第2話:社員旅行
昼休みが終わる頃には、実験区画もいつもの静けさを取り戻していた。
廊下に響くのは空調の低い音だけ。
さっきまで笑っていた子どもたちも、それぞれの部屋で思い思いに時間を過ごしている。
石崎は空になった食器を台車に積み重ね、そのまま洗浄室へ運んでいった。
蛇口をひねる。
勢いよく流れ出た水が、食器に残っていた汚れを洗い流していく。
慣れた手つきだった。
一枚洗い、拭き、棚に戻す。
その繰り返し。
気づけば、それも石崎の日課になっていた。
「石崎」
背後から声が掛かる。
振り返ると、施設長だった。
「はい」
「来週の予定、確認したか?」
「まだです」
施設長は一枚の書類を差し出した。
石崎は受け取り、その場で目を通す。
一番上に大きく書かれていた。
《社員旅行実施のお知らせ》
思わず目を瞬かせる。
「社員旅行ですか」
「ああ」
施設長は短く頷いた。
「福利厚生の一環だ」
この会社では毎年恒例らしい。
温泉旅館を貸し切り、研究員たちは一週間ゆっくり過ごす。
毎年、多くの職員がこの旅行を楽しみにしていた。
研究施設も、その間は最低限の管理体制だけを残して運用されることになっていた。
石崎は書類をめくる。
日程を確認した、その時だった。
施設長が続ける。
「その間、お前は施設に残れ。セレーネの管理だ」
石崎は顔を上げた。
「え? 一人でですか?」
「そうだ」
施設長は何でもないことのように答えた。
「お前しか懐いてないからな」
「あと、訓練は全部中止だ」
「訓練もですか?」
石崎は思わず聞き返していた。
「ああ」
施設長は書類を閉じた。
「どうせ担当教官も全員旅行だ」
「セレーネたちは部屋で待機させておけ」
「余計なことはするな」
「はい」
石崎は頷いた。
近くにいた研究員たちも、書類から顔を上げないまま頷いた。
「石崎なら安心だ」
「よろしく頼む」
「任せたぞ」
誰も異論は口にしない。
セレーネの世話は石崎。
それはもう、この施設では誰も疑問に思わない「当たり前」になっていた。
石崎は書類に視線を落とす。
地下実験区画に残るのは石崎一人。
普通なら気が重くなる話だった。
けれど――
(怒鳴られる声が、一週間ない)
その事実だけが頭の中に残る。
怒鳴られない。
急な雑用もない。
理不尽な呼び出しもない。
石崎の口元が、少しだけ緩んだ。
慌てて表情を戻す。
「分かりました。任せてください」
書類を抱え、小さく頭を下げる。
施設長は満足そうに頷いた。
「期待している」
そう言い残し、そのまま歩いていく。
足音が廊下の奥へ消えた。
石崎は一人残る。
もう一度、予定表に目を落とした。
一週間。
セレーネたちと、自分だけ。
石崎は思わず笑う。
「……悪くないかも」
その声は誰にも聞こえなかった。
◇
夕方。
見回りを終えた石崎は、いつものように実験区画を回っていた。
最後の部屋を覗く。
「おやすみ」
「ぐわっ」
だっくが元気よく返事をする。
その隣では、
「おやすみー!」
ルナが絵本を閉じ、
「またあしたねー」
ミルダが手を振る。
ミーアとコウも笑顔で返事を返した。
扉が静かに閉まる。
電子ロックが掛かる音だけが廊下に小さく残った。
石崎は歩き出す。
予定表は作業着のポケットに入ったままだった。
一週間後。
この静かな研究施設が、石崎の人生で一番騒がしい場所になることを。
その時の石崎は、まだ知らなかった。




