにどんだけ金と時間かけてると思ってんだ。つーかどうせ写真だけとってろくに食いもしねぇだろ。あんなもんに頼らなきゃ自分アピールできねぇカスの分際のくせに。お前らなんかあたしの引き立て役にもなりゃしねーよ」
その声が誰なのか。
声質は、よく知っているものだ。俺に何度も優しく話しかけてくれた、あの声に。
ただその口調、敵意むき出しの荒々しい、ドスを効かせたような悪意ある声が、俺の脳を限界点までバグらせていた。
息を殺し、足音を殺し。俺は……吸い寄せらるかのように茂みのほうへと近づいた。
錆びついたフェンスの隙間、薄暗い裏庭の様子が僅かに視認できる。
――そこには、壁を背に腕を組み、苛立たしそうに腕を組む女子生徒の姿。
その姿はまさに。
「あーうぜぇ。何が『あいりー神』だっつーの。バカ女に教えてやる義理なんかこっちはないってのに。いい加減愛想振りまくのもだりぃって学べよ。あぁバカ女だからわかんないか」
彼女は、忌々しそうに足元の小石を蹴り飛ばす。カラン、と乾いた音が静かに裏庭へと響いた。
「江村とかいうクソ童貞もまじきしょい。ちょっと話しかけられたぐらいで顔真っ赤にしてさ。童貞丸出しまじきっつ!」
血の気が引いた。
言葉の端々からこぼれ落ちた、強烈な自己顕示欲と他者への見下し。
朝の教室で見せていたあの天使のような微笑みとは対極にある、醜悪とさえ言える本性だった。
――嘘だ。こんなの。
俺は息をするのも忘れ、その光景をただ呆然と見つめることしかできなかった。
透けるような白い肌。腰まで伸びた艶やかな黒髪。夕闇に沈む薄暗い場所にあっても、その容姿の美しさだけは変わらない。
ただ、その顔を歪める冷酷な表情は、俺の、俺たちの知る『白鳥愛梨』のものではなかった。
「あークソ童貞っていえば、あのクソ陰キャ……操田だっけ? あいつもマジでキモかったわ。話しかけられただけであんなニヤついて。きっしょ。大松たちがからかってたの、内心大爆笑だったんだけど。庇うのクソ面倒だったわー。さっさといじめられて不登校にでもなってりゃいいのに」
「――ッ!」
自分の名前が出た瞬間、心臓が跳ね上がった。
朝、俺を庇ってくれたあの優しさも、笑顔も。
全ては、彼女自身、白鳥愛梨という『完璧な学園のアイドル』という虚像を守るための、ただの演技でしかなかった。
信じたくなかった。
それえも目の前で毒を吐き続ける彼女の姿が、それが紛れもない現実であることを、これでもかと突きつけてくる。
急いでこの場から立ち去らなければ。
頭で考えるよりも先に、本能が感じ取っていた。見てはいけないものを見てしまったと、俺の足を動かす。
……が、急に後退りしようとしたせいで、足元の枯れ枝を思い切り踏み抜いてしまった。
パキ……。
「あっ」
静まり返った裏庭に、その音は致命的なほど大きく響き渡った。
彼女は独り言をピタリと止め。ゆっくりとこちらを振り向く。
「見たんだ」
愛梨は嫌に冷静だった。その声には、先ほどまでの荒々しい怒りすら消え失せ、底冷えするような絶対零度の感情だけがこびりついていた。
俺は全身が硬直して、喉の奥がヒュッと鳴るだけで言葉が出ない。
夕闇に沈む裏庭。錆びついたフェンスを挟んで、俺と彼女の視線が完全に交差していた。逃げ場はない。「何も聞いていない」、なんて言い逃れは果たして通用するだろうか。
ゆっくりと、フェンスの裏から愛梨が姿を現し、こちらへ歩み寄ってくる。
ザッ、ザッ、と制服のスカートが擦れる音と、ローファーが砂利を踏む音だけが、静寂に包まれた空間に不気味に響く。その足音が一つ響くたびに、まるで俺の寿命が数日ずつ削り取られていくような錯覚に陥った。
近づいてくる彼女の顔には、朝に見せていた女神のような微笑みは欠片もない。
透き通るような白い肌が、今はまるで血の通っていない蝋人形のように冷たく浮かび上がっている。
いつもは優しく三日月型に細められる焦げ茶色の瞳が、今は獲物を値踏みする爬虫類のように、一切の感情を排して俺を射抜いていた。
「あ……あの。その俺はな、何もみてないし、聞いてなくて。だから、その」
本能的な恐怖から、俺の口が勝手に動いた。情けない声が震え、後ずさろうとするが、足はまるで地面に縫い付けられたように動かない。
愛梨の形の良い唇が、ゆっくりと、ひどく歪な形に吊り上がった。
「へえ? 何も見てないし、何も聞いてないんだ。ふーん……そっかぁ」
彼女は一歩、また一歩と距離を詰め、ついに俺の目の前、鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離で立ち止まった。
朝の教室で感じたあのふわりとした甘い香りが漂ってくる。だが、今はその香りが恐ろしい毒牙のように思えて、息をするのすら苦しかった。
「ねぇ操田くん」
その声はいつもの声。よく知っている天使のような声。それなのに、目の前の彼女の目は一切笑ってなんかいなかった。
「てめぇ、全部聞いてたんだろ!? なぁ」
身の産毛が逆立った。
ドスの効いた、それでいてひどく冷酷な響き。それが学園のアイドル。白鳥愛梨の口から発せられたという現実が、俺の脳を激しく揺さぶる。
「あ、いや……その、本当に俺はただ、ゴミを捨てに来ただけで……! たまたま、その」
弁解しようと必死に口を開くが、愛梨は俺の言葉を遮るように、すっと白く細い指を伸ばし、俺の胸ぐらを軽く掴んだ。
「……どうする? 言いふらす? 『みんなの天使、白鳥愛梨ちゃんは、実は性格最悪のクソアマでしたー!』って。教室のど真ん中で叫ぶ? それとも学園の裏サイトにでも書き込む?」
「し、しない! 絶対誰にも言わない! 二人だけの秘密にするから! だから……!」
「ハッ! 言うわけないよねぇ。だってさぁ……」
愛梨は俺の胸ぐらを掴んだまま、顔をさらに近づけてきた。整った美貌が視界いっぱいに広がり、彼女の吐息が頬にかかる。一瞬で、『天使の笑顔』を向けながら。
「言ったところで、誰が信じるの?」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
学園のヒエラルキーの頂点に君臨し、教師からも生徒からも、絶大な信頼と好意を寄せられている白鳥愛梨。
片や、常に教室の隅で息を潜め、大松たちからいいようにからかわれている陰キャの俺。
「誰も信じないよ。それどころか、私が『操田くんに裏庭に呼び出されて、無理やり迫られたの!』ってちょっと涙ぐんで言えば……どうなっちゃうかなぁ?」
「……っ!」
「大松くんたち、喜んで操田くんのことボコボコにしてくれるんじゃないかなぁ? それとも先生に言って、退学まで追い込んじゃおっか。ねえ?」
冗談ではない。彼女のその冷たい瞳は、それがいつでも実行可能であり、微塵も躊躇わないという残酷な事実を雄弁に物語っていた。
彼女にはそれができる。それができるだけの信頼が、地位がある。あの完璧な『表の顔』を使えば、俺一人を社会的に抹殺することなど造作もないのだ。
「ま、待って下さい! お願いしますそれだけは。その、なんでもします、から……!」
「へぇ、なんでもするんだ?」
俺が口走ったその言葉を聞いた瞬間、愛梨の目がスッと細められ、口角が深い三日月を描いた。
それは、悪魔が契約書にサインをさせた瞬間の、邪悪で歓喜に満ちた笑みだった。
「言ったね? なんでもするって」
「う……。は、はい」
助かるにはこれしかないと思った。彼女と対峙した威圧感に気圧され、別の選択肢を選んでいられる状況でもない。
愛梨は俺の胸ぐらから手を離し、まるで汚いものにでも触れたかのように、パンパンと両手を払った。
「というわけでさ。今日からお前、あたしの犬ね」
突き放すような、決定事項を告げる冷ややかな声。
「あたしの命令には従ってもらうから。嫌とは言わせないよ。クソ童貞のクソ陰キャでもそれぐらいは理解できるよね?」
「わ、分かった……」
絞り出すようにそう答えることしか、俺にはできなかった。




