第3話:秘密の一週間
社員旅行当日。
朝から施設の空気はどこか浮き足立っていた。
研究員たちは大きな旅行鞄を抱え、休憩室では土産話の約束や温泉の話で盛り上がっている。
「今年は海見える部屋らしいぞ」
「去年より料理いいって聞いた」
「飲みすぎるなよ」
笑い声が廊下に流れ、普段より少しだけ柔らかい空気が施設を包んでいた。
その輪から少し離れた場所で、石崎は最後の巡回を終えて戻ってくる。
石崎は作業着の袖口を軽く整え、施設長の前で足を止めた。
「それじゃ、留守を頼む」
「はい」
石崎は小さく頭を下げる。
「任せてください」
施設長は満足そうに頷くと、そのまま研究員たちと一緒に施設をあとにした。
大型バスのエンジン音が、少しずつ遠ざかっていく。
やがて、それも聞こえなくなった。
石崎はその場でしばらく立ち尽くす。
誰も呼ばない。
誰も怒鳴らない。
急な雑用も飛んでこない。
廊下には、自分の呼吸だけが残っていた。
「……平和だ」
思わず小さく笑う。
施設中が静まり返っている。
肩に入っていた力が、ゆっくり抜けていった。
◇
地下区画へ向かう。
重い隔壁が開き、いつもの実験区画へ入ると、すぐに小さな足音が響いた。
「ぐわっ!」
一番最初に飛び出してきたのは、やっぱりだっくだった。
羽をばたつかせながら石崎の足へ飛びつく。
「はいはい」
石崎は抱き上げ、その頭を優しく撫でる。
「今日はね。ちょっと特別な日なんだ」
「ぐわ?」
だっくが首をこてんと傾げる。
その様子に気づいたように、奥の部屋からミルダたちも顔を出した。
「……どうしたの?」
「今日は訓練ないの?」
「おやつ?」
「遊ぶ?」
四人の声が重なる。
石崎はみんなを見回して、小さく笑った。
「今日から一週間、偉い人たちがいないんだ」
「注射も訓練もなし」
「……え?」
ミルダが目を丸くする。
ルナも本を閉じた。
「りょこう?って言ってた」
「うん」
石崎は頷いた。
「だから、みんなに少しだけご褒美」
その言葉に、全員の視線が集まる。
「偉い人たちが帰ってくるまでは、決めた場所の中だけなら、部屋から出ていい」
一瞬だけ、部屋が静まり返った。
誰も動かない。
言葉の意味を考えているようだった。
石崎は笑って続ける。
「もちろん危ない場所は駄目だけど」
「今日はコントロールルームで遊ぼう」
「…………」
数秒。
「やったぁ!」
最初に声を上げたのはミーアだった。
「ほんとか!?」
コウも思わず飛び跳ねる。
「やった!」
ミルダも笑顔になる。
その横では、ルナだけが目を丸くしたまま石崎を見つめていた。
「……ほんとに?」
少し遅れて聞き返す。
石崎が笑って頷く。
「まずは今日だけ」
石崎は、少しだけ声を低くする。
「約束を守れたら、明日も」
その言葉を聞いた瞬間だった。
「やったー!」
ルナもようやく笑顔になった。
石崎は頷く。
「みんな約束守れるなら」
その言葉が終わるより早く、
「ぐわぁぁっ!」
だっくが石崎の腕から飛び降り、廊下をぱたぱたと走り始めた。
嬉しくて仕方がない。
そんな様子だった。
石崎は思わず吹き出す。
「走らない! 転ぶぞ」
「ぐわっ!」
返事だけは立派だった。
次の瞬間にはまた走り出している。
その後ろを、ミルダたちも笑いながら追いかけていく。
静かだった地下施設へ、久しぶりに子どもたちの笑い声が広がっていった。
その声を聞きながら、石崎もゆっくり歩き出す。
コントロールルームの自動扉が静かに開く。
普段は研究員しか入ることのない部屋へ、子どもたちが目を輝かせながら足を踏み入れた。
石崎は、入口のロック表示と監視カメラのランプを確認してから、ようやく息を吐いた。
「広い……」
ミルダが部屋を見回す。
普段いる実験区画とは違う。
白い壁。
並んだ操作卓。
壁いっぱいに広がる大型モニター。
ゆったりしたソファまで置かれている。
子どもたちは、それぞれ思い思いに部屋の中を歩き始めた。
普段は静かな部屋へ、小さな足音が次々と広がっていく。
「わぁ!」
コウが部屋の中を見回しながら目を輝かせた。
「ここって研究員しか入れない場所じゃないの!?」
「うん」
石崎は保冷バッグを机へ置きながら頷く。
「今日は貸し切り。だから、みんなで遊ぼう」
その一言だけで十分だった。
「やったぁ!」
ミーアがソファに飛び込む。
柔らかく沈んだ感触に目を輝かせ、そのまま何度も飛び跳ねた。
「ふかふか!」
「俺も!」
コウも隣に飛び込む。
「こらこら」
石崎が苦笑する。
「壊さないでよ」
「はーい!」
返事だけは元気だった。
その横では、だっくが回転椅子の脚をつんつんとくちばしでつついていた。
「ぐわ?」
不思議そうに見上げたその時、少しだけ椅子が揺れる。
「ぐわっ!」
嬉しそうに飛び乗ると、石崎がそっと椅子を回してやった。
くるり。
「ぐわぁぁ♪」
もう一回。
くるり。
だっくは羽をぱたぱたさせながら、楽しそうに鳴いた。
石崎は思わず笑う。
「気に入った?」
「ぐわっ!」
石崎がもう一度椅子を回す。
くるり。
だっくは椅子から転げ落ちた。
「……」
だっくはゆっくり起き上がると、じっと石崎を見つめた。
「とりごろしいいいぃぃぃ!!」
「俺!?」
「あはははは!」
子どもたちの笑い声がコントロールルームへ響いた。
石崎は保冷バッグを開き、お菓子やジュースを机へ並べていく。
「わぁ!」
「すごい!」
「今日は特別だから。いっぱいあるよ」
「ぐわっ!」
だっくも床から駆け寄り、お菓子と石崎を交互に見上げた。
石崎は周囲を見回し、小さなカップアイスを一つだけ取り出す。
「だっくちゃん。内緒」
「ぐわぁいく!」
だっくも、くちばしに羽を当てた。
石崎は笑いながら一口だけ差し出す。
「はい」
「だっくのデス。ぐわぁいく!」
「ずるい! だっくだけ!」
「俺も食べたい!」
コウもすぐ便乗する。
石崎は苦笑した。
「アイスは一個しかないんだ。今度買ってくるから」
「約束?」
「約束」
その返事だけで十分だった。
コントロールルームには笑い声が広がり、大型モニターだけが、その賑やかな時間を静かに映し出していた。
普段なら、そこに表示されるのは管理番号と警告ログだけだった。




