旧市長邸使用人らの旧交
「ディスティさん!執事さんも、お元気そうで……よかった。」
アンブランが放った声は、久々にまみえた知己への喜色に彩られていた。
が、名を呼ばれた当のディスティは、振り返った顔に懐かしさを一瞬示しこそすれど、直後に躊躇いと気まずさの入り混じった表情を浮かべていた。
人間の認知能力においてはごく一瞬の表情であったのだが、居合わせたリーピもケイリーも、この人間同士の関係性が単純でないことを瞬時に察知し、観察に徹し始める。
身寄りも貯蓄も無い老人の介助など誰も引き受けたがらぬ仕事ではあったろうが、人間性を学び取ろうとする自動人形にとっては、ごく貴重な機会が次々と訪れる場に違いなかった。
ディスティとは異なり、カッシングの方は純粋な朗らかさでアンブランを迎えている。すっかり気力を取り戻しきっていた老人は、嗄れながらも今日一番張りのある声を発した。
「おぉ、こんなにも早く帰ってこられるとは、アンブランさん。新居への引っ越しは無事に済みましたか?」
「はい、おかげさまで、働き口も見つかりまして。そんな私のことなんかよりも、執事さん、ご無事でホッとしました。ついさきほど、玄関からお医者さんが出てきたのを見た時には、ちょっと血の気が引きましたよ。」
「そりゃあ私だって、何事もなくとも診察を受けることぐらいはありますからな。」
カッシングのことを“執事さん”と呼ぶのは、アンブランもディスティと同様であった。旧市長邸で使用人として働いていた者たちに共通する習慣なのだろう。
そのディスティは、一応の会釈はアンブランに返したものの、未だに表情が硬いまま、押し黙っている。
単なる気まずさというよりも、負い目に近しい感覚を彼女は抱いているようだった。
それでもアンブランは、ディスティと言葉を交わしたくて仕方がない様子のまま、まずはディスティが着込んでいる白の制服に目を向けた。普段は着ていないが、看護師としての体裁を整える必要がある場にだけ着てくる制服である。
「ディスティさん、もしかしてその恰好、看護師さん……ですよね?凄いです、あのお屋敷を出て行かれてからどうされているのか心配だったんですけれど、立派なお仕事に就かれて。」
「いえ、路頭に迷いかけてたのは事実ですし、それに看護師資格を持っているわけじゃありません。今の私はチャルラット先生……あ、先ほど出て行かれた医師です……の、事務仕事のお手伝いと、来院者の応対業務を担っているだけです。」
「十分に大切なお仕事じゃありませんか。私なんて本来の家系通り、工場勤務です。いやもちろん、どうでもいい仕事ってわけじゃないんですけど、あのお屋敷で働いていたお嬢様がたと自分は、やっぱり生まれからして違うんだなって。」
アンブランの言葉を受け止めているディスティも、傍で聞いているカッシングも敢えて否定していなかったが、自動人形にとっては原理的に理解困難なのが“生まれ”や”家系”といった概念であった。
自動人形は需要や目的に応じて製造されているのだから、同じ機能を有している個体であれば敢えて用途を区別されることもない。
だが人間の場合、殊に家柄が考慮されがちな場においては、どのような家系の出身であるか考慮されずに済むことはないのだ。
ディスティもその点については否定することなく言葉を返す。
「それを言うなら、私も同じ。悪徳議員秘書の娘なんて、どこからも助けの手なんて差し伸べてもらえませんから。チャルラット先生の元で働けている現状も、リーピさんとケイリーさんに助けてもらえなかったら実現できなかったはずです。」
「あの時からずっと、困っている人を助けて回っておられるんですね、リーピさん、ケイリーさん。この街で最も人間から感謝されるべき自動人形かもしれません。」
アンブランから賞賛の眼差しを向けられて、リーピもケイリーも定められた礼儀の所作通り頭を下げた。
とはいえ、真っ向から首肯し受けとれる評価でもなかった。確かに困窮している立場の人間を助けるような依頼も引き受けてはいるが、時に報酬を得るため、時には権力者からの覚えを良くするため、一概に良いと評価することも出来ない依頼にも手を出していたためだ。
まさに現状のカッシングが曲がりなりにも診療を受けられるようにするため、つい昨日達成した依頼などはその部類だ。リーピとケイリーが仕事をした結果、かつて工業区画内の労災によって命を奪われた従業員の遺族らは、ついに賠償を得られる機会を完全に失ったのだ。
敢えて発言を避けているリーピとケイリーの挙動を、アンブランは人間同士のお喋りを優先するための選択と受け取ったのだろう。そのままディスティとの会話へと戻っていった。
「それにしても、街がひとつ違うだけで、家賃があまりに上がるものですから、びっくりしました。この街ではそこそこのアパートに入れる程度の予算で行ってみたら、隣町では女性の独り暮らしに向く物件はないって言われちゃって。あっちで管理人や警備員がきちんと常駐している所となると、この街ではもはや高級アパートに入れるほどの賃貸料になるんです。」
「わー、それは私なんかじゃ到底生活できなさそう。やっぱりこの街、ちょくちょく菌糸漏洩事故が起きるもんだから、物件の価値も下がっていってるんですかね。」
経済には疎いだろうディスティでも、暮らしているだけで十分に得ている実感であった。
人命より金稼ぎが優先される街であるがゆえに、富裕層の暮らしと低所得層の暮らしに大幅な開きがあるのは事実だ。市議会議員や議員秘書、その親戚らなどには特等市民向けの高級集合住宅が与えられている一方で、菌糸あるいは悪意ある他者の侵入を常に警戒しながら安アパートや簡易宿泊所で過ごしている市民がいる。
菌糸感染のリスクが常在していることが認められているのは、家賃の低価格化にだけは寄与している要素だ。靴職人のラーディが、一人で受けられる程度の注文数で靴を販売し、それだけで生活できているのも、この街で特に物価の安い工業区画のど真ん中に居を構えているおかげだった。
完全に身寄りの無い状態に一度は陥ったディスティも、今はどうにか仕事をして生活しているとはいえ、住環境を選べぬ立場である。
「私はもう、チャルラット医院の仮眠室が自分の家ですからね。チャルラット先生が信頼できると分かったからこそ出来ている暮らしでして……それで、アンブランさん、向こうでは無事に住処が決まったんですよね?」
「はい、もともと下町出身ですし、いっそ一番安い物件でもいいかなと思ったんですけれど、初めての独り暮らしで変にリスクは負うべきじゃないって不動産屋さんにも説得されまして。警備員さんが常にいる小綺麗なところに決めました。」
アンブランの語りを聞くにつけても、他所の街には未だ健在している良識が際立った。こちらの街であれば、顧客自ら希望したが最後、どれほど独り暮らしが危険な土地柄であっても不動産屋は止めないだろう。
利益が一握りの富裕層の懐に集中すれば、ますますもって下層市民は自分たちの生活圏の価値が下がることを歓迎するし、オーナーは入居者すら来れば他のことは気にしない。その結果、ますます以て住環境は悪化する……この街の将来を思えば憂うべき状況ではある。
といっても、老い先短いカッシングにとっては、他所の街での生活を始めたアンブランへの心配の方が大きいようであった。
「アンブランさん、将来的な生活費には困っておられませんか?市長邸で働いていた際のお給金、まだ貯蓄されていますか?私の介護を担わせてしまっていた期間、あなたがご自身の貯蓄を切り崩すようなことをなさっていないか、そればかりが心配で……。」
「カッシングさんが気を遣うようなことありませんよ、使用人としていただいたお金は、ちゃんと貯めてあります。あちらの街で暮らし始めたら、軌道に乗るまではさすがに貯金を使うこともあるかもですけど……もしかすると、臨時の収入があるかもしれないんです。」
「ほう、臨時の……?」
「はい、私の両親、工場での就業中に、作業用自動人形からの菌糸漏洩事故に遭っているんです。私は前市長のお屋敷で住み込んでいたため生活費は自身で負担せず済んでいたのですけれど、本来は両親の働いていた工場から賠償金が支払われるはずなんです。」
語っているアンブランの背後で、リーピとケイリーはごく短く、目を見合わせた。
アンブランの両親が働いていた工場というのが、先日リーピが忍び込んで重要文書を持ち出してきた、あの金属加工工場かどうかは確定していない。だが、状況は酷似しており、場合によってはリーピの働きのせいで、アンブランは何も得られずじまいになるということだ。
むろん、当の工場は従業員も経営者もことごとく菌糸罹患者襲撃によってとっくに骸すら跡形もなく消滅しているため、遺族が受け取るはずだった賠償金は支払い逃れを黙認していた市が肩代わりすることになる。当然、証拠となる文書を揉み消せた今、フィンク市長は応じないだろう。
自身の生活が将来的に苦しくなっていく可能性が高まっているのを知りもせず、アンブランは喋り続けている。
「あとは、あちらで始めた仕事のお給料が入るまで、子供の頃に両親から教わった節約術、いろいろ試してやりくりするつもりです。」
「たくましい。お屋敷から放り出されたが最後、個人での生活能力皆無なお嬢様連中とはわけが違いますね。私も、生活できなかった側ですけど。」
ディスティが、アンブランの返答を引き受けて口を開く。
長らく喋り続けているカッシングの体力消耗を気遣い、アンブランの会話相手は出来るだけ自分が担おうとしているのだ。
かつてはあまり指摘されたくなかったろう事実、自らの家柄について、今となってはアンブランも気軽に言及出来る様子であった。
「お恥ずかしながら、旧市長邸の使用人たちの中では、私だけが労働者の家系出身でしたからね……今さらですけど、なぜ前市長は私なんかを屋敷の使用人として採用されたのでしょう。孤児になった私のため、とは仰っていましたが、この街の工業区画には、菌糸漏洩事故が原因で孤児になった子供たちなんて私以外にもたくさんいます。」
「そんなこと、他の使用人が居るときに口走ったら、比喩ではなく袋叩きにあってますよ。そりゃあのガリティス前市長のこと、あなたの見た目が気に入ったから、以外に理由はないでしょ。」
「……まぁその、ごめんなさい、私自身が言うのもなんですけれど、薄々、そう思ってはいました。」
「でしょ?今だから言いますけど、あの頃から使用人連中の間では『労働者の血筋から生まれたとは信じられない美少女』ってのがアンブランさんに関する評判として共通してましたからね。まぁ、実際には、もうちょっと下品な言い方でしたが。」
アンブランがここに訪れた瞬間に抱かれた、ディスティの中の気まずさは既に相当薄れているらしい。二人の間に交わされる言葉からは、ぎこちない遠慮が取り除かれていた。
たしかに、アンブランの顔立ちは整っており、旧市長邸の解体以降様々な生活苦には直面しただろうが、プロポーションも美しく保たれている。低所得層の下町から、彼女が生まれ育ったのが奇跡とも思えるほどであった。
往時の同僚であった屋敷の使用人たちからは、嫉妬と蔑視を散々に向けられたことだろう。
遠慮のない物言いをした自らの口を少し閉じ、その後ディスティは多少言葉を選びつつ喋り始めた。
「正直、あの屋敷の使用人連中の中で、力関係においては私が最下層に位置してもおかしくなかったんです。見ての通り、目つきは悪いし、不愛想でしたし、ついでに無駄に身長が高いせいで低身長な紳士の方々からは近寄られるのを嫌がられましたし。」
「ガリティス前市長、ただでさえ小柄でしたからね。遺伝のせいか、市長一家はお嫁さんを除いて皆さん控えめな背丈でした。」
カッシングが横から相槌を打ちつつ口を挟む。
思い返せば、ガリティスの息子であるレイストスが、特異菌糸罹患者になり果てた後、ひょろ長い手足へと身体を変異させたのは、低身長によるコンプレックスを強く生前に抱いていた影響があったのかもしれない。
さておき、ディスティは言葉を続ける。
「けれど、家柄と、ついでに嫉妬を集めた結果ではあるのですが、アンブランさんに私より下位の立場を押し付けるような真似をしてしまったこと……今さら謝っても償えることではないかもしれませんが、その……申し訳、ございませんでした。」
「えっ……?いや、あの、ディスティさん、お顔をあげてください。私、ディスティさんには色々と教えていただいたこと、感謝してるんですよ。お屋敷での勝手がわからないで右往左往している時、他の方々は黙って私を眺めているばかりでしたけれど、ディスティさんは率先して私を叱り、正しいやり方を伝えてくださったじゃないですか。」
それはきっと、ディスティの本心に拠れば、自分がアンブランよりも立場が上であると周囲に示すための振る舞いに他ならなかったろう。
と同時に、力関係では上位に存在する先輩使用人たちが歯牙にもかけぬ新入りについて、彼女の教育という面倒ごとを自分が率先して引き受ける……とも示し、集団内での立場を得続ける保身の一環でもあった。
きょとんとしているアンブランの眼差し、そして声の中に、一切の皮肉が含まれていないことをディスティは慎重に確かめ、そして小さな溜息と共に言葉を返す。
「私、ずっと忘れてないんです。あれは確か、洗濯したシーツをカンカン照りの陽射しの下で干していたアンブランさんに『一度指摘したミスをまたやるな』って叱った日のこと、でした。私、アンブランさんを思いっきり平手打ちしちゃったんです……覚えてます?」
「あー……あれは、高いシーツは直接日光に当てたら傷んじゃうから、陽射しに当てないように干す、って前に教えられたのをすっかり私が忘れてた時ですよね。けど、ディスティさんに叩かれたかどうかは、全然覚えてないです。」
「嘘でしょ?あの日どころか、次の日まで、アンブランさんの左頬、ずっと赤く腫れてたの、私、忘れてないですよ。思いのほか、力いっぱい殴ってしまったんだって自覚したんですけど。」
ディスティの言葉に、アンブランは少し俯いた。
むろん思い出すに愉快な記憶ではなかったろうが、自分が気づいていなかった誤解についてディスティへ伝えることを、彼女は優先した。
「いや、あの日については、その……他の先輩方からも、同じところをはたかれたので。何度も、全く同じ場所を。結局、誰に叩かれたのが原因でずっと頬が腫れてるのか、分からないような状態でした。」
「……そうだったん、ですか……陰湿だね、アイツら。」
自分がやられていることを、当時のアンブランは誰に訴えることも出来ない立場だ。先輩の使用人から平手打ちを受けても、それは新入りである自分に対する指導の一環として受け入れるしかない。
そして、ディスティがついアンブランへ手を上げてしまった事実は、他の使用人たちの歯止めを部分的に外したのだろう。アンブランが顔を腫らしていることについて、執事や他の秘書から指摘されても、ディスティの仕業であると口を揃えることが出来る、と。
すっかり視線を足元に落としているディスティに向かって、アンブランは告げた。
「だから、私としては、ディスティさんが一番身近で、一番親切に教えてくれる人だったんです。今でも、ディスティさんに私が助けられるという立場に変わりはありません。あなたが看護師となって、お医者様を連れて、執事さんを診にきていただけるのなら、私も安心できます。」
「それだって、私が率先したわけじゃなくって、リーピさんから話を持ち掛けられたおかげですよ。」
傍で聞いているリーピは、先日応対に出てきたディスティが、今回の件を一旦は断ろうとした時の微妙な表情を思い起こしていた。
旧市長邸の元執事、カッシング。その名を聞いた時、ディスティの胸中に去来したのは、自分が今さらどんな顔を引っ提げて会いに行けるのか、という思いだったのかもしれない。
とはいえ、そもそも自らの行いについて顧みずにいられず、時に自身の選択を悔いるような人間には、本人が憂いているほどの悪感情は向けられないのだろう。
視線をあげて、アンブランの目へと真っすぐ視線を向けているディスティ。傍らでカッシングが何か言おうかと口を開けかけたが、自分が割って入るのは野暮だと判断したのか、ゆったりと口を噤んだ。
沈黙の見つめ合いがくすぐったくなったのか、アンブランは先に目を逸らして笑みながら言う。
「また、時間が空けば会いに来ますね。しばらくは、新しい仕事と生活で忙しいかもですけど……執事さんも、それまでお元気でいてくださいね。あ、いや、カッシングさん、って言わなきゃですね。」
「構いません、むしろ、執事とお呼びいただけるほうが、働いていた時の張り合いが戻ってくるようですから。次にお会いする時も、そう呼んでください。」
答える老人の声からは、すっかり嗄れる音が拭い去られていた。
それはカッシングが、現役で執事として働いていた頃を思い出す面々とのおしゃべりを楽しんだおかげばかりではなかったろう。
空気が、人間にとっても、また菌糸を中枢とする自動人形にとっても、心地の良い潤いを含んでいることにリーピもケイリーも気づいていた。
窓の外は、昼の明るさが少し翳り……この家の小さな庭の花壇を区切るタイルの表面に、ポツリと雨滴が落ちてきた。
徐々に雨粒の跡は増えていき、昼下がりの長閑な空気に、ささやかな雨音が彩を添え始める。
ここ数週間、いや数カ月にわたって、ずっと降ることのなかった雨が、久々に街の土壌を潤し始めたのであった。




