カッシング氏への往診
カッシングの自宅へと買い出しも済ませたケイリーが帰ってきたのは、ようやく朝の時間帯を抜けようとする頃のことである。
むろん相棒であるリーピはカッシングの介助のためずっと宅内に居たが、玄関に入る前からケイリーの聴覚受容器は賑わしい会話の声々を拾っていた。敷地に入って玄関扉までの僅かな距離、庭の土の乾いた表面に薄っすらと刻まれた足跡を見るにつけても訪問者は明白であった。
「医師チャルラット、看護師ディスティか。想定よりずっと早く、話がまとまったんだな。」
二名分の靴跡は、どちらも男物の靴であったが……細身とはいえ高身長なディスティには、オーダーメイドでない限りサイズの合う女物の靴がない。そのことを知っているケイリーには、チャルラットにディスティが同行して訪問してきたことに疑念を抱く余地はなかった。
そも、ハッキリと声が聞こえる状況になれば、訪問者が何者であるかなど明白である。
玄関扉を開けてすぐ、ケイリーは推測通りの光景を見ることとなった。そこにはチャルラットとディスティが居て、カッシングの容態を診ている……つまり往診に来てくれたのだ。
例の、労災に関する補償支払い逃れを露呈させかねない書類を隠密に回収してきたことで、フィンク市長との話も短時間にまとまったのだろう。抜け目のないチャルラットのことだ、カッシングの診療費についても市長に対しちゃっかり話をつけてきた可能性がある。
唯一想定から外れていたのは、カッシングがベッドに横たわっているのではなく、リビングの椅子に腰かけていることであった。
この元執事だった老人は、またしても客人を前にして寝床にじっとしていられず、茶を淹れてもてなしたのだろう。今度は人間による訪問だったおかげで、既に飲み干された茶碗がテーブルには残されていた。
ケイリーが帰ってきたことには既にリーピが聴覚で気づいていたが、真っ先に声をあげたのはやはりカッシングである。
「おかえりなさい、ケイリーさん。お買い物をしてきてくれたのですね、また私の貯金から額分を取っておいてください。」
「こちらは気にせず、あなたはチャルラットから診てもらう方に専念してくれ。」
ケイリーは明確な返答を避けるように言葉を返した。
カッシングの貯金が普段の買い出しの額さえ残っていないことは、リーピ共々把握している。老い先短い彼に、余計な申し訳なさを感じさせぬよう、ここに掛かっている出費はリーピ探命事務所が得た報酬から出していることは隠しているのだ。
積極的な虚偽を発することが稀ならば例外的に可能となったリーピとは違い、ケイリーには虚偽となり得る返答を口にすることが出来なかった。
チャルラットは聴診器でカッシングの呼吸を聞いた後、脈を暫く取り、そして以前までのかかりつけ医から無事に入手できたのだろう、引き継ぎのカルテに目を通しつつカッシングへ告げた。
「長いこと働いてはっただけあって、足腰が弱ってても心臓はえらい丈夫ですな。今かて達者で喋ってはるし、認知機能も問題あらへんでしょう。この歳でこんだけしゃきっとしてはる人、なかなか居はらへん。」
「いやはやそれは、どうも、何せ市長の屋敷で働くとなれば、気を緩められない日々でしたからな。」
「気管だけは気ぃつけてくださいね、水飲むだけっちゅう時でも誤嚥せぇへんように、わざとゆっくりと口をつけるように、ですよ。」
いつもの布地がくたびれた白衣ではなく、きちんと折り目のついた、清潔感のある白衣に着替えているチャルラット。
身なりを整えれば、彼も闇医者であるとは見えぬものであった。長年のセルフブラック労働に起因する、顔面のくたびれと異様に鋭い眼光だけは隠せるものではなかったが。
ディスティも、慣れぬ看護師の制服を窮屈そうに着込んで、チャルラットへカルテの類を手渡している。
「カッシングさん、前に処方されたお薬は、まだ残されてはります?まだ余裕があったら、今日は処方箋の確認だけにさせてもろて、お出しするのは次に来させてもらう時になりますけど。」
「えぇと、まだ、それなりに残っていると思いますが……。」
「現在、あと14日分の飲み薬が保管されています。」
おぼろげな記憶を探るカッシングの代わりに、リーピが明確に答える。日々状況が変化する物事について、短期的な記憶を常時更新し続けることは老いずとも人間には難しい。
安堵の表情を浮かべたのはチャルラットであった。引き継ぎカルテを受け取る際に処方していた薬についても知り得てはいるだろうが、やはり闇医師は調剤薬局に顔を出す際も白眼視されるのだろう。闇医師として出す薬物ならば相応の裏ルートがあるだろうが、とはいえ正規の医師として仕事をする上では、入手経緯不明の薬品を出すわけにもいかない。
「ほな、今日のところは往診という形で診させていただきましたけど、次回以降は定期の訪問診療として来させていただきます。本来はいつでも診に来れるんが一番えぇんですけど、この医療サービスの出費してはる市長さんからえぇ顔されへんもんで。」
「いえいえ、私のような人間にも手を差し伸べてくださるフィンク市長には感謝しておりますよ。ガリティス前市長であれば、ますます将来性のない出費を惜しんだことでしょう。」
「いやそんなこと……って、一概に否定できひんもんですな。ディスティさん、訪問診療のスケジュール表、カッシングさんにお渡ししといて。」
スケジュール表、と言っても正規の病院で発行されるような文書ではない。
おそらくディスティの手書きであろう、カレンダー上に大きめの字で訪問予定が簡潔に書きこまれた紙を、ディスティはカッシングへと差し出した。
筋力の衰えのために僅かな震えが指先にありつつも、カッシングはディスティからそれを丁寧に受け取り、口を開いた。
「字、かなり練習されたんですな。」
「……はい。以前と違って、今の私が担っているのは、他の方にお任せするわけにもいかない仕事ですから。」
「それでも、まだまだ子供の字ですな。丁寧に書いただけの、子供の字だ。」
言葉面だけ受け取れば批判的なカッシングの物言いであったが、ディスティの表情は柔らかく緩んでいた。
全くの赤の他人には向けることのない、どちらも同じ旧市長邸で働いていた元執事と元使用人の関係であればこそ、遠慮が取り払われるやりとりがそこにはあった。
リーピとケイリーは、テーブル上のティーカップを片付けて洗ったり、周囲を掃除したりしつつも、人間らしい振る舞いを学習する機会であると明確に認識し、カッシングとディスティへの注視を同時に開始している。今や人間性を習得することに最も貪欲な自動人形となっていた。
看護師として訪問した際の硬さを多少なりと崩したディスティは、冗談交じりにカッシングへと返している。
「じゃあまた、執事さんに字を書くレッスンをしてもらわないと、ですね。」
「良いですとも。どれほど年をとっても、人様に見せられる字が書けさえすれば、どこで恥をかくこともありませんからな。」
「それ、久々に聞きました。あの屋敷で働いてた時は毎日、嫌というほど聞かされてたのに。他でもない、あなたから。」
言いながら、ディスティの視線はカッシングから離れ、あちこちに泳がせながら何かを探している様子である。
明確な指示として言葉にされずとも、リーピとケイリーには彼女が求めている物が何であるかすぐに分かった。現時点での作業の手を止め、リーピとケイリーは足早にリビングの隅へと共に向かう。
即座に、リーピは白紙のメモ帳、ケイリーは筆記具を幾本か掴んでディスティの元へ戻ってきた。
「どうぞ、こちらに使えそうな紙片をお持ちしました。筆記具はケイリーがご用意します。」
「私一人でも運べただろうに、リーピと手分けせずとも。」
置き場所や物品の量を鑑みれば単体でこなせる作業であったが、まるで姉弟で褒められる行為を競争するように実行したかのごとき所作であった。
リーピとケイリーの振る舞いに微笑ましい表情を送りつつも恭しく受け取り、筆記具を握ったカッシングは、先ほど受け取ったディスティによる手書きのスケジュール表を横に並べて同じ文言をメモ帳に書き連ねはじめる。
「あなたの書く字は、部位ごとの形状ばかりを意識してしまっているのです。ずっと治っていない、ディスティさんの癖ですね。ですからバランスが悪くなる。一文字一文字、完成した際の余白まで想定して、大人の余裕を単なる文字からすらも感じさせるように筆先をお運びなさい。」
「何も、私が書いた字と横並びにして、お手本を見せなくたっていいじゃないですか。そういうのこそ、執事さんが治ってない悪い癖ですよ。まるで悪いところをあげつらうみたいにしちゃって。」
「他の方に見せるわけではありません、あなた本人が分かりやすく認識できるようにとの配慮です。お手本との差異をハッキリと意識してこそ、字は上達するものですよ。」
筆記具を握って字を書き始めたカッシングの挙動を、闇医者とはいえ一応は医師としてここに来ているチャルラットは不安げに見つめていた。動かしているのはほぼ手先だけとはいえ、細かな作業は想定以上に老人の体力を消耗させかねない。
……とはいえ、ディスティに真隣りから文句を言われつつも、先ほどまでの指先の震えがピタリと収まった手で流麗な文字を書き連ねていくカッシングは、声の張りや目の輝きが徐々に取り戻されてきているようであった。
現役で仕事をしている時の感覚が戻ってくることは、そのまま人間にとって疑似的な若返りをもたらすのであろうか。
カッシングの身に起きた変化は人間だけが抱く錯覚ではないらしく、自動人形であるリーピとケイリーもまた明らかにカッシングの振る舞いから老衰の特徴が薄れつつある様を認識し、目を丸くしてじっとこの場の様子を見つめている。
変化は、ディスティの方にも生じていた。闇医師に追随する看護師として仕事を重ねてきた彼女は、つい昨日の晩にリーピへ示したように、剣呑な表情を浮かべることが自然となってしまっていた。
が、今は眼の濁りがすっかり取り払われたかのように、無邪気さすら感じさせる笑みを口元目元に浮かべている。まるで、久々に祖父に会いに来た孫娘のような、屈託のなさであった。
一通り、ディスティが書いた文字にケチをつけつつも、手本となる字を全て書き終えたカッシングはペンを置く。
さすがに目は疲れたのか、瞼を抑えつつ椅子の背もたれに体重を預けるついでに伸びをした後、彼はにこやかな表情を崩さぬままに呟いた。
「こんなに喋り、書いたのは暫くぶりです。」
「お疲れじゃありませんか、執事さん……あ、いや、カッシングさん。」
「言い直さないでもらって構いませんよ、その呼び方が自然と出てくる方は、ここにはあなただけなのですから。」
カッシングはずっと嬉しげな様子であった。ディスティも、本来の役割、すなわち介助を必要とする老人宅に訪問した看護師としての立場を取り戻しかけただけに、多少照れつつ笑んでいた。
確かに元執事らしく、カッシングは相手への気遣いを失念はしなかった。
「といっても、前市長の屋敷で働いていた頃の思い出は、ディスティさんの場合はあまり取り戻したくないものかもしれません。」
「気になさらないでくださいよ、そりゃお偉い家系のお嬢様な先輩たちにいびられはしましたけれど、嫌なことばかりじゃなかったですし……私が使用人たちの中での最下層、ってわけでもありませんでしたし。カッシングさんは気づいてたと思いますけど。」
「アンブランさん、ですね。私の力不足で、彼女には苦労ばかりを掛けました。」
その名はむろん、リーピとケイリーも知っている。つい最近取得した記憶なのだから、薄れるはずもない。
旧市長邸が解体された後、ほぼ全ての使用人たちは各々の故郷、実家へと帰っていったが、唯一帰る家のないアンブランだけは元執事であるカッシングの自宅に身を寄せていた。
そのまま、急激に体力を落としたカッシングの介助を彼女が担っており、恩人を見捨てるわけにもいかずアンブランが困窮している状況を警邏隊長が知り、リーピとケイリーが介助行為を引き受ける流れとなったのだ。
カッシングとの会話に再び浸りかけていたディスティであったが、ちょうどチャルラットが仕事道具を片付けてカバンを閉めた音に反応し、顔をあげる。
「あっ……すみません、そろそろチャルラット先生はお戻りにならないと、ですね。」
「いや、かまいませんよ、ディスティさんもカッシングさんも積もる話があるでしょうし。自分は今んところ、帰って溜まってる書類仕事を片付けるだけやから、ディスティさんはここでカッシングさんに、ようけ話したげて。さっきから見てても、やっぱり昔の仕事仲間と喋ってる時が一番カッシングさんの具合良さそうやし。」
「そう、ですか?じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。医院の入り口に、本日休診の看板は忘れず提げておいてくださいね、先生。」
ディスティは申し訳なさげな表情は浮かべたが、正直な所を言えば嬉しそうであり、それはカッシングも同様である。
医者に診てもらわねばならない老人として振舞うよりも、仕事をしている時の自分を取り戻すほうが、ずっとカッシングの状態は向上するとチャルラットはほぼ確信しているのだろう。
それに、チャルラットとしても、自身が闇医者であること……ついでに、人生経験の長い元執事が、それに勘づかぬはずもないことを鑑みて、ここに長居すべきではないとの判断を下したと見える。
「そしたら、次の定期訪問まで、お大事に。もちろん、ホンマの緊急事態があったら、リーピさんらに伝えてくださいよ。早いとこ通話線が復旧したらえぇねんけど、出来る限り飛んできますんで。」
「えぇ、本日はご丁寧にありがとうございます、今後ともお世話になりますね、先生。」
ゆったりした動きのカッシングとは対照的に、そそくさと荷物を手に取って出ていくチャルラット。
実際に片付けるべき仕事が溜まっているのも事実であろう、頭を下げる会釈の仕草も速かった。一応は自動人形の立場として、リーピが席を立って玄関扉を開け、チャルラットを見送った。
早くも背後でディスティとカッシングの会話が弾んでいる声を聞きながら扉を閉めようとした矢先、リーピは道の反対側からこちらへ向かってくる人間の姿を視認した。
医師の恰好をしていたチャルラットが出てきたのを見たせいか、その人間は不安げに足早に近づいてきている。
この場におらず、カッシングの身を案じるような人間といえば、あと一人しかいない。その人物本人であることをリーピは確認した後、彼女の名を呼んだ。
「アンブランさん。戻ってこられたのですね。引っ越しは無事に完了したのですか?」
「えぇ、向こうが一旦落ち着いたので、こちらがどうなっているか、ちょっと覗きに来たのですが……今の、お医者様ですか?カッシングさんの具合は、大丈夫なのですか?」
「今しがた出て行かれたのは、訪問診療を引き継いでいただいた先生です。ご心配なく、カッシングさんは、本日は特に明朗に過ごされていますよ。」
不安げな表情を浮かべて、足早にカッシングの自宅へとやってきたアンブラン。
カッシングと自動人形たちが静かに過ごしているだけの家の中が、妙にざわついていることもまた彼女の不安を後押ししていただろう。医者が出入りして、部屋の様子が騒がしいとなれば、老人の身に万一のことが起きたのではと憂慮するのも無理はない。
だが、リーピによって開かれた扉の奥、リビングに席を揃えて和やかに談笑している面々を見て、彼女の表情からは翳りが一息に取り払われた。
当然のことながら、アンブランはディスティと同様に、旧市長邸にて使用人として働いていた元仕事仲間だったためだ。
そして、ほぼ唯一……アンブラン側からの認識においては、本心を語れる関係性の人間でもあった。




