鍵③
読んでいくと、これが現実の話ではないというのは理解できるようになった。出てくる生き物が、不思議なものばかりだったからだ。身体の半身が動物だったり、歌声で男たちを誘惑したり。人が冒険し帰還する長い物語、その場では最初のほうだけ少し読んでみて後はこっそりと持ち帰り、自室で夢中で読んだ。読みながら涙がこぼれてならなかった。何の涙か自分でもわからなかった。ただ、ただ、失っていたものを見つけたという気持ちが溢れてとまらなかった。失われていた感情を思い出したような。だから、この時より前の、昔の感情を思い出してもそれが正確なのかどうかは実は自信がもてない。これ以前の、どこが茫洋とした生はあくまでこの日以降の自分が思い出した自分でしかないから。あの頃、何を考えて生きていたのか、本当のところよく思い出せないのだ。
最初に読んだこの物語については、わたしはH304の言ったように出てくる人物を好きになることはなかった。乱暴で争いに明け暮れ残酷で、好きになりようがなかった。常に争い、求め、嘆く激しい人生がそこにあった。それはけして憧れるようなものではなかった。ここの、わたしの日常とは違いすぎた。会話することすらおそるおそるで、誰かを愛したり執着したりすることなんてありえない生しかこの世界にはない。だから、差異ばかりが目についた。この星の随分昔にあったのであろう危険に満ち溢れた生をただ知りたくて、そして彼らの行く末に何が待ち受けるのか先を知りたくて夢中で読み続けた。
持ち出した一冊を読み終わり、また地下のあの部屋を訪れた。わたしの姿をみかけたようで、H304はわたしが鍵をあけるのに苦労していると歩み寄ってくる。でも、けして開けてくれるわけではなく、後ろでわたしが前に言われたように鍵を使うのをそっと見守っている。そして彼は言う。
「読み終わったかい?次も何か必要かな」
もちろん。わたしは首を大きく縦に振る。苦労したけどなんとか鍵が回り、わたしは来たくてたまらなかったこの秘密の書庫を再び訪れることができた。H304はここの書物をすべて読んでいるわけではないと言いつつ、何冊かを抱えてわたしの前に並べ、簡単に紹介してくれた。どの物語にも飛びつきたいほど引きつけられた。怖いほどの誘惑を感じた。この時はじめて彼は眉根をひそめ、心配そうな顔をした。
「睡眠を削っては駄目だよ。無茶な読み方はやめなさい。物語はけして逃げていかないからね。考えてみればこの厚い書物を今のペースで読むのは無茶だ。無理をしてはいけない、身体をこわすし仕事に影響がでてはあらぬ疑いを招くかもしれない」
その通りだ。わたしは寝る時間をもったいなく感じていた。でも、彼の言う通り長い目でみたらわたしの読み方は危険かもしれない。何かあって誰かの注意をひき、ここに通うことを見咎められることがわたしにとって最も避けたい事態だった。




