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ウィタミーキスの探命日誌  作者: MasauOkubo
生き、捕える網は地下に
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菌糸網は地下にて 雨を待っていた

 久方ぶりの雨に用意のなかったアンブランとディスティであったが、カッシングが執事として働いていた頃から携えていた傘を貸してもらい、幾度も礼を言ってカッシング宅を後にした。


 紳士用の大きな黒傘は、殊に上背のあるディスティによく似合い、彼女がアンブランと肩を寄せ合って去っていく後ろ姿はともすればカップルの様にも見えた。街外れの雑居ビルにあるチャルラット医院まで共に向かい、ディスティと別れた後アンブランは隣の市へとひとり帰るのだろう。


 会話が絶えて急に静かになった部屋の中に、穏やかな雨音が忍び込んでくる。そぼ降る雨に潤されていく庭を、カッシングは椅子に座ったまま暫く眺めている。


「この分だと、今日は庭の水やりを担っていただかずとも済みそうですな。」


「カッシングさん、もしかして、毎日僕らが水やりを行うたび、申し訳なく感じているのですか?精神面の負担に繋がらぬよう、自動人形である僕らには気兼ねなくお任せください。」


 リーピは生真面目な声で述べたが、カッシングは穏やかに微笑みながら静かに首を横に振った。


「いえ、そこまで心を絞るほどの思いではありませんよ。ただ、形だけ……すみませんね、ありがとう、と心の中で頭を下げておけば、気が済むというだけです。本来の礼には欠く行いですが、それこそ老いた私のわがままを通した形ですから。」


「そういうものなのですね。人間についてまた学ばせていただきました。」


 食器も洗い終えて乾燥棚に並べ、テーブルも拭き終えたリーピは、自らもまたカッシングの傍にて椅子に腰かけ、静かな窓外の雨を眺めた。


 自動人形の振る舞いとしては、処理すべき作業が見いだされない現時点で、次なる指示を待機している状態に過ぎない。だが、今のリーピは明確に、この物理的には何も生み出さない時間に意味を見出していた。


 ただじっと寝床で横になっているだけの時間でも、思いをはせるだけで老人は退屈しないものだ……と以前カッシングから伝えられた通り、明確な情報入手や情報共有のない時間にも、確かに人間は意味を見出しているのだとリーピは実感できるようになっていた。


 おそらく今、カッシングの脳内では先ほどまで交わされていたアンブランやディスティとの会話内容が幾度も反芻されているのだろう。


 今は既に解体された旧市長邸、あの場所で自分は執事としての働きを全うできたのかという自問、ギスギスした使用人たちの関係性を男一人ではどうにも解消出来なかった不甲斐なさ、あまりに失う物の多かったガリティス市政の末期……それらを越えた先、現在のカッシングの元に残っているのが、この小さな家、小さな庭、二体の自動人形、そして稀に訪ねてくる二人の元使用人たちなのだ。


 若い頃の彼ならば独居老人となる自分の凋落を嘆いたかもしれないが、今のカッシングは雨音に耳を傾けていられるだけの安穏をようやく自分のような人間が得られたことに、深く感謝しているのかもしれなかった。


 老人は眼を閉じて暫く息を整え、そして口を開いた。


「さて……そろそろ、寝床に戻りましょうかな。今日は暫くぶりに、随分とお喋りしました。」


「カッシングさん、生き生きとされていましたが、あれだけ賑やかだと体力も使いますからね。ゆっくりとお休みください。」


 椅子から立つカッシングに手を貸して慎重に立ち上がらせ、一歩一歩、そろそろと進んでいく老人の足取りに合わせてリーピは彼の腕を支え続ける。


 廊下の奥、物置部屋でケイリーが掃除している音が聞こえてくる中、寝室に辿り着いたリーピはカッシングを寝床に一旦腰掛けさせ、呼吸を整えるのを待ってから彼の全身を支えつつ寝床に横たえた。


 湿気が籠らぬよう、薄いタオルケットを選んでリーピが彼の身体に掛けてやっている間も、カッシングはじっと窓の外の雨音に耳を傾け続けていた。


「少し、雨足が強まりましたかな。ディスティさんも、アンブランさんも、難儀せず帰っておられると良いのですが。」


「あれだけ立派な傘をお貸ししたのですから、この程度の雨に濡れることはないと推測されます。」


 カッシングがリーピと交わした言葉はそれまでで、焦燥とは無縁な沈黙のなか、老人は穏やかに目を閉じていた。


 情報入手手段の欠如、情報不足がそのまま不満につながるわけではない、むしろ情報が遮断されていればこそ安寧を見出す人間の感性について、既にリーピは疑問に思うことはなかった。


 暫く老人の体調に急変がないことを観察したのち、リーピはリビングへと戻る。


 樹脂窓の外側には、確かに少し強まった雨足が雨滴を幾筋も残していた。庭から幾つかの小さな鉢植えを持って玄関扉から入ってきたケイリーに、リーピは問いかける。


「雨は強まってきているようですね、ケイリー。あまり極度の豪雨となると、カッシングさんを伴っての避難の算段を想定し始める必要があるかもしれません。」


「現実的に避難すべき状況には程遠いだろう。この小さな植木鉢だけは、屋根から滴る大きな水滴で土を抉られかねないから屋内に移動させているだけだ。それに、豪雨時の災害を鑑みるとしても、この高級住宅地が被害にあうのは最後だ。浸水や土砂水の流入被害を真っ先に受けるのは下町になる。」


「万が一はケイティーに、ラーディさんを連れてここに避難してくるよう伝えることになるかもしれませんね。カッシングさんなら許していただけるでしょう。」


 ケイリーとリーピはそう言い合っていたが、とはいえ雨が降るのが久々だというだけのことであり、雨足自体は災害に直結するほどの規模ではない。


 むしろ、大規模な被害をもたらしかねないのは……雨の強さそのものではなく、雨によって街中の土壌に十分な水分が供給されているという事実だった。


 リーピが異変に気付いたのは、その日の宵のことである。


 昨日入浴を済ませていたカッシングは、体力消耗を考慮して身体の清拭だけに留め、夕食後の歯磨きを済ませて早々に寝室で寝息を立てている。


 夜の帳を前にしてカーテンを閉めていたリーピは、昼間カッシングがやっていたように庭の草木へ目をやった。


「……枯れて、いる?」


 そう極端な変化ではない。だが、窓のすぐ傍、陽射しを和らげるために植えられた庭木の葉先が、僅かに茶色く萎びかけていた。


 昼間から、過度ではない量の雨水が供給されていたのだから、むしろ植物は生き生きとして然るべきところなのだが、リーピが見出したのは真逆の反応であった。


 カッシングの寝息に異状がないことを確認し終えて寝室から出てきたケイリーに、リーピは窓外の庭木を示しつつ告げる。


「ケイリー、見てください。庭に植えられている植物が、微細な変化ではありますが明らかに萎びています。」


「……たしかに、いずれの葉も枯れかけている。こんなに水分が供給されているというのに、妙だな。何者かが悪意をもって除草剤など撒いたりしてはいないだろうな?」


「僕もケイリーも、常にこの場所にいたのですから、侵入者の姿が確認されていない以上その可能性はありません。水分供給とは関係なく、植物の養分を枯渇させる要素が存在すると推測するのが妥当です。」


 そこまで言ったリーピ、そして真隣りで聞いていたケイリーは、共に不吉な推測を即座に抱くこととなった。


 地中に潜み、雨による水分供給を引き金に、土壌や植物から養分を奪い始める存在となれば、最も高い可能性を有する要素がある。


「特異菌糸、でしょうか。」


「確かに、未だに復旧していない菌糸通話網に沿って、特異菌糸が街の土壌全体に広がった可能性は高い。だが、長らく晴天続きだったのだから、既に水分や養分の欠乏により枯死していてもおかしくないんだが……。」


「思い出してください、ケイリー。以前僕らは、養分貯蓄に特化した形態の菌糸罹患者に遭遇しています。大規模な犠牲者が出た際の混乱に乗じ、行方不明となった市民の身柄がそれに転用されていた恐れがあります。」


 地上での菌糸罹患者による襲撃が全て阻まれた後、人間が優先的に為したのは騒動の収拾をつけることであった。失いたくない権益がある者は、それを死守することだけを考えていた。


 だが、特異菌糸は死に絶えていなかったのだ。


 活動時に多量の水分と養分を消費してしまう特異菌糸も、活動自体を抑えてじっと待つだけであれば、生存自体は可能だ。それは、自主的に動くことなく養分貯蓄に専念していた個体が、旧市長邸の地下で、あるいは製剤会社敷地内で生存していた事例を鑑みるにつけても明らかである。


 彼らは地中に潜み、街全体に張り巡らされた菌糸通話網を依り代に、触手を伸ばすがごとく特異菌糸を潜伏させる領域を広げ、好機を待ち続けていた。


 好機とは、即ち雨によって極広範囲に、長期的に水分が供給される状況である。養分貯蓄に特化した個体が菌糸網のいずこかに接続さえしていれば、たちまち大規模な活動が可能となる。


 リーピと見つめ合うケイリーの顔つきには、明瞭な緊張が走っていた。


「あくまで推測にすぎませんが、非常に高い確率で的中している推測です。特異菌糸の動き次第では、この街全体がごく短時間のうちに菌糸ならびに菌糸罹患者によって占拠される恐れがあります。」


「モース研究主任の指示を仰ぐべきだろうか。菌糸通話線は依然として使えないが、徒歩でロターク本社に向かっていては遅い。」


「主任であれば、僕らへの通達事項があれば既に伝令を送り出しているはずです。今、僕らが為さねばならないのは、この街における身近な方たちを危険にさらさぬための判断です。」


 ケイリーに答えるリーピも、表情こそ変えぬものの、口調は焦りを示すように早まっていた。


 ますます暗くなっていく夜の雨空の下で、真っ先に萎びきった庭木の葉が一枚はらりと枝を離れ、ぬかるみはじめた地面へ落ちた。

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